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社会的なつながり

大学卒業してからというもの友人が増えていない自分なりに社会的なつながりを考えてみました。

社会的なつながりへの期待

いま多くの政策分野で、社会的なつながりづくりや地域づくり、ソーシャルキャピタル(社会関係資本)といったものの必要性が強く訴えられています。(ちなみにこの論考では社会的なつながりは、家族や親族を超えた幅広い関係、その中でも特に直接的に顔を合わせる間柄、くらいの意味でとらえています。)
福祉分野で言うと社会的フレイルが健康に影響することが指摘されています。逆につながりを充実させることがその地域の健康増進につながることが大規模な社会疫学の調査で示されています。
介護、障害、子育て支援、生活困窮といった主要な福祉分野では、「地域づくり」に関する事業が設けられていますし、重層的支援体制整備事業のなかでも取組みの必要性が強調されています。

経済的な困窮状態に陥り身近に頼れる人もいない。ひたすら耐えるような暮らしの中で心ぼそさ・不安がつのり、理由もなく涙があふれてしまうような状況にあるのに相談をすることを拒否されることがあります。
ある人は、誰と知らない人間に自身の自慢できるでない生活の内情や苦しい内心を話すことは受け入れられないと片言の日本語で切々と訴えました。
外部から見れば支援が必要な状態と考えられるが、それを容易に受け入れがたい人がいることは現場では珍しくありません。
もし身の回りに心許せる人や心休まる居場所があれば、生きづらさはきっと減らすことができる。そしてそうした機会が支援につながる社会をデザインする。それが重層的支援体制整備事業で求める姿です。

つながりの難しさ

さて、あのとき相談が嫌と話していた人が私に身の上を語ってくれたのは、その方にとっての私は、たまたま申請書類を受け取った人間に過ぎず、支援者ではなかった(みなされてなかった)からでした。
支援を行うにあたって、支援者が被支援者の抱える問題を支援対象化する所作がありますが、被支援者の方はそうした支援者との関係に苦しさを感じるのではないかという指摘があります。
解決する対象として生きづらさを仕分けされることがしっくりこない。それは当人にとって違和感がある。というだけでなく、人生の困難は相互に関係し合っている状態が当然なのだから安易に解きほぐそうとするのでなく、あくまで「全体」として受け止める姿勢が必要だともいわれます。
この文脈において、身近に(つながりうる)非支援者の立場の人がいることは救いの希望もありますが、福祉分野で求められる社会的つながりはかなり重たいものです。
みぞおちの奥がキュッとするあの感情を、社会は一体どの程度のグラデーションで受け止められるのか?イメージができず、重層的支援体制整備事業の目指す姿は率直に言って難しいのではないかと思っています。

とはいえ

社会は間違いなく社会的なつながりを必要としています。
しかし個人個人はどうでしょうか。
社会的なつながりは、社会のレベルだけで成立するものではなく、個人と個人のレベルでの関係性があって成立する入れ子の構造になっています。社会と個人の関係で考えると、個人を抜きにしては社会的なつながりは実現しませんが、個人は社会的な結びつきなしには自己の利益を追求することができてしまいます。(例えば、仕事ができていれば友人がいなくても生活に不自由がない。自由時間を減らすことがない。)
今は社会の側が余計に頑張り過ぎている状態ともいえます。
どのような立場の人の間でも、例えそれが支援機関同士の間でも、好き嫌いや主義主張の相違は少なからず存在します。簡単につながりなど実現できない現実がある。だから社会の側から働きかけを行わざるを得ないのかもしれませんが、つながりづくりの押し付けは好ましい姿ではないでしょう。
だいぶ話が散らかりました。十分に考えを整理しきれていませんが、社会的なつながりづくりの取組みは政策的には進めていかなければなりません。
少なくとも単に居場所の数を増やすそうとするのでなく、そのなかで社会的なつながりの肌触りが実感できるようなものを目指そうと思っています。


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