5月と6月と10日間
みなさん。こんにちは。兼子です。
忙しかったり、コロナにかかったりしたので、なかなかnoteを書けませんでした。
元気になりましたので、やっと書けました。
5月の出来事と、コロナ療養の時のことを書きたいと思います。
恩師と笑いと教育
5月初旬、かなり前ですが、僕が「お笑い」を志すきっかけとなった、中学・高校の恩師とお話する機会がありました。
その先生は、高校卒業ぶりの、急な連絡だったにもかかわらず、二つ返事で、ノーテクノロジーの単独ライブを見にきてくださいました。
当時は、英語教師で、現在は、大学で英語教育の准教授をされていました。
先生とお会いし、先生のおかげで、今、お笑いをやってることへの感謝も伝えられました。
僕の「今の年齢」と、先生の「当時の年齢」が同じくらいで、びっくりしました笑
時の流れ。僕は、この歳で、まだ学生の延長みたいな生活してますよ。
なぜ、その先生が、お笑いのきっかけかというのは中学生の時、先生が「お笑いの授業」を開設してくれたからです。
僕の通っていた、学校は新設校だったので、自由な校風で変わった授業がありました。
先生が専門以外で「教えること」が出来るものを生徒に授業する時間がありました。
空手が出来る先生は、空手の授業、習字が出来る先生は習字の授業を開設し、それを生徒が選んで受講するというものでした。
その中で、「THE 笑い」というふざけた名前の授業を開設してくれたのが、先生でした。
もちろん、先生はお笑いを教えたりしません。
ただ好きなだけです。
先生が「面白いものを見たいから、みんな面白いものをやって!」という内容の授業で、「場を提供する」という授業でした。
僕は、まんまとその授業を受講し、中学2年生で、人を笑わせる楽しさを知りました。
そして、紆余曲折へて、現在に至ります。
そんな恩師から、直接、ライブの感想をきけて、非常にうれしかったです。
その中で、教育的視点からみても、面白い部分があったという話になりました。
よく考えれば、大学の准教授に感想を聞けるなんて、普通ないですよね。
これは幸運ですね。
そこから、「笑いの持つ教育的価値」についての話になりました。
先生は、「笑いはすごく教育的価値が高い」と昔から考えていたようで、その結果、「THE 笑い」という、ふざけた授業も開設したとのことでした。
先生は、大学の講義でも、意図的に「笑い」を意識した授業を行っているそうです。
大学生に、二人一組で、「英語の会話劇」をみんなの前で発表させる授業をするそうです。
その時、「俺を笑わせて」という課題を生徒たちに与えるそうです。
しかも、「面白くなかったら、悪い成績つけるから」という脅し文句も添えるそうです。
大学生にとって単位とは、ルフィにとっての麦わら帽子です。
恩人の、腕が食われるくらい、大事なものなので、失うわけにはいきません。
生徒は、必死にならざるを得ません。
受動的な授業態度から、アクティブ・ラーニングへと、シフトせざるを得ないのです。
「俺を笑わせろ」という、注文を受けた生徒は、ただの「英語の会話劇」という課題を、「英語を前提とした、高度な表現」に課題を広げて考えなければならないのです。
先生曰く、大半の生徒たちにとって、そこで初めて、
「人を笑わせるとは、なんだ?」という疑問に直面することになるそうです。
普段、当たり前に行われている、「会話」や「コミュニケーション」というものを、
「笑いとはなんだ?」という「問い」によって、生徒たちは、自分たちの頭で考え、その答えを探していくのです。
僕は、この話を聞いて、ハッとしました。
教育とは、「答え」を教えることだけではないのだと思ったからです。
本当の教育とは、生徒たちに「問い」を与えることなのだと。
しかも、先生は、分かりやすい問いを生徒に与えていません。
「笑わせて」という課題が「問い」になっているわけです。
素晴らしい教育者は素晴らしい問いを生徒たちに投げかけるといいます。
「問いを学び、問いから学ぶ」わけです。
だから、「学問」と書くのです。
「素晴らしい問い」に対して、答えは一つとは限りません。
なので、その「問い」に向き合った生徒たちの「答え」の出し方は、十人十色となります。
ある生徒は、大声を使って、みんなを笑わせようとしたり、
ある生徒は、オーバーなボディランゲージを使ってみたり、
また、ある生徒は、英語の言い回しなどのワードセンスで笑いをとりに来たりと、バリエーションがあるそうです。
先生としては、普段の生徒たちのキャラを知ってる分、
「あ、この子はこういう笑いの取り方をするのか!」という面白さや発見があるそうです。
なので、先生は、生徒たちのどんな表現も、基本的に笑うようにしていると、言っていました。
ぼくは、ここにも、この授業のすばらしさがあると感じました。
「笑い」とは、その場で、即フィードバックがもらえます。
つまらなかったら、誰も笑わないし、面白かったら、笑いが起きます。
それだけ、評価基準がシビアなものです。
手応えは、すぐわかると思います。
それゆえに、笑いが起きた時の喜びが大きいわけです。
笑いは、人間の承認欲求を満たしてくれます。
つまりは、快楽です。すごくきもちいいものです。
大半の大学生は、人前で笑いを取りに行く機会はめったにないと思います。
なので、非常に緊張すると思います。勇気がいります。
しかし、先生は、基本的に、笑ってくれます。
ということは、生徒たちにとって、自分が、面白いと思って、表現したものを笑ってくれる人が、その場に絶対に、一人はいるということになります。
先生は「笑う」という行動を通して、生徒を認めてあげています。
これにより、生徒にとって「ウケた!」という感動が必ずありますし、なにより、達成感があります。
こんな、脳の報酬系にまで、刺激を与えてくれる、素晴らしい授業があるでしょうか?
先生が言うには、「この授業のおかげで、一皮むけました!」と言ってくる大学生がいるそうです。
こんな面白い授業してたら、そりゃ生徒は楽しいと思います。
なので、先生のゼミには優秀な生徒が集まってくるとおっしゃっていました。
しかも、教員志望の子たちが多いそうです。
先生の教育者としての「イズム」を受け継いでくれた生徒が、全国で教師になって活躍する。
これは素晴らしい話だと思いました。
僕も、その教育が生み出した生徒の一人なんだと、嬉しく思いました。
神戸とうなぎ
こちらも、5月中旬の話です。だいぶ前です。
単独ライブで音響をやってくれて、ネタのアドバイスもしてくれた、後輩の神戸に感謝を込めて、うなぎを食べに行きました。
このうなぎは、みなさんが、有料noteを買ってくれたり、サポートしてくれたお金で、食べに行けました!!
本当に、みなさん!心から、ありがとうございます!!
無一文からの大逆転、うなぎでした!!
神戸は、お店にいって、うなぎを食べるという行為が初めてだったらしく、
「大人になってから、食べ物で久しぶりに、感動した」と言っていました。
これは、自分で言うのなんですが、
最高のお金の使い方ですね。
感謝と喜びにお金を使えることは幸せです。
神戸とは、ちゃんと、単独の話を聞けてなかったので、やっと、時間をつくれました。
単独で、何曲かビートルズの曲を使ったのですが、
あれ以来、神戸に空前のビートルズブームがきていて、アルバムを全部を揃えたと言っていました。
詩集まで買ってました。すげえ、笑いました。
有料のnote記事にも書いたのですが、単独でやった「関西弁のネタ」は、本番1週間前に、準備してたネタを全部をぶっ壊してできた思い入れのあるネタです。
本番間際に、僕の書き直した台本を神戸がすぐ読んで、感想をすぐに電話してくれて出来上がりました。
本当に感謝してます。
この話をすると、「相方のばくすずきに、感想きけばいいでしょ!コンビなんだから!」と思う方いると思いますが、
甘いです。
ばくすずきという男をわかってないです。
彼は、ぼくがネタを書き直して送っても、一切リアクションしなかったんですよ。(笑)
本番直前に、既読無視です。
たぶん、台本、読んでないです。
あの時は、もう、このnoteというプラットフォームには書けないレベルでムカつきましたね。
「公序良俗」って、吐瀉物で殴り書くレベルの悪態つきたかったですね。
だから、神戸には大感謝してるわけです。
単独のアフタートークで、不満をばくに言ってたら
かが屋・加賀さんに、
「過去のことを持ち出しちゃダメだよ」と言われ
「すずきくんが対等に話せなくなっちゃうから」と優しく諭されました。
僕は、あれからこの言葉を胸に生きてます。
加賀さんというアメリカの傘に隠れる、スズキという日本ですよ。
加賀さんが「抑止力」となって、ノーテクノロジーは平和を営んでます。
話を戻します。
神戸とうなぎを食べながら、
「改めて、単独お疲れさまでした」と言われました。
あっという間に、時間は流れます。
うなぎを食べてから、さらに、1か月たってます。
あの時は、もう、打ち上げを、ささやかでもいいから、すぐやればよかった!!!と、ものすごく反省しました。
今回、僕が、疲労困憊で、頭痛もしていて、ライブ後、打ち上げをしませんでした。
次は、すぐに打ち上げをして、すぐに、エヴァの最後みたいに、1人ずつ、みんなに囲まれて、拍手しながら「お疲れさま」って言いあいたいと思いました。
そんなこんなで、うなぎを食べ終わった後、
神戸が新しい机を買いたいというので、ホームセンターにいきました。
ホームセンターで、お目当ての大きさの机を見つけた神戸。
この机で「自分の家は完璧になる」と、彼は言っていました。
机はそこそこの大きさだったので「配送してもらうのかなー」と思っていたら
自衛隊出身の神戸は「これくらい一人で持てますよ」と豪語して、歩いて、机を家まで運ぶことになりました。
そして、意気揚々と机運ぶ、神戸。
「自衛隊では、もっと重いもの持ちますからね。」と彼は晴天の中、1人行軍していきました。
この日は、夏はまだ来ないといっても、湿度が高く、汗が噴き出すほどの暑さでした。
僕は「こんな暑さの中、こんな重いもの持てないよ。」と、
机は持たない代わりに、
神戸に対するリスペクトだけを持つことにしました。
坂道をくだっていく神戸。
後ろからついていき、すごいなぁと、感心する兼子。
すると、神戸は「いやぁ〜。暑いですね。」と
赤信号でポツリと言いました。
その後の記憶は、曖昧で、定かではありません。
走馬灯をみていたのかもしれません。
汗で、シャツと地肌がくっつく、不快感だけを覚えています。
黒い靴は、暑さが、靴の中にこもるんだなと、気づいたことも覚えています。
逆にそれくらいしか思い出せないのですが、
気づけば、僕は神戸の机を持っていました。
「1人でいけますよ」と言っていた彼は、戦死したのか?
そういえば、「帰ったら、ワイフのいれたコーヒーが飲みたい」と言っていたような気もしました。
首に、金のロケットをぶらさげて、写真にむかってキスしてた気もしました。
後半から、手伝っていたような気もするし、最初から手伝っていた気もします。
そもそも、神戸と出会った時には、すでに僕は「先輩」ではなく「持ち手」だったのかもしれません。
この写真から言えることは、神戸のこの笑顔は、
「後輩」が「先輩」に向ける無邪気な笑顔ではないということです。
これは、「作業効率が劇的に改善した時」の笑顔です。
洗濯機が普及し、「もう洗濯板でゴシゴシしなくていいのね」と喜ぶ昭和初期の奥様の笑顔がこれに近いと思います。
まさしく「こんなに楽でいいのかしら」の顔です。
まぁ、しょうがないことです。
神戸の部屋を「完璧」にするためですから。
一つ言えることは、
「何かを完璧に近づけるためには、やはり、一人の力では限界がある」ということですね。
ありがとう。神戸。
ばくすずきの引っ越し
第1回単独ライブを経て、得た教訓としては、
ばくすずきは「横浜の実家を出て一人暮らしをするべき」ということです。
単独前の数か月、本当に忙しくて、ほぼ毎日、ばくと会っていました。
それだけ、密にネタを合わせました。
そこで、やっぱり離れてると不便だなーと感じました。
物理的な距離は、やっぱり、どうしようもないです。
ばくすずきが引っ越しを完了させたら、第2回単独ライブをやろうと思っています。
僕は5月頭には「11月までに引っ越してよ」とばくに頼んでました。
理由は、11月に引っ越せたら、11月末に第2回をして開催して、年2回のペースで単独ができると思ったからです。
そして、5月29日「かが屋」さんの単独ライブを見学させてもらいました。
正直、超、面白かったです!!
「ネタが面白い」ってこんなすげぇことなのかと、「お笑い」「コント」という王道でぶっ叩かれた気持ちになりました。
観劇後、僕は、興奮してしまって「やっぱり早く単独やりたいなー」と改めて思いました。
きっと、すずきもそう思ったに、違いないと思いました。
その帰り道、一緒に見学した、作家さんと3人で、
「ノーテクノロジーは第2回単独ライブをいつやるか?」という話になりました。
僕は、「ばくの引っ越しが終わったら、やる予定です。」と伝えました。
作家さんも、「確かに、今後を考えると、すぐ引っ越した方がいいね」と同意してくれました。
すると、ばくすずきは、二枚目俳優みたいな涼しげな顔で
「はい。年内には引っ越す予定ですね。」と言いました。
「11月じゃないんかい!!」と僕はつっこみました。
そんなこんなで、早めに単独をやりたいことを、かが屋さんの単独を見た後に、何度も、すずきに伝えていたら、
なんと、あのばくすずきが、日雇いの夜勤のバイトをするというじゃないですか。
僕は、夜勤を自分が出来る気がしないので、そこまで本気で引っ越しを考えてくれたのかと嬉しくなりました。
軽いネタ合わせの後、「近くの雑居ビルで面接がある」と言い、颯爽と面接へ向かうばくすずき。
「夜勤は大変だから、無理しないでね」と伝える兼子。
「大丈夫。短期だから」と、いつもより、キレイめなシャツを着て、面接へ向かうばくすずき。
「こっちもいいネタを書かないとな」と気を引き締めて、やる気を出した兼子。
そして、その夜「面接官と喧嘩になって、不採用になった」とラインを送ってきたばくすずき。
めちゃくちゃ、笑った兼子。
「しっかりしてくれ!!ばく!」と思った兼子。
不服そうなばくすずき。
そして、次の日、39℃の熱が出て寝込む兼子。
「しっかりしてくれ!おれ!」と思う兼子。
と、こんな感じで、いきなりコロナになってしまいました。
39℃は、小さいころインフルエンザにかかったとき以来の高熱でした。
久しぶりの高熱に浮かされながら、インフルエンザにかかった、当時のことを、思い出しました。
インフルエンザと兄への期待
たしか、小学校高学年だったはずです。
あの時も40℃近い熱が出てしまい、インフルエンザの症状を抑えるために、タミフルを服用しました。
そして、夜中、誰かに追われる(殺される)幻覚を見たんです。
当時、タミフルは幻覚作用と、異常行動がでるって有名でした。
※今、調べたら、タミフルと異常行動の因果関係はないと2018年に厚労省が発表してました。
しかし、あの時、僕は、寝室で「この部屋にいたら誰かに襲われる」と恐怖を感じ、夜中に、裸足で家を飛び出したのです。
そして、100メートル以上先の、大型マンションのエントランスの隣の、植え込みに隠れました。
「見つかったら、殺される」
そう思い込んで、体を震わせながら、背の低い木の間に身を潜めていました。
子供ながら、「死の恐怖」というものが本能に刷り込まれている。そう感じるほどに怖かったのを覚えています。
30分ほど隠れていたような気がします。
隠れているうちに、だんだんと、おぼろげながら、夢と現実の区別がついてきました。
僕は、「あれ?いま、自分は何から逃げてるんだ?」と、ふと思いました。
「さっきまでは、夢を見ていたのか?」
ただ、家から逃げてきたことと、真っ黒な足の裏、さっきまで感じていた恐怖は、リアルなわけです。
半信半疑で「最悪、捕まっても、襲われてもいい」と意を決して、家に帰ることにしました。
家に戻ると、当時、中学生だった兄貴が、深夜にもかかわらず、真っ暗な部屋の中でパソコンをいじっていました。
電気を全て消した暗い部屋だから、デスクトップの光で兄貴の顔だけが白く光っていました。
兄貴が夜中までパソコンをいじっていたのは、いつもの光景だったので、
それをみた瞬間、安心したのを覚えています。
「自分は、誰にも追われてなかったんだ。あれは夢だったんだ、、、。」
安堵しながら、高熱でふらふらと寝室に戻りました。
そして、布団にもぐって寝ようと思ったときに、
「あれ?」と、頭の血管が脈打つような感覚に襲われました。
僕の家は、リビングと玄関の間にパソコンが設置されていました。
なので、外へ出るときは、兄貴のいたパソコンの前を経由しなくてはいけません。
自分は、何かに追われ、逃げることしか頭になかったので、家を飛び出すとき、兄貴がパソコンをしていたことは、視覚の端にあるくらいで、ほとんど意識していませんでした。
思い返せば、「いたかもな」という感じです。
しかし、兄貴は、ずっとパソコンの前に座っていたわけです。
なので、高熱で寝込んでるはずの弟が、血相を変えて、夜中に家を飛び出していった、という異常行動は絶対に目の当たりにしてるわけです。
しかも、飛び出してから、僕は30分以上、外から帰ってこないわけです。
布団に入りながら、僕の脳裏には
「夜中に弟が、裸足で家を飛び出して、帰ってこないにもかかわらず、兄貴は、その間、ずっとパソコンに夢中になっていた?」
「あれ?追いかけるとか、親を起こすとか、いろいろやることあったんじゃないか?」という、疑問が次々に浮かびました。
しかし、39℃の熱でオーバーヒートした脳では、うまく処理できず、その日はそのまま、泥のように眠りました。
次の日、母親に「昨日の夜中、幻覚を見て、家を飛び出したこと」と「兄貴が深夜までパソコンしてた」ことを伝えました。
母親はかなり驚いた様子で、心配ししてくれました。
その様子に、僕は、昨日のうまくまとまらなかった疑問を伝えてみました。
「普通、こういう場合、お兄ちゃんは、追いかけたり、親を起こしたりするよね?」と。
母は、「当たり前でしょ!」と強く肯定しました。
ぼくは、「やっぱそうだよな。これが正常な判断だよな」と自分の正しさに確信を持ちました。
そして、母親は、兄貴に
「あんた、昨日、健太が夜中、外に出たの気づいたの?」と聞きました。
すると兄貴は「うん」と言いました。
そのあと、兄貴は言い訳などを並べたてて、自己弁護をはかるのかと思いました。
しかし、彼は、それ以上、何も言いませんでした。
「うん」の一言で、母と長男の会話が終わったのです。
僕は、兄貴のこの言動に対して、母が、一呼吸を置いてから
「なんで健太を心配しないの!?」と烈火のごとく怒ると思いました。
しかし、母親は、兄貴には何も言わず、
僕に一言、「あいつには何も期待するな」とつぶやき、違う部屋へ消えました。
あの時の「残念な息子を生んでしまった」そんな悲しみをたたえた母の横顔を、僕は今回の高熱で思い出しました。
「兄貴には期待するな」と小学生で、母に教わり、
なんとなく兄に期待しないで今まで生きてきました。
しかし、この10日間の療養で働けず、予定していた収入がなくなった僕は、
クレジットの引き落としが足りませんでした。
なので、母の教えに背き、期待を込めて、兄貴にお金を借してほしいラインを送りました。
すると、2万円を貸してくれた兄貴。
もちろん、できるかぎり、早めにお金を返したいですが、
兄貴には「ありがとう」という言葉とともに
「僕にも何も期待するな」という言葉を伝えたいです。