渋沢栄一や福沢諭吉が百倍になったら、どうしよ。【こういう聖書のお話もあり。】
はじめに
お金は大事です。
そんなの常識です。
でも、こんな聖書のお話は、どうですか?
あっ、教育関連のお話になります。
今回の聖書の言葉
マルコによる福音書4章1~9節
「あるものは百倍にもなった」
ようするに無駄にはならない、ということ。
今回の聖書の言葉は、この小見出しに尽きるかと思います。
どういうことか、と言うと。
教会や幼稚園における、毎日のお祈り、先生の聖話、週毎の礼拝、讃美歌の歌唱、月毎の聖書の学び等々。
これらは定量的な、あるいは具体的な教育効果とか、業務改善とか、そういったものとは、ほとんど無縁な営みです。
祈ったら子どもに成長が見られた、なんて論文はありません。
讃美歌を歌ったら教育効果が増したという、そんな研究もありません。
聖書を学んだら園運営が好転した、と語る経営コンサルもいないでしょう。教会だって、聖書を学んでも心許ない状況が続いています。
世の多くの学校が、進学率や就職率や資格取得率を前面に押し出し「実学」を極める中で、キリスト教の学びである、神学とか宗教学というものは「虚学」と呼ばれ、実学実利とは、はるか数光年の隔たりを保っています。
キリスト教を含めた宗教というものは、人生に彩りを添え、日々の安らぎと励ましを提供するものではあれ、宗教を主軸に据えて、それ一本の生き方は推奨できません。いや、本当に。
正直なお話、教会牧師という職業についても、ミッション系高校の進路指導でさえ「斜陽産業」として取り扱い、大学神学部への進学を勧めない、なんて現実もすでにあります。
宗教界は、今、冬の時代なので、関わるのは程々が良いのかも知れません。
という、お寒い事情がある中で、一部界隈では、数億円という献金を吸い上げるカルト集団が勢力を伸ばし、「おびただしい群衆」を集めては、世間を不安にさせています。
数が多いことが正義であり、それが社会浸透度の判断基準であるとすれば、カルト集団は正しい組織ということになるので、規模や数量で事の善悪を考えるのは、かなり危険です。
「百倍になる」とか「おびただしい」とかいう価値基準でキリスト教を評価したり、実学とか実利という目的でキリスト教に関わったりするのは、そもそも旨味はないし、もし仮に旨味があるとすれば、それは結構な確率で危なっかしいと思います。
あえて断言するなら、キリスト教は、今の資本主義社会にとって、何ら価値はありません。たとえ、資本主義の成立にはキリスト教が不可欠だったという歴史的事実があったとしても。
だから、祈ったり、聖話をしたり、礼拝をしたり、讃美したり、聖書を学んだり、という営みに、何か定量的・具体的成果を求めるのは見当違いです。
もし、そうしたキリスト教的営みが、子ども達の直近の学力的、将来の経済的な好影響を与えるものだと考えているなら、それは改めた方が良いでしょう。目指すべきキリスト教保育・教育は、そうした実学実利には、そもそも不向きなのです。
では、なんで貴重な時間を割いてまで、実学的に全く無意味な資料を読んで聖書について学び、保育を通して子ども達と聖書の言葉を覚えるという営為を続けているのでしょうか。
クリスチャンの数を百倍にするため? おびただしい子どもをこの幼稚園に集めるため?
もちろん、キリスト教人口が増えたら、着実に入園児数も増え幼稚園の実利としては有難いことでしょう。でも、そんなことを考えてキリスト教保育・教育に従事する先生は、どこにもいないと思います。
幼稚園で行っていることは、それぞれに思いを抱き個性を持つ、掛け替えのない一人ひとりを、丁寧に愛するという、とても非合理的で、非経済的で、非多数的な、しかし、とても大切なことです。
この先、否が応でも競争と比較と効率化の社会に放り出される子ども達に、「誰が何と言おうと、あなたは尊いんだ」という、人間存在の一番大切なことを伝える働きをしています。
もし、イエス様が言うように何かが百倍になるのだとすれば、それは愛してやまない子ども達一人ひとりの内に生み出される「嬉しい!」「楽しい!」「ホッとする・・・」「私は大切なんだ」という、そんな感情であって欲しいと思います。
実学実利とは程遠いキリスト教ですが、そんな虚ろな営みであっても、子ども達が、お互いにありのままの姿と成長を喜び合い、称え合い、今日も安心して泣いて、心の底から笑顔で過ごせるなら、十分な価値があるでしょう。
もちろん、この価値は、定量的に数値化できる類のものではありませんが。
だから・・・、
『浅きこころもてことをはからず、みむねのまにまに、ひたすら励め。風に折られしと見えし若木の、おもわぬ木蔭に人をも宿さん』
(讃美歌21 566番 2節)
瞬間刹那の手応えが無くても、子ども達と一緒に祈って、聖書のお話をして、礼拝をして、讃美歌を歌って、聖書を学んで欲しいと思います。その「種蒔き」は、いつの日か、必ず子ども達の人生に、落ち着きと自信を根付かせ、そして笑顔と幸いを咲かせます。
~ようするに無駄にはならないということ~
ーーーーここまで。
虚学とは、よく言ったもので、今の時代、まさに虚ろなキリスト教です。
でも、実学実利に疲れたなら、また覗いてみてください。気楽になれるかも知れません。
今日も、読んで頂き、ありがとうございました。