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おじについて。

伯父が亡くなったしらせは、兄②から届いていた。
メッセージに気付いたのは二日後。
父の兄弟は数人おり、今回亡くなったのは伯父➀。
そして、最近電話や手紙の調子がどうにもよろしくなさそうで、以前から私が会いたかったのは伯父②。

伯父②は昔から私たち家族を気にかけていて、というのも父の大学費用を支払ったのがどうやらこの人だったらしく。最愛の末っ子である我が父、の、こどもたちは可愛くて仕方なかったのだろう、めったに会えないかわりに時折古い段ボール箱に様々なものを詰めて贈ってくれていた。古いおもちゃ、雑貨、なにかのオマケ、昔のお金、自衛隊にいた頃使っていた帽子、かびたブーツ。それはそれは美しい字で書かれたメモを添えて。どれもこれも小学生の私たちには魅力しかなかった。不定期宝箱便。贈物の楽しさや愉快さを、私たち兄妹はあそこで培ってきた、と思う。母にはどうにも受け入れられない送りものだったみたいだけど。そりゃそうだ、母さんから見たらほとんどがごみのようなものだもの。
父が言うには、伯父②は離婚後、当時小学生だった子供たちに会っていないため寂しいのだろう、とのこと。なるほど、私の子供たちにもあの頃同様いろいろと贈ってくれるのはそれもあるのだ、きっと。

末っ子に親戚情報が回ってこないのは今も昔も同じらしい。父も末っ子で、80歳近い今でもター坊と呼ばれる。おれぁ知らない、の姿勢はもしかしたら父が末っ子で、家族の内部事情を教えてもらえず悔しい思いをしたことが多かったからなのかもしれない。

さて、そもそもは、藝大祭ついでに東京の伯父②に会おうと私が彼に電話をしたのがはじまりだった。我が子が園児の頃にコロナが始まり、そんななかでも変わらず楽しげな贈り物をくれていた伯父②。結婚のお祝い、お中元にお歳暮、なんてことない手紙。美しい字に返す葉書は緊張して投函の頻度は減り、子供、仕事、園、の毎日の中で子の写真を見繕って印刷してお手紙を添えて出すのはやっぱりなかなか難しく、印刷した写真が一年前のもの、なんてこともあったり。そんな状態だったから、会ってお礼を言いたかった。ずっと。
コロナが落ち着き、夫の親戚にも家族で会いに行って元気ですよって伝えて、じゃあ次は私側の親戚だね、というただそれだけの話だった。伯父②のお手紙が最近似た内容で連続して届いたりしていたから、元気なうちにというのもあったけれど。
で、私からの電話を受けて伯父②は父へ電話したようで。嬉しいけれど駅まで迎えに行くよ、的な。

父は元々親戚付き合いが好きではなく、今回も伯父②に、車椅子なんだからやめろ、と言ったそうな。(実のお兄ちゃんなのにその言い方どうよ。)(私はこの時点では、伯父から手押し車での移動と聞いていた。)(日々の生活が手押し車での移動、というのがどれほど大変なのかは、今でもよくわからないけれど。)

結局伯父②が、本当に最寄り駅まで来てくれるつもりだったのか、父に電話することで私が行くことをやんわり止めたかったのかはわからない。正直、わかりたくない。だって私はその時しっかり傷付いたし、年老いた自分を見せたくない気持ちなんてわかんないもん。会いたい時に会わないなんて信じられない。そんなことしてたら次に会えるのはお葬式になっちゃうじゃん。

って思って兄①に電話をして泣いて、兄①同伴で兄①運転の車で会いに行くことにしてもらった。どこまでも末っ子な自分。

兄①(長男)は、以前からバイクが好きで、伯父②にバイクを譲ってもらったり、伯父②の近くに住んでいた頃には時々顔を見せたりしており、独身の頃からやり取りがあったので、その兄①が父と話をして決めた。

さて、では来月に、と話がまとまったところで、伯父①が亡くなったとのしらせ。兄②より。はい、冒頭に戻りましたね。

葬儀には父母だけで行くつもりだったみたいだけど、伯父②が親戚に連れ添ってもらってお通夜から行くとのことだったので、私と兄もお通夜のみ行くことに。伯父②の顔を見るために。


行って、良かった。
行けて良かったし、行かせてくれたんだろうなと思った。でも父に、行かせてくれてありがとうなんて言いたくなかった。

みかねた伯父①が、私達を会わせようとしてくれたのかもね、と夫には言われた。

そうかもしれないしそうじゃないかもしれない。どっちにしても、伯父②に会えた事実。

もう、私たちのこと、よくわからなくなっていたけれど、私は会えて嬉しかったんだよ、お父さん。

伯父②や父の本心はきっともうずっとわからないだろう。
いつかわかる日が来るのかもしれないけど。

私はこうして、大人たちに大人にさせてもらった、って話。老いや死を、少しずつ少しずつ、かみさまが私に、教えている。