見出し画像

2025年元旦に伝えたかった聖書のお話です。

日本基督教団の牧師をしている者です。初noteです。
聖書のお話を知ってもらう一つ方法として、この度、勇気を出してみました。

ちょっと変わった「世界を見る目」の獲得に、こんな聖書のお話は如何でしょうか?

神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。 創世記1章3節
元旦礼拝 「光あれ」

先日の日曜日、2024年最後の礼拝をお捧げした後、私はちょっと遠出しました。牧師仲間の忘年会に参加するためです。

遠方から集まる友人牧師もおり、18時にお宿に集合した後、夕食にすき焼きを頂き、お風呂に入り、そして総勢10名が6人部屋の和室に集まって、年忘れの大宴会です。

例外なく皆、とてもお酒を嗜む人たちばかりだったので、もう尋常じゃない量の、多種多様なお酒が集まりました。ビールや日本酒はもちろん、ウィスキーにジンにワインなどなど。さすがに全てを開けることはできませんでしたが・・・。

で、さぁ、そろそろお開きにしようかと時計を見ると、午前5時という。「自分ってまだまだ若いなぁ」と改めて思いました。それだけ楽しかったということですね。

酒の席です。しょうもない話題で盛り上がり、くだらない冗談を言って笑って。別に牧師が集まるからって、高尚な話をするわけじゃありません。

でも、やっぱり牧師だなぁ、と思う瞬間もあって。

どういうことかと言うと、将来の展望を語るんですよね。と言っても、自分は将来こうなりたい、という自分語りではなくて、将来の教会の姿や、教団の姿や、あるいは、神学部などを含めた神学教育の在り方とか。お酒が入っても、真面目が抜けないと言いますか。

あるいは、別の言い方をするなら「牧師とは仕事ではなく生き方である」とは、ある神学教授の格言ですが、酒席だからと言って教会や神学を忘れることはできない性質なのかも知れません。

まぁ、いずれにしても酒を飲んでぐだをまくのは褒められたことじゃないでしょうが、牧師同士で飲むと、そういう真面目な話題で時間が過ぎていきます。教会を取り巻く現状への鋭い批判もあれば、素直に嬉しいことを嬉しいと言う報告もあり、何だかんだ言って、みんな教会と神様とイエス様のことが好きなんだなぁ、と。

私が言うのもなんですが、そういう風に、キリスト教の将来について朝5時まで語り明かす、20~40代の若手牧師がいますから、教会の将来は明るいですよね、多分。

と言っても、まぁ、実際のところは、教会の将来が明るいかどうかなんて、誰にも分かりません。むしろ、どちらかというと、これから教会って大変なんじゃないか、という見立てがだんだんと鮮明になっている現状です。

少子高齢化の最先端を行く教会。献身者の減少が著しい神学校。

そういう現実を直視すれば、あまり楽観的なことを言ってはいられない。

でも、そういう現実に即した実効性のある対策を考えることと、楽観的な展望をあっけらかんと語ることとは、別に矛盾しないですよね。

深刻な表情で数字やグラフとにらめっこする一方で、「でもまぁ、神様が何とかされるでしょ」と朗らかに笑って過ごすことは、両立し得ると私は思います。

それが、キリスト教を信じる者の強みだと思います。

どれだけ人間が知恵を絞ったって、結局、未来は見えないし、思い通りの筋書きには行きません。不確定要素に囲まれた、私たちの人生や歴史は、常に想定外の出来事によって大きく変化し、人1人の力を大きく超えたところで、安定を取り戻し、日常を形作っていきます。

悲観するにしても、楽観するにしても、すべては神様の御心のままに実現していきます。

であるなら、楽しい方を選んだらいいじゃないんでしょうか。

私たち、キリスト教を信じる者が「祈る」のは、叶えたい将来を言葉にして神様に向けて語ることで、準備運動している感じです。

アスリートが競技前に、色々なウォーミングアップをするように。

「祈る」ことで私たちは、心身の調子を整えて、少しでも好成績を残せるように、目の前の働きに取り組むのです。

楽観的な「祈り」の言葉を馬鹿にしちゃいけません。

世界の平和、病人の回復、差別の解消、経済の好転などなど。

祈ったところで変わるわけないじゃん!という至極当然な正論は、とりあえず脇に置いて、あるべき世界、みんなの健康と幸せを祈ることを諦めないでいたいと思います。

諦めずに祈り、祈りの言葉に自らが励まされ、また、他者の祈りに共感し、力を与えられ、私たちは、この全然楽観できない現実に向き合っていく。

準備運動不足で、ウォーミングアップもそこそこに、この現実に向き合うのは、むしろ酷というものです。

自分を超えて働かれる方のことを知らずに、現実社会に放り込まれるのは、何の服も纏わず、自分を守る鎧を身に着けず、素っ裸で挑んでいくようなものです。無課金ってやつと、ちょっと似ているかも。

どんなに知恵を身に着け、知識に高じても、この世を安心して謳歌するには、心許ない。むしろ、その知恵と知識が、自分と他者の幸せを阻害する原因となる場合もあります。

賢くあることは大事ですが、問題なのは、その賢さを上手く使う術を、私たちは、まだよく知らないということですね。

生きる上での、一つの指針として、聖書を知り、祈りを身に着けるのは、私たちにとって、なかなか大切な経験だと私は思います。

・・・・

「光あれ」と言ったところで、求める光が得られるわけじゃありません。私たちが何らかの光を求めて、一生懸命に努力し、働いても、願うものが与えられるわけじゃありません。

でも、まずは得たいものを、求めるものを、願うものを口に出して言ってみる。祈ってみる。そんなん意味ないじゃんというドライな声を、ちょっと聞き流して、祈ってみる、ダメ元で。

この世界が、神様の発せられる「言葉」によって創られたと言うなら、神様の似姿である私たちの発する「言葉」に宿る力もゼロじゃないはず。

大昔から「祈りなさい」と教えられているなら、「祈り」には何らかの力があって、それは無駄じゃないはず。キリスト教か否か関係なく。

そもそも、私たちが誰かに教えられる前から、「祈り」に似た言葉を知っているなら、それは、私たちが生まれる前から、祈ることの価値を知っているということのはず。

新しい1年を歩み出す今日。私は「光あれ」と祈ります。「こうして光があった」という2025年を想い描いています。

具体的には、様々なご事情で礼拝に来れらない方々がみんな集まって、一緒に讃美歌を歌う2025年とか。

礼拝出席40名以上の日が増える2025年とか。

他にも、無事に教会120周年誌を発行できる2025年とか。

世界の戦争紛争が消えてなくなる2025年とか。

経済政策が功を奏して日本が元気になれる2025年とか。

まだまだ、もっとありますけど、

欲張りに、底なしに、あらゆる類の光を願い求めて、祈ることを続けていきたいと思います。

それは、神様に届くだけじゃなく、私自身の言葉や行いにも、きっと良い影響をもたらすでしょう。祈るって、そういうことです。

諦めず、朗らかに、楽しく、元気に、祈りつつ。2025年も上を向いて歩んで参りましょう。では、最後にお祈りを致します。

神様。私たちは、新年の到来に、新たな希望を感じつつ、今、礼拝の時を過ごしています。過ぐる2024年に頂いた恵みや試練を忘れることなく、それらを糧にしつつ、祈るという準備運動を心得て、2025年もあなたと共に力強く、軽やかに歩んでいくことができますように。自分を愛し、隣人を愛し、平和を愛して、良きキリストの肢として振る舞い。悲しい時には光を探し求め、嬉しい時にはそれを分け合うことを心掛けて、どんな時でも恵みと幸いが見つかることを信じて過ごすことができますように。元日の今日、心に願いを秘める多くの人たちの上に、あなたの豊かな祝福が注がれますように。お祈り致します。

この祈りを、あなたに心を向ける全ての人たちの祈りと合わせて、我らの主イエス・キリストの御名前によって、あなたの御前にお捧げ致します。

ーーーここまで。

お読みいただきありがとうございました。
皆様の健康と幸いをお祈り致します。

いいなと思ったら応援しよう!

手探り牧師
神社にはお賽銭箱が、教会には献金箱があります。いただいたチップは大切に使います。ご支援頂ければ幸いです。

この記事が参加している募集