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「子供は授かり物だから」の残酷さ
「子供は授かり物だからね」
その通りだと、私も思う。
この言葉自体には何の棘もないし、
言った本人にも何の悪意もないのだ。
だが私は、この言葉を聞くといつも
胸が握りつぶされるような感覚を覚える。
私は壮絶な不妊治療を経験したわけではない。
ただ、子供が欲しいけれど訳あってきっと諦めなければならないだろうな、、という身だ。
その私でさへ胸が詰まる思いがするのだ。
欲しくて欲しくて、身を乗り出し、掴もうと必死に伸ばした手を、大きなハサミで「ジョッキン」と切り落とされるような、そんな光景が頭に浮かぶ。
「子供は授かり物だから」
持てない私は、授けられるに値しないのだろうか。
授かる権利のない人間なのだろうか。
授かったあの人と私に、一体どんな差があるのだろうか。
そんなどんよりとした影が、じっとりと体に張り付いて、少しずつ浸透していくような感覚だ。
もちろんこの言葉が「お前は一生授からない」と言っているわけではないと分かっている。
「今授からないのはまだその時ではないのだよ」と、肩の力を抜いて楽に、遠くの景色を見るように促す意味であることも。
その上で、思う。
全く同じ言葉でも、救われる人と傷付く人がいて、この言葉は、人知れず怪我人を出すほどの凶暴性を確実に兼ね備えていると。