呪術師
過去作品を投稿してみるテストその3。
H・P・ラヴクラフトの作品に『死体蘇生者[リアニメーター]ハーバート・ウェスト』という小説がある。死体蘇生に異常な執着を見せる医師ハーバート・ウェストの、狂気と恐怖に彩られた記録だ。その研究は、主に蘇生液と呼ばれる液体を新鮮な死体に注入するというものだった。だが彼の研究は不完全な形で終わることになる。それはひとえに、精神と魂の蘇生が不完全だったからだ。
一般に、脳細胞は脳の血液供給が止まってから十五分を過ぎると、取り返しのつきようがない——いくら心臓が蘇生しようともそのまま死んでしまう——壊滅的な打撃を受ける。そう、死後十五~二十五分以上経てば蘇生は実質的に不可能なのだ。それが常識である。だが——
常識を打ち破るところから我々の研究は始まらなくてはならない。
なにも我々はハーバート・ウェストのように影に隠れて研究をしているわけではない。我々はハーバート・ウェストがついに助力を得ることのなかった権力——大学の助力を得ている。
大学病院としてもそこそこの規模を誇るこの私立N医科大学の研究室に私たちはいる。
ここは、病院側から見れば、地下一階の死体置場の奥にあたる。ちなみに、死体置場側からの扉の開閉はできないようになっている。この死体置場に新鮮な死体が運び込まれ、しかるのち扉が閉じられ、鍵が閉められると、ゆっくりとこの「開かずの扉」が開く。
この大学病院には、死体置場が二つある。一つは普通の身寄りのある遺体が運ばれる部屋。もうひとつは、身寄りのない、いわゆる無縁仏の類が運び込まれるほうの部屋だ。それについては普通の医師はなにも知らない。ただ、どちらかの死体安置室に運ぶか指示されるだけだ。かくして分別され、運び込まれた無縁仏は、早々に荼毘[だび]に付される、ことになっている。標本にするためには本人の許可が必要だ。これは取り決めでそうなっている。だがそれらの死体は、違う用途のために使われる。標本に使うためにそれらの死体を分別しているわけではない。それらを使うのはもっと有意義な——しかし世間一般でおぞましいとされている——研究のためなのだ。
この安置室、もといこの大学病院自体がそのためだけに存在しているといっても過言ではない。知っての通り、このN医科大はあの製薬会社の援助のもと運営されている。そう、製薬会社としての最終目的はまさにこれなのだ。これは学究欲の極致に位置する研究なのだ。
そもそもの始まりといえば、三十年以上も前に遡[さかのぼ]る。この大学、そしてその製薬会社の創立者である人物……と言っても、役職に就いて椅子にふんぞり返って座っているようなけちな人物ではないのだよ。彼はその道化た奴らを裏から操るのが仕事でね。決して表に出ないように立ち回っているのだ。何故私がそんな人物のことについて詳しいのかというと、なんのことはない。彼と私は高校、大学と同期だったのだ。大学時代、彼と私は同じ研究室で研究を共にした。彼と私は、同じテーマについて研究を行っていた。動物相手にひたすら実験をする我々を突き動かしていたのはひとつの強い衝動——知識欲だ。我々の疑問はただひとつ。
——肉体的に死を超越することはできるか?
表向きには別のテーマを打ち立てておき、我々は密かにこの研究を進めた。別に、うしろめたい理由があったわけでは断じてない。ただ、我々はこの研究を、秘密の儀式として行うことに強い快感を覚えていたのだ。わかるだろう?隠しているだけで、それは特別な行為となるのだよ。それゆえに我々の研究は破竹の勢いで進んだ。実際、研究は実を結び始めていたのだった。しかしその偉大な——それどころかもはや崇高な——研究は、まったく予想外のアクシデントによって打ち切られることになった。
私には兄がいた。私と兄は、他にまったく身寄りがなかった。親の遺したわずかな遺産とアルバイトで稼いだ雀の涙ほどの金で私たちは大学に通っていた。兄は優秀な人間だった。しかも、私たちの研究の中核を占める頭脳[ブレイン]だった。兄がいなければ、我々の研究はただの夢物語であったろう。だが、兄は我々の空想に骨を与え、肉を与え、血を与えた。そしてそれがただの夢物語の範疇を超えたとき——兄は死んだ。それはまったく不慮の事故としかいいようのない死だったのだがね。兄は喪われてしまった。それから研究は中座してしまったのだ。研究の青写真は、すべて兄の頭の中に存在していたから、我々にはなにをして良いかわからなかったのさ。たぶん兄の頭の中ではすべての研究が完成していたに違いない。薬品の調合から、動物に与える影響の機序[メカニズム]まで、すべてが。
航路を示すべき羅針盤を失った帆船のように、また、足を失った旅人のように我々にはまるでなすすべがなかった。私たちは、その研究の続行をついには断念し、私は大学に残り、彼は大学を出て行った。研究は凍結された。おそらくはこのまま日の目を浴びることはないだろうと思われた。
だが、それは所詮単なる早合点に過ぎなかった。私は医学部に残り、やがて研究畑の人間として教授の職を得ることとなった。私の研究は、前の研究とはさして変わらないような内容ではあったけれど、それでもまだ人目を憚らずに公言できるものだった。そんなある日だった。彼が私の前に再び姿を現したのは。
彼は、大学を建てる、と言った。そこで例の研究を再開しよう、とも。そして現在私はこの大学で研究を続けている。これがなにをいわんとするかは君にもわかるだろう。その誘いを二つ返事で引き受けたのさ。年を経ても、やはり一度はこの身に流れた情熱だ、渇望とでもいうべきその衝動に私は身を任せた。やるからには徹底しなければならない。
私は彼に二つの条件を提示した。ひとつは、新鮮な死体が手に入るように完全な供給経路を作ること。もうひとつは、優秀な頭脳を持ち、なおかつ知的好奇心に溢れている生徒をこちらへ回すこと、だ。そうして君はこの研究室へと招待されたのだよ。ええと、名前は……」
「瀧澤[たきざわ]です」
「そう、瀧澤君。君には権利がある。望みさえすれば、君はここで研究ができる。望みとあれば別の研究を並行してやってもいい。選択するかしないかは、完全に君の自由だ。もし君が選択すれば、文字通り知的好奇心、学究欲の泉への道が開かれる。もちろんこの研究は人に賛美される研究ではない。決して表舞台には上がらない、裏の研究だ。だが、その境遇すらをも上回る知的感動もこの世にはあるのだがね。もちろん給料も出す。
君が断るのであれば、話は簡単だ。この話は聞かなかったことにしてもらおう。君はここには来なかったし、なにも聞かなかった。それだけの話だ。……質問は」
「あの……、そちらの方は?」
青年は好奇心と不審が相半ばした眼で私を見た。
「彼は、助手の佐藤義清[のりきよ]君だ。だいぶ長い間私のもとで手伝ってくれている」
瀧澤青年は、考えあぐねている様子であった。学究の徒にとってみればメフィストフェレスの誘惑のようなものだろう。
二、三日考えさせてくださいと彼は言った。余程迷っていたのだろう。しかし結局は、悪魔の誘惑に打ち勝つことはできなかったようだ。そして彼は研究室の一員となった。
※ ※ ※
近代怪奇小説の場合、蘇生者はほとんど霊的……呪術的な再生なのだが、それでもやはり魂の蘇生は不完全のようだ。死者が生き返るといえばW・W・ジェイコブズの「猿の手」だし、あとはおおまかなところをいえば生ける屍[リビングデッド]などが主流のようだ。
生ける屍はゾンビなどと呼ばれたりもする。だが、魂の蘇生が不完全であるという感は否めない。生ける屍はただの動く死体であり、自我が存在していない。我々が造りだそうとしているのは、あくまでも人間である。……では。
——身体の蘇生だけでなく魂の蘇生というハードルも越えなければ、完全なる蘇生は不可能なのだろうか?
否[いな]。
私は考える。魂の再生とは即ち脳の再生であると。呪術的な蘇生——反魂といったほうが適切かもしれない——では、どこかしら脳細胞の再生が不完全だったのではないか。脳の完璧な再生が行われなければ、完全なる蘇生は不可能なのだ。とすれば呪術的な蘇生——反魂で、人は生き返るものなのだろうか。医学的見地から見ればそれは起こり得ないことだ。だが、反魂についての逸話はあまりに多すぎる。無論、多くの場合は勘違いや錯覚であったのだろう。しかし、もし本当にあったとしたら。もし本当に死体が蘇生していたとしたら。我々の研究する『蘇生』とは、心肺機能が完全に停止して、もはやそのままでは心肺機能の回復が不可能な、完璧な死体に生命を与え、蘇らせる行為だ。もしそれが呪術によっても行えるとしたら。
私はそこで考えるのをやめた。際限がない。たとえ呪術で再生が可能であろうとも、我々は医術での蘇生を目指すだけだ——医術が仮面を被った呪術であるに過ぎないとしても。事実、実験の成果は既に出ている。つまり、不完全ながらも死体の蘇生は可能ではある。初めて実験の成果が現れたときのことが思い出される。蘇生液と呼ばれる薬品の配合を色々と試し、死んだラットにその液を注入しては失敗の連続で、半ばあきらめかけていたときの、あの感動。あのとき、ラットは眠りから醒めたように起き上がった。完全に蘇生した。だがそう思ったのも束の間で、ラットはまた眠り、そのまま起き上がることはなかった。そのときは、まるで夢でも見ているような感じだった。それが事実上最初の蘇生だった。血液の割合という考えが現れる前の話だが。
検体が死亡したら、なるべく早くに、少なくとも完全に固まらないうちに血液を抜く必要がある。血液を抜いたあと、加工し、薬品と混ぜ合わせる。それが蘇生液となり、死後硬直が始まらないうちに、両手、両足と頸部の動脈にもとの血液より一〇パーセント多く注入する。しかし、これだけでは蘇生する可能性は薄い。そこで、電流を流す。一〇〇ボルトに満たない電圧で、数回流す。筋肉が電流に反応して痙攣するのだが、ときには死体がまるで生き返ったかのように跳ね起きる場合もある。まるでメアリ・シェリーの創造したまがい物の神、フランケンシュタイン博士にでもなったような錯覚に陥る。それからしばらくして、心臓が動き出す。心臓が動き出したあと、やがて検体は意識を取り戻す。目を二、三度瞬いたあと、ゆっくりとこちらを見る。だいたいの場合において、私は、気分はどうか、と尋ねる。それから検体に困惑と狼狽の入り混じった表情が認められ、それから、ふとなにかに気付いたように驚愕の表情に変わり、叫び声を上げ……ようとするが、声は出ない。出たとしても防音効果で外に聞こえる心配はないのだが。声のない絶叫。検体は叫ぶ(ように見える)のをやめると、呆然とした表情のまま無反応になる。多くの場合そのまま再び死ぬ。呆然とした表情のまま心拍が弱々しくなり、息絶える。これまでの研究の蓄積から、そのわずかな覚醒の合間、時間感覚の喪失や一部の思考能力の低下、また、感情の起伏の低下が検体にみられること、毒劇物に反応しないこと、周囲からの働きかけによらずまるで眠り込むように死んでいくように心拍が低下していく——まるで生きることを諦めたかのように——ことがわかっている。
これは成果といっても良いのだろう。だが、副作用が蘇生液にはあった。動物実験の結果、蘇生液が完全に有効に作用した場合——
死なないのだ。
これは正確な表現ではないのかもしれない。だが、老化しないというのは一種の不死であるとはいえる。もちろん、物理的干渉によっては死ぬ。ナイフで心臓を刺しても鈍器で頭を殴っても首を絞めても死ぬ。しかし自然には死ぬことはない。病原体にも強い。驚くべきことに、癌細胞を移植しても死ななかった。どうしてか癌細胞が増殖しなかったのだ。この蘇生したラットは、このケージの中で長いこと生きている。逆にいえば、かなりの間死ななかったということだ。死ぬ、ということを証明するには、このラットが老衰で死ねばいいのだが、どうやらまだ死ぬ気配はない。このまま果たしてこの鼠は死ぬのだろうか。
これは、成功例といってもいい。蘇生液は確かにその目的を果たすことはできたが、それがいささか過剰に働きすぎたのではないか。死なない生き物はもはや生き物ではないのではないか。ただの「生ける屍」ではないのか。そのラット——生還者[リターナー]と我々は呼んでいる——は外見は他のラットと変わりはない。しかし、ときどきおかしな仕種[しぐさ]を見せる。まるでじっと考え込んでもしているかのように一点を凝視しているのだ。
※ ※ ※
「教授、これって、いいんですかね?」
瀧澤が言った。
「なにが」
「倫理ってものがあるじゃないですか。僕も研究してて思うんですけど」
「?」
「死者を生き返らせる、ってなんか抵抗あるじゃないですか」
「確かに、そういうこともある。だけど私たちがなんの悪いことをしている? 死を先へ先へと延ばすのが医者だ。究極的には死からの復活を医学は目指しているじゃないか」
「でも、死体です。一度三途の川を渡ったモノですよ。臨死体験、とはいうけど、彼らは死なずに戻ってきたから、まだ人間なんです。一度本当に死んだ人間とは違います」
「……瀧澤。何故、生き返った人間が恐怖の表情を見せると思う?」
沈黙。
「……僕にはわかりません」
「よく、命は蠟燭に喩えられる。蠟燭が、ふっ、と消えるとか。死ぬということは蠟燭の火が消えるということだ。だが一度死んでから生き返った人間に蠟燭がまたとも燈ると思うか?
私は思わない。それは有り得ない。一度消えた火は、生き返ってもそのままだ。生き返っても消えたままだ。だから直感的に奴らはそれを認識して混乱し、恐怖する。自分が生き返ってしまったことに」
「…………」
「だからそのままでいる限り彼らは『生ける屍』のままだ。私たちが目指すものは人間であり、ゾンビじゃない。『人間』として生き返らせたのであれば、倫理上も問題はない」
「でも、やはり……」
「知ってるか? キリストはラザロを生き返らせたし、自らも復活した。それなのにキリスト教徒はおろか、誰もキリストを批判しない。反魂が倫理に反するのであればキリストも批判されなければならないだろう」
「それは、反魂そのものが、馬鹿馬鹿しい迷信だと思われているからでしょう。キリストが誰かを生き返らせたとして、信じさえしなければ、無かったのと同じです」
「その通り。信じさえしなければそれは御伽話と同じだ。我々の研究もな」
「だけど、我々は蘇生の方法も知っているし、現に成功さえしている。我々の中にこそ倫理は存在すべきじゃないですか」
「君は傲慢だな」
「え?」
「私たちは、なにも骨壷の中の骨まで蘇らせようというのじゃない。私たちが生き返らせているのは、死んでから間もない、せいぜい長くて一日後の死体だ。つまりその範囲の人間であれば、生き返らせることができるということだ。君は溺れかけている人間に手を差し伸べるのを躊躇うのかね? 君がすこし動きさえすれば助かる人間がいるのにだ。助けることができるのに助けないのは傲慢だよ」
「しかし——しかし、助けられるのを望まないものもいるでしょう」
「くだらないことを言うのはよしたまえ。助ける前から、助けられるのを望んでいないとどうしてわかる。我々の根本理念は、『助けよ、然る後決めよ』だ。死にたければ勝手に死ねばいい。だが、少なくとも我々は自分の義務を果たさなければならない。これが、死ぬか生きるかわからない場合——であれば話し合って決めるということもできるだろう。だが、助ける前からくだらないことを考えるな。それは君が助けることを望んでいないということの裏返しに過ぎない」
「…………」
「君は……ここにきて三年だったか。迷うのはわかる。悩むのもわかる。だが、立ち止まるな。我々の前にあるのはゴーサインだけだ。退くのもいい、だが、停滞することは許されていない。常識は捨てたまえ。我々の研究は常識で推し量れるものではない」
「……わかりました」
問答は終わった。瀧澤は実験動物の数を確認し始めた。
「教授」
杉沢教授は怪訝そうな顔で振り向いた。
「なにかね」
「ウサギが一羽足りないのですが」
杉沢の眼に思わぬ動揺の色が浮かんだ。その証拠に杉沢教授の視線は宙を彷徨い、何度か私とも目が合った。
「気のせいだろう。君の数え間違いか、記入簿が間違っていたんだろう」
瀧澤は「おかしいな……」とぼやきながらも自分の仕事を続けた。
※ ※ ※
「蘇生液の濃度と、蘇生液と血液の割合がすこしでもずれると、失敗……」
教授が、新しく入った研究員に解説している。研究チームは教授を含め八人。辞めていく者もたまに何人かいる。そういうときに新たなメンバーが補充される。
「蘇生できるチャンスは一回だけ——」
「蘇生液自体は劇物だから、生身の人間に注射したら死んでしまうし、脳細胞も破壊されてしまうので蘇生も不可能だ。蘇生液を注入しても脳細胞が破壊されないのは死後一~二十時間の間になる」
私は隅のほうにいる瀧澤に目を遣る。様子がおかしい。なにかに怯えているのか、顔色が蒼白だ。それとかすかにぶつぶつと瀧澤が
……狂ってる……
とか、
……正気じゃない……
などとつぶやいている。どうやら彼も精神に異常をきたし始めているようだ。しかし、これもよくあることなのだ。
※ ※ ※
「佐藤さん……」
瀧澤だ。瀧澤は、ちょっといいですか、と言った。瀧澤は大学からそれほど遠くない喫茶店に私を連れ出した。外の日射しは眩しかった。「アイスコーヒー」と瀧澤は言い、私はウーロン茶を注文した。
「あそこにいて、なにも感じないんですか」
「なにも、というと?」
「教授ですよ」
「それがどうかしたかい?」
「僕は……怖いんです」
水滴の着いたグラスが運ばれてきた。アイスコーヒーだ。
「教授の瞳が怖いんです。なにもかもを被験体に含めたようなあの眼。ラットでも見るような眼で僕たちを見てるんです」
「……思い過ごしさ」
「違います。あの人にはもう生者と死体の区別さえついていないんです。僕にはわかるんです」
「君は疲れてるんだよ」
沈黙。
「そういえば、佐藤さんは教授のところにきて長いんでしょう」
「……ああ。だいぶ長いな」
「なら、わかるでしょう。あの先生は異常なんですよ。狂ってるんだ。死人を生き返らせるなんて正気の沙汰じゃない。おかしくならないほうが異常なんだ!」
瀧澤は声を荒げた。それから周りを見回した。店中の視線を集めている。私も彼を眺めていた。彼は私の視線に気付き、すみません、と小声で謝った。
「家、近いんですか?」
当り障りのない質問だ。
「ああ。それなりに」
「どこら辺です」
「研究室さ」
「え?」
瀧澤は聞いてはいけないことを聞いてしまったとでもいうような奇妙な表情を見せた。
「じょ、冗談でしょう?」
「冗談だ」
気まずい沈黙が流れた。瀧澤がなにを考えているのかまったくわからない。
「そろそろ……戻りますか」
「そうだな」
瀧澤が勘定を払うと、私たちは店を出た。
「僕は怖いんです。これは思い過ごしじゃないんです。佐藤さんは怖くないんですか」
私は答えなかった。替わりに立ち止まって瀧澤を見つめた。
時間が流れた。瀧澤は驚いたような表情を顔に浮かべた。その感情の中に恐怖が含まれていたかどうかはわからない。はっきりしているのは瀧澤の血の気が引いていったのと、彼にできたのは口を金魚のようにぱくぱく動かすだけにとどまったということだ。
「あ…あなたは………まさか——」
私はなにも言わずに瀧澤を見ていた。
「……く、狂ってる……あなたは…いや、あなたたちは……」
私はなにも言わずに瀧澤を見ていた。
「ひいっ」
間抜けな叫びを上げ瀧澤は逃げ出した。
哀れな男だ。
私はさして暖かくない視線で遠ざかる影を見ていた。
瀧澤はもう研究室に姿を見せなかった。
※ ※ ※
終わりというのはたいてい唐突にやってくるものだが、私の場合も例に洩れない。とはいっても私が死んだわけではないし、これがなにかの始まりであるのかもしれないが。
※ ※ ※
やけに『生還者[リターナー]』が騒ぐ。『生還者』は巨大なラットで、一キロぐらいはあるかもしれない。だが誰も彼の体重を量ろうとは思わないので体重はわからない。私は彼をケージの外に出してやることにした。心配せずとも彼は逃げない。ケージを開けてやると、『生還者』はゆっくりと出てきた。ふと、思う。こいつは本当に鼠なのか? 既に鼠とは別の生き物なのではないだろうか? まあ、そんなことはどうでもいい。
『生還者』は意外にも機敏に動いた。今、この研究室には誰も——私と彼以外——いない。見咎められる心配もない。『生還者』は華麗な動きを見せた。とてもただの鼠ではできないような。ところが、急に『生還者』は動くのをやめた。そしてドアを一瞥してから私のほうを見た。私は『生還者』を抱え上げた。鼠の癖に二キロはあるかもしれない。猫ほどもある鼠などあまり近くにはいて欲しくない存在だ。ドアが開いた。教授が現れた。
「——いたのか」
「ええ」
それだけ言葉を交わすと、教授は奥の小部屋へと消えた。部屋はまた、私と『生還者』だけになった。私は椅子に腰をおろした。猫を抱き上げるというのは絵にもなるだろうが抱き上げるのが巨大鼠では笑い話にもなりはしない。と、『生還者』は白い頭をもたげ、ドアのほうをまた向いた。そして、きぃぃぃっと甲高い声で啼いた。戸はゆっくり開いた。入ってきたのは瀧澤だった。しかし、あの理知的だった瞳は狂気に染まり、精悍そうだった顔は脂ぎって、引き攣りながらも薄ら笑っていた。瀧澤は言った。
「——やあ、こんばんは」
私はなにも言わなかった。
「こんな遅くまで研究ですか。精が出ますね」
言い方こそ丁寧なものの、口調には嘲りと粘着質な響きが籠もっていた。私はなにも言わない。
「随分と冷たい対応じゃないですか、杉沢さん」
「……あれからね、僕も色々と苦心したんですよ。なんとかあなたがたの尻尾を掴もうと思ってね。なんのためにって? 決まってるじゃないですか。あんたがたの邪悪な研究をやめさせるためですよ。結果はどうかって? 連中、俺を病院に突っ込みやがった。秀才が勉強狂いでおかしくなったってね。はらわたの煮えくり返る思いでしたよ。僕は正しいことをしているのに病院にいれられて、貴様ら諸悪の根源が大手を振って街を歩いている。そんなことあってたまるものか! ……おっと失礼、興奮してしまいました。それでね、僕は根気強くあんたらの弱みを探したんですよ。
ヒントはね、あんたの言葉の中にあったんです。研究室の中に住んでいるってね。言いましたよね。もしかしたら、あんたは大手を振って歩けないんじゃないかと思ってね。調べたんですよ。……あんたは脛に傷持つ身だ。それに、あんたが偽名だったってのが僕の確信を強めましてね。色々と調べてみると、佐藤義清というのは、西行法師の俗名じゃあないですか。もちろんご存知ですよね。死人を生き返らせたという話もあるあの西行法師ですよ。その名前を敢えて息子につけるような酔狂な親は滅多にいないでしょう。だが、偽名として選ぶにはちょうど良い。そう、それであんたと教授にはなんか深そうなつながりがあると見て僕は調べたんですよ。やっと到達しましたよ。杉沢教授に行方不明の甥がいることに。
教授は天涯孤独だとかなんとか言ってたが、本当は死んだ兄の他に二十歳離れた弟がいて、行方不明なのはその息子なんだ。
顔変えたって無駄だよ。雰囲気が似てる。手配写真とはだいぶ違ってはいるがね。あんた杉沢敬二だろ。年もちょうどそれぐらいだし——年齢も一致する」
私は相手を見た。
「君は——勘違いをしている」
また嘲りを含んだ口調で言った。
「惚けても無駄ですよ。ちゃんと調べが——うわ!」
急に全てが暗転した。停電だ。
「くそっ、なにしやがった!」
瀧澤が大声を上げた。
「やかましい、ただの停電だ。今明かりを点ける。ちょっと待っていろ」
私は右手に巨大な鼠を抱えながら、片手でポケットから蠟燭とライターを取り出した。
火が点った。瀧澤の血走った目が、灯火に揺らめいた。
確かに杉沢亮治は甥を溺愛していた。甥にとっては迷惑そのものだったとしても。——可愛い甥が殺人事件を起こしたときも少なからず胸を痛めたに違いない。——私はすこしずつ記憶を取り戻してきていた。そして甥が罪悪感で首を吊ったのを見つけたときも、間違いなく喪失感で胸がいっぱいになったはずだ——建物が崩れていくのを逆回しで見るように、記憶が戻ってきた——しかしそれはまだ映画のフィルムがただ流れているようでなんの感興も湧かない——体につけられた無数の管——杉沢教授が自らの研究で甥を生き返らせようとしたとしても想像に難くない——蘇生したときの奇妙な感覚——杉沢敬二は確かに蘇生処置を施されたのだ——私は記憶の渦に包まれ——しかし杉沢敬二は不完全な『蘇生』を——決して死なない体——眼が醒めてからの驚愕——恐怖——薄れてゆく時間感覚——崩れていく記憶——朦朧とする思考——復活は祝福すべきなのか——魂の蘇生——杉沢亮治——私、杉沢……?
「おい!」
瀧澤の声で私は我に返った。蠟燭の揺らめきに瀧澤が浮かぶ。「おい、どうしたんだ。おかしいぞ——」
その瞬間、私はなにかがカチリ、と所定の場所に収まった音を聞いた。そして自分がなにをすべきなのかがわかった。
私は手に持っていた巨大鼠『生還者』を瀧澤のほうへ放った。二キロもあろうかというその鼠は、きいいいいいいいぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃいっと甲高く咆哮し、瀧澤の首に取り付いた。とっさのことに瀧澤は判断できずその衝撃をもろにくらい、椅子ごと床に倒れた。空腹な『生還者』はまず獲物の息の根を止める。『生還者』は瀧澤が口を開いた隙にその中に飛び込んだ。正確に言うならば、わずかに開いた口をこじ開けて潜り込んだ。恐慌と恐怖とで瀧澤は必死に化け物を吐き出そうとするが、化け物は既に体全体を瀧澤の口内に詰め込んでいる。『生還者』が暴れたのか、顎の骨が外れた音がした。パニックになりながら七転八倒をしている男、瀧澤。信じられないという思いと窒息への恐怖、そして口の中に鼠がいることへの嫌悪感がない交ぜになった表情だ。おそらく『生還者』は瀧澤の息の根が止まるまで口の中にへばりついているだろう。しばらくすると、瀧澤の動きに力がなくなった。こときれたのだろう。おそらく十五年前はこんなことになるとは予想だにしていなかっただろうに。
口から鼠が出てくる。その白さが、目に見えぬ霊魂を思わせた。鼠は食事を始めた。
カリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリ
音はしなかったが、その効果音がまことにぴったりであるように思える。どっちにしろ『生還者』は腹が減っている。時折恐ろしいほどの飢餓感がやってくるのだ。そう、自分が我慢できずにあのウサギを喰らってしまったように。
さっきからその兆候は彼に現れていた。この調子だと、死体を処理する手間をだいぶ軽減してくれるだろう。
※ ※ ※
もうすこしですべてが終わる。
いや、これからすべてが始まるのかもしれない。
※ ※ ※
小部屋は半地下だったので、明り取りの窓はある。停電ではあったが、その部屋には月光が射しこんでいたので蠟燭はいらなかった。普段、この部屋は杉沢以外入ることはできない。杉沢は、一際大きい標本を見ていた。杉沢が振り向いた。
「どうしたん——」
指が老人の細い首に食い込む。なにを——と言おうとしたのだろう。な、という音だけが発せられ、あとはちゃんとした言葉にはならなかった。その眼には恐怖が浮かんでいる。痩せた老人の力など抵抗と呼べるような代物ではない。月光を受けて眠っているように見える——私にとっても甥である杉沢敬二の脇で、静かな殺人は続けられた。老人がこときれる寸前に唇を動かして言った、音のない言葉。
それらは、錯覚ではない。
に、い、さ、ん、と唇を動かした。
老人は幻覚を見たわけではない。
何故なら老人の兄、杉沢宗治は紛うことなく眼の前にいたのだから。
今、すべての記憶は復元した。
敬二は不運だった。なまじ不完全な呪術師である亮治の手での蘇生であっただけに敬二は見なくても良いものを見、すさまじい恐怖を味わいながら死んでしまった。記憶が回復していなかったときだけに、どうにも遣りきれない。
ラットの『生還者』は、自分が考案した「調合と割合」を初めて使用した検体だった。計算で割り出した割合がいきなり成功したのだ。まさか被験者第二号が自分になるとは思いもしなかったが。
メモを取っていなかったのは自分のミスである。せめてメモだけでも残しておけば敬二は助かったのに……。防腐処置をしただけのこの姿では敬二の体はやがて朽ちていくただのモノに過ぎない。残念だがこれから甥の死体を処分しなければならない。時と共に朽ちていく甥の姿を見るのは無残に過ぎる。
さて、どうしようか。部屋に戻ると『生還者』は食事を終えて寝ていた。瀧澤の顔はもはや原型をとどめてさえいなかった。薬品棚を確認する。あの「調合と割合」は憶えている。九〇パーセント以上の確率で、亮治を生き返らせることはできるだろう。亮治は生き返った直後にこの世ならぬ恐怖を体験するだろうが、それもまた一興。自分のいない間に勝手なことをした罰だ。
小部屋に戻った。しなければならないことはたくさんある。だが時間だけはたっぷりある。時間は精神と同様、腐敗はしても決して無くなることはない。
急に笑いが込み上げてきた。ついに、完全に蘇生が成功したという気持ちが心の底から湧きあがってきた。そうだ、自分は復活したのだ。
ふと、傍らに掛けてある鏡が目に入った。
鏡の中では、五十年前からなにひとつ変わっていない二十八歳の俺の顔が笑っていた。
<了>
初出 同人誌『幻想小説集 暗青色の夜』(2012.10.01)
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