8/5 わからないに対して思ったこと
今日ふと自分は、何か「わからない」ものへの恐怖が強いのではないか、と思った。
勉強をしている場面では処理の趣旨がわからず自分で理解と再現ができなかった問題があるとイライラし始めることがあるし、自宅にいる時は個人的な恐怖の対象である父(いつか家族について思うことも書き留めておきたい)が寝ているか(≒意識がある状態か否か)わからないとすごく不安で食器や箸を机に置く音や電子レンジのボタンを押す音をたてるのすら怖い。私がたてた物音のせいで起こしてしまうあるいは起きてきてリビングに来るのではないかという不確定性がとても怖い。
多分私がここまで不確定性、わからなさを怖がるのは生まれ持った気質的な要因の他に幼少期にいじめられていたことにも起因するのだと思う。
あの頃とにかく嫌なことをされるが何故かという理由が全くわからずかつ親を含め誰に相談することもできず…と言った状態で、そんな大袈裟なものではないけれどこれによって受けた傷(というより嫌だという感情?)がわからないことの恐怖の根源なのではないか?、という考察を。
ここまで考察して人間誰しも理解できないものへの恐怖はあると思うが、それをここまで恐怖に思う人と面白い!とポジティブにとらえられる人の違いについて考えた。多分過去に「わからない」にどうやって対処してどのような感情を覚えることが多かったか、というシンプルな学習の問題なのではないかと。つまりわからないに対してなんらかのアクションをしてわかるにしたことで何か得をしたという体験が多ければわからないをポジティブに捉えられて、反対にわからないことで何らかの不利益を被る体験が多いとわからないに対して恐怖を覚えやすくなるのではないか。
ここまで考えて私は個人的なお気に入りの本である『butter』の作中で、梶井は王道のクラシカルとそれ以外を混ぜてもいいがそれができなかった、多分そういう自分に絶望することもあったのではないか、と言った内容の文があったこと思い出した。
作者の意図や他の読者の解釈は当然わからないけどもしかして梶井は妹に危害を加えた性犯罪者を、料理教室の生徒さんたちを理解できずわからなかったからわからないことへの恐怖が無意識敵に存在して理解のできるもの(≒王道のクラシカル)とわからないもの(≒その他の新しいスタイル)を混ぜることを嫌がったのではないか、と。
そう思うと分からないことの恐怖を乗り越えるためには
①少しずつわからないをわかるにしていくこと②過程をクリアにしてまとめること③結果としてどのような利得を得たのか記録しておくこと
が有効なのではないかと思った。分からないへの恐怖は無い方が未知の体験にも躊躇わず飛び込むことができて結果として多くのものを得る可能性が高いのでこれからは意識的に自分のわからないからわかるの過程と結果について記録して行きたい。