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ココロの欠けも割れも傷も、全部大事。※聖書のお話です。

はじめに

子どもの頃は、本当に可愛かったんです。
絹なんてもんじゃない、もっとずっと滑らかで柔らかなお肌。
ビー玉みたいにまん丸で、キラキラしたお目め。

そして、一切の穢れと傷を知らない、ツルっツルの心。

なのに、どうして、こんな・・・

「心の貧しい人々は、幸いである」 マタイ5章3節

普通、人から、
「キミは、心が貧しいみたいだね」
と言われたら、
「おっし分かった、ちょっとオモテ出よか」
となります。

まぁ、少なくとも、嬉しくはないですよね。
誹謗中傷の類です。

でも、言っちゃうですよ、聖書は。
つまり、イエス様は。

「心の貧しい人は、幸いである」って。

いやいや、ちょっと、いくらね、逆張りっていうか、奇を衒うっていうか。そういう「世間と反対のことを言って、みんなに気付きを与えるんだ」みたいな、言い回しが、バズるって言ってもね。
さすがに「心が貧しい」ってのは、やっぱり無いですよ。

一体、それってどういう理屈なんだっていう。

多分、こういう理屈

結論から言うと、
「貧しい」=「空乏がある」=「隙間やヒビがある」
ってこと。

だから、言い換えると、

「心に隙間やヒビがある人は、幸いである」

じゃあ、最初から、そう言えばいいのに・・・。

その辺りのことは、「山上の説教」および「平野の説教」という言葉を調べてみてください。
聖書の成立背景と合わせて、「貧しい」という言葉の選択理由も、ちょっと分かるはず。

話を戻して。

「心の貧しい人」=「心に隙間やヒビがある人」
と言うのは、なんとなく腑に落ちるとして、
じゃあ、それは一体誰なのか。

聞いてください、皆さん。

皆さんの中に、ツルんと剥けた茹で卵みたいな、
そんな心をお持ちの方って、いらっしゃいますか?

生まれたままの滑らかで、
開封の儀直後のスマホの画面みたいな心の人っていますか?

いたら拍手。
すぐにでも、ゴリラガラス製のフィルムを纏わせてあげたい。

多分、みんな、
真剣に生きればこそ、誠実に歩めばこそ、
その心には、傷やヒビ割れや、隙間や、窪みや、欠けや、
溶解したり、焦げ付いたり、貫通したり・・・。
色々、刻まれているかと思います。

と言うことで、残念。

心の貧しい人とは、あなたのことです。
まぁ、私もですけど。

だから幸いである

ちょっと込み入った話をすると、
日本語にも、幸いを意味する言葉が多々あるように。
例えば、幸福、幸甚、僥倖、悦楽、極楽、恐悦などなど。

この聖書の言葉の原語である、ギリシャ語にも幸いを意味する言葉が、いくつかありました。

そして、今回使われている「幸い」という言葉を、ギリシャ語に遡って紐解いてみると、

「神々が享受する幸い」

って意味が明らかになります。えらく大袈裟な表現が出てきました。

どうですか、どうですか。
いいんですか。

心の貧しい人が、「神々が享受する幸い」を手にしても。

いいんです。別に、誰かに迷惑かけるわけじゃないから。

聖書は、古くから「打ち砕かれた心の人に命を得させる」と言って、心に傷やヒビ割れや、隙間や(以下略)がある人に、特別の関心を払ってきました。
神様の祝福があることを伝えてきました。

熟練した職人の手指に、その技巧と価値が刻まれ、尊ばれるように。
一生懸命に生きて来た人の心に刻まれた、経験の痕跡は、神様によって祝福されるのです。

よく頑張ったねって。偉いねって。凄いねって。

昔も、きっと沢山いたのでしょう。
人知れず努力し、人知れず貢献し、人知れず悔しくなり、人知れず泣いていた人は。
心に空乏を抱えて、貧しさを湛えていた人は。

そんな人たちのことを、神様は見つけ出し、イエス様は呼び止めて、「心の貧しい人は、幸いである」と教えてくれました。

そこには、敬意と尊重、愛と慰め、祝福と励ましが込められています。

誇って行きましょう、その貧しさを!

苦労自慢は、良くないですが。人に嫌われるので。

でも、もしも、大きな苦労と悲痛を経験しているなら、それは特別に祝福される功績があるということです。胸を張れることです。素晴らしいってことです。

今よりも、さらに健康で幸せな人生を諦めないためにこそ。
「心の貧しい人は、幸いである」という聖書の言葉を、ちょっと心の片隅において、頑張ってみたいと思います。

日々、努力し、逞しく生きる全ての人たちの上に、大きな恵みと幸いが注がれますように。
心よりお祈り申し上げます。

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手探り牧師
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