ノート屋として、どんなノートを創っていきたいのか
あの日たまたま本屋で見つけた、アートブックみたいなノートが作りたい。
その本は雑誌だった。
だから一点物のいわゆる「芸術作品」ではない。
発行部数5000の、複製物としての出版物だ。
だけどそれはこだわりの印刷方法で刷られていて、一冊一冊微妙に全部異なるらしい。
開くページ開くページで読者の神経の先っぽを、ふわりと開かせるような、
色やら写真やら言葉やらで溢れていて、
全部のページを見終えてしまうのが、惜しいくらいだった。
それは、複製物として、雑誌として、ある程度のラフな扱いに耐える、
物体としての強さだったり、ちょうど良い程度の貴重さを持っている
(ものすごく貴重な本、というわけではない)。
だけどその唯一無二という性質のせいでか、持つ者にどこか丁重さを求めてくる。
持ち上げる時だったり、ページを捲る時だったり。
その動作は、その雑誌に対する尊敬の念の現れなのだと思う。
そしてこの雑誌が何より私に訴えかけてきたことは、
それがモノとして、その存在が果てしなく愛おしく感じられる、ということ。
私が作りたいと思ってきたノートは、こんなノートだった。
道具としてのノートだから、毎日持ち主にいろんなところに連れて行かれる。
無造作にカバンの中に放り込まれたり、
汗ばんだ手で長い時間握られていることだってある。
そういう状況にはちゃんと強く耐えてほしい。
でもその結果、薄汚れて、傷んで、終わりへと近づいていくんじゃなくて、
持ち主にとって、もっともっとかけがえのない存在、できる限り長く付き合っていきたいと思ってもらえるような存在になってほしい。
一方で、ただただ無造作に扱われてその機能的な役割を全うするだけではなくて、
表紙やページに目を落とした持ち主が、
その度にどこかハッとするような、
ワクワクするような、
新しいアイデアが湧いてくるような、
「明日も生きるのが楽しみだな」、と思えるような、
そんなデザインを帯びていてほしい。
そしてその結果、持ち主からちょっと尊敬されて、
ちょっとでも大事に扱ってもらえるような存在になってほしい。
そして何より持ち主にとって、
ずっと手に持っていたいような、
ずっと見つめていたいような、
ページを何度も行ったりきたりしたくなるような、
モノとして愛おしく感じられるような存在になっていってほしい。
まだこの全てをこのLABOで作られるノートが体現できてはいないかもしれないけれど、
その時々の最高の形のノートを、みんなに届けることができたら。
そして少しでもみんなの日常を特別にすることができたら。
それ以上の喜びはないです。
NOTEBOOK LABO.
MK
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