彼女は森の暗がり(1/4)

 <一>

 茅井夏乃(かやい なつの)のことが気になるのか、といえばたぶんそうだ。可愛いと思うか、と聞かれたら僕は首を横に振る。だが彼女は綺麗だ。
 綺麗といっても、どこか背徳感のある、正面からまじまじと見つめることがなんとなく後ろめたくなるような、そんな美しさだ。魅力といっても普通の女の子の持つそれとは違ってどこか非人間的な得体の知れなさみたいなものがあって、危険な感じがする。だからいわゆる可愛い女の子というのとはちょっと違うと思う。
 茅井夏乃は常にひとりでいる。休み時間に女子のグループとつるむのでもなく、ひとりで本を読んで過ごしている。誰かと一緒に話している様子も見かけない。クラスメイトに避けられているというわけでもないし、進んで人から離れているわけでもない。ただ、水と油が混じらないように彼女は集団の中に自然ととけ込まない。しかしそれでいて何か問題が生じるということはない。彼女はちゃんと自分の位置を教室の中に確保している。
 誰も彼女のことを意識しない。それが僕には不思議でならない。誰もが彼女という人間があたかも存在しないかのように振る舞っている。どこにも悪意などはない。ただ自然とそうなっている。
 おそらく彼女の方も他の人間のことを意識していないのだろう。だから齟齬は生じない。同じ教室にいながら次元がひとつずれているのではないかという気もする。僕たちと彼女はそれゆえに交わることがない。
 同じ空間で同じ授業を受けながら、しかし彼女は別のところにいる。
 彼女は高校の部活には入っていない。授業が終わり次第、早々に家に帰ってしまう。自宅は学校から少し離れているという。歩いて一時間程度の距離で、高台のちょっとした屋敷に住んでいる。その裏山はすべて彼女の家の敷地だというからたいしたものだ。
 どうしてそんなことを思い返しているのかといえば、今この瞬間にどうにも会話の糸口を見出せないでいるからだ――こうして彼女の横を一緒に歩いているというのに。
 彼女ときたら、沈黙が続いていても意に介さない。しかしその沈黙は僕にとって心地よいものではない。まるで身に覚えのない容疑で連行されているような気がする。
 そもそも、普段彼女と交流のない僕にとっては降って湧いたようなできごとだった。
 今日の放課後のことだ。
 放課後の図書室は人が少ない。蔵書も多くない上に、さして広いわけでもなく、空気が澱んで息苦しい。電気が点いていてもどこか薄暗く陰気な気配がぬぐい去れない。そのため、人気はほとんどない。
 高校の図書室にいる顔ぶれはほとんど変わりない。時折顔並みが変わることはあるけれど、だいたいいつも決まった席に、ここが自分の居場所だという体でそれぞれ居座っている。たまに図書室になんて滅多にやってこない連中が彼らの居場所を悪気なく占拠していたりするけれども、彼らは別に嫌な顔をするでもなく、別の場所で適当に時間を過ごしている。そしてそういったノイズのような場違いな連中がいなくなると、いつもの自分の定位置に戻るのだ。
 僕はたまに図書室に出入りする程度だったから、なんとなくそういう暗黙の秩序のようなものがあるらしいということを感じとってはいたけれども、あえて自分の定位置を決めたりするとかいうことはしなかった。
 僕が図書室を利用するときの目当ては画集だった。うちの学校の図書室は画集が――それも、決してメジャーではない画家の――が充実していた。いったい誰が何を思って図書室の蔵書に加えたのかわからないが、グロテスクなだまし絵(トロンプ・ルイユ)や猟奇的な幻想画といった、街の図書館でもなかなか見つからないようなタイプの画家のものが沢山あった。
 そういった作品群は気持ち悪いというよりはどこか滑稽でおかしく、かえって親近感を抱かせた。かつてその作品が置かれていた文脈においては恐怖だとかいった暗い感情に結びついていたのだろうけれど、一旦その文脈から切り離されて白日のもとにさらされてみると、そういった翳の部分が消え失せてしまうからかもしれなかった。
 画集を眺めながらあれこれ想像するのは楽しかった。控えめにも主流とはいえないこれらの画家たちがいったい何を思いながら絵筆を走らせたのかを考えると、不思議な気持ちがした。画家の中には、絵では食っていけず、働きながらひたすら絵を描いていた者がいた一方、逆に十分に財産がありながら、終生引きこもってやはりひたすら絵だけ描いて過ごしたという者もいた。いったい何がそこまで彼らを駆り立てたのか、僕は作品を眺めながら空想するのだった。
 図書室では特に人目を気にする必要はなかった。図書室の常連たちは、互いに我関せずという態度で振る舞っていた。それに、僕が普段学校でつるんでいる連中というのはたいがいどこかの部活に所属していたし、図書室にわざわざ出張るような人種でもなかった。
 本棚の前で誰にも邪魔されずに本を選んでいる時間は、本を開いて眺めている時間の次に楽しい。
 時間をかけてじっくり選ぶことが、本を楽しむのにも必要なのだと思う。さながらフルコースの料理における前菜のようで、主菜の魅力をより引き立たせることが望まれる。もっとも、これまでの人生でコース料理だなんて高尚なものにはお目にかかったことはないけれど。
 ずらりと並ぶ背表紙を眺めながら、その日の気分にあった本を選ぶ。
 僕は特にお気に入りの一冊を手に取った。
 北欧の、骨の絵ばかり描いていた画家だ。
 ぱらぱらとページをめくる。
 骨のある風景、骨のある素描、骨のある静物画、骨のある……よくもまあ飽きもせずに骨ばかり描いていたものだと、見るたびに感嘆する。
 今日はこれにしよう。
 そう決めると、僕は本を携えて移動する。柱の陰の、目立たない位置の席。空いていないこともあるが、今日は空いていた。
 椅子にかけて机の上で画集を開くと、なんだか気分があらたまる。
 本を開くと画家の世界が広がっている。
 魚、鳥、獣、人間、あるいは架空の生き物の骨。何が彼をそこまで執着させたのか。その理由については解説でも触れられていない。ただ、二十代の半ば頃から骨の絵が作品の中に混じりはじめたという記述だけだ。
 なんの変哲もない風景に、骸骨がただ、いる。あるいは肖像画の片隅に存在している。骨の魚が水槽を泳いでいたり、骨の鳥が空を飛んでいたりする。骨の獣が森や平原を徘徊していたりする。あるいは、骸骨がカフェテラスに座っていたり、街中を歩いていたりする。それが普通なのだというように、ただいる。
 何かの象徴でもなんでもなしに、ただそこに即物的にいる。なんらかのテーマだとか警句じみたものは微塵も感じられない。なぜならそれはそこにあるだけなのだから。
 なぜという問いを拒否するかのように、至るところに骨が現れる。そこからパターンを見出すのは難しい。実際、特別な意味なんてないのかもしれない。何せ作者は死んでしまったのだし、生きていたところで本当のことをいうとは限らないのだから。
 だからかもしれない、僕はこの画家の絵が好きだった。何もかも見せ、タネも仕掛けもございませんという風でいて、その奥に何か深遠なる秘密――おそらく本人にしかわからない類の――を隠している気がして。
 いったいその秘密がなんなのか、思いをはせてみることもある。もしその秘密が明らかになってしまったら、この絵のある種神秘的な魅力というものは消えてしまうものだろうか。あるいは、なにがしかの説明がついたとしても、この画家の不思議な魅力というものは損なわれないものだろうか。
 そんなことを考えていたような気がする。そのときだ。
 ねえ、浅田君、と彼女――茅井夏乃が僕に声をかけたのだった。
 いつも通りのすらりとした背格好の彼女が、いつのまにかそばにいたのだった。
 とっさに反応することができなかった。かわりに、僕は恥ずかしいような、うしろめたいような感じを覚えた。あまりにも無防備な状態を人に見られたと思ったから。
 一瞬の混乱を経てはじめて誰が声をかけてきたのかを認識できた。だけれどそれがうまく状況に結びつかなかった。茅井夏乃が僕に声をかける
 そもそも彼女が僕のような人間の名前を記憶していることが意外だった。彼女が誰かクラスメイトのことを意識にのぼらせたことがあるかどうかすらも危ういのではないかと僕は常々疑っていたからだ。
 雑多な事柄が頭の中を駆け巡り、まともに返事をする余裕もなく、結局僕はうんとかああの合間の音にならない音で返事をしたのだった。
 茅井夏乃は僕の挙動については興味がない様子で、僕に尋ねた。
 その絵、好きなの?
 どうやら、本当に僕に尋ねているようだった。
 おずおずと、僕はうなずく。
 そう、と一言。僕の返答には関心があるのかないのかわからない。
 もしよかったらうちに見に来ない? その人の画集、父が集めていたの。
 何もたいしたことなどではない、という様子だった。実際、彼女にとってはまったくたいしたことのないことだったのかもしれない。でも僕にはそうではなかった。
 茅井夏乃と僕はそれまで接点がまったくなかったのだし、これからもないつもりでいた。彼女はテレビ画面の向こう側の人物のようなもので、同じ地球上にいながらまったく別の場所でまったく別の生活を営んでいる人間だと思っていた。それが、まるでだまし討ちのように突如目の前に現れて僕に声をかける。それだけで、十分たいしたことだった。
 だから、彼女の申し出を受けるのには勇気が要った。
 ――いいの?
 ――ええ。
 そうして、今にいたるわけだ。
 緩やかな坂道を僕らは上っている。彼女は特に口を開かないまま、歩いている。足取りに迷いはない。気まずさは僕の側にあるのだ。なんだかひどく理不尽な気がした。
 ひび割れたアスファルトの道路の脇には、荒れた野原が広がっている。手入れがなされていないのだ。にぎわいというものがまるでない道だった。自分の通学路のことなどこれまで気にも留めたこともなかったが、それでもまだマシだったように思う。
 歩けば歩くほど人気は薄れていき、捨て置かれた林や田畑が増えていくのだった。春だというのに干涸らびた用水路は、この辺りの土地が遺棄されたものであることを暗に示していた。
 道はうねり、坂を下ったり上ったりする。女子の足では自転車はつらいだろう。歩くしかないわけだ。雑木林の中は昼でも暗く、舗装されているとはいえ、こんな道を彼女は毎日徒歩で通学しているのかと思った。僕がそんなことに考えを巡らしている一方、彼女の方といえば、すたすたと何の苦もなく歩き続けている。彼女は何を見ているのだろう。
 ひたすら重い沈黙の中、僕は彼女と歩き続けた。
 車が通ったのも随分前だ。風の音しか聞こえない。
 どうしてついてきてしまったのだろう、と僕は今さらながら後悔しはじめた。
 あのとき、どうしてうなずいてしまったのだろう。
 確かに彼女に興味はあった。彼女のことを知るいい機会だと思ったのだ。好きな画家の画集が見られるということも、もちろん嬉しかった。だが、無言のままただひたすら歩かされる現状というものが、その報酬に見合った苦しみなのかどうかは疑問の余地があった。
 とはいえ、ここで引き返すのもためらわれた。せっかくここまで来ておいて、絵も見ずに帰るというのもなんだかもったいない話だった。それに途中で音を上げるような情けない姿は見せたくなかった――ただのつまらない見栄だとしても。
 何個目かの林を通り過ぎた後、急に視界が開けた。なだらかな斜面に、広々とした枯れススキの野原が広がっていた。そして、遠くに野原と森林との境目が見えるのだった。あれが、裏山だろうか。
 見える?
 随分と久しぶりに彼女の声を聞いた気がする。
 彼女の指す先、一面の野原の向こうに、建物の屋根が見えた。
 あれが、私の家(うち)よ。
 それでようやく僕は彼女がちゃんと僕のことを存在として認識してくれているのだと思えた。
 たやすいもので、目的地が見えると足取りは段違いに軽くなった。
 屋敷、とはいっても遠目にはそんなに大仰なものには見えなかった。しかし近付くほどに、それなりにちゃんとした家だということがわかった。
 道がふたつに分かれていた。アスファルトはここで途切れ、砂利道になっている。
 こっちよ、といって僕を案内する。
 あっちは、と僕が聞くと、森に続いているのよ、と答えた。森に? と尋ねると、こともなげに言う。そうよ、裏の森に。
 確かに道は鬱蒼と生い茂る森へと続いていた。そちらの道は手入れされていないようで、まばらに雑草が生えていた。
 森に続く道。
 間違ってはいないが、何か変な感じがした。だけれどうまく説明できない気がして、口に出すことはしなかった。
 茅井家は、歴史を感じる日本家屋だった。
 瓦屋根の平屋で、おもや、はなれ、といった、音で聞いたことしかないような言葉が脳裏に浮かんだ。雨戸が閉まってはいたが、縁側もあるようだった。
 がちゃり、と古めかしい錠を開ける音がし、戸をがらがらと開ける。
 お邪魔します、と声を張る。
 ああ、私ひとりだから。遠慮しないで。
 居間に通された。板の間に、障子にふすま、何か異空間にでもいるような気がした。居間、といっても結構な広さだ。黒い柱が厳めしい雰囲気を醸し出していた。
 とんでもないところに来てしまったのではないだろうか。
 修学旅行のときに泊まった旅館のことを思い出した。そういえばあの古びた宿は、欄間の彫刻がどこか印象的だった。旅館のような家、というとどうにも幼稚な表現だけれど、世の中にはこんな家に実際に住んでいる人間もいるんだな。僕の暮らす、狭い殺風景なアパートとは段違いだ。
 あまりに広くて、かえって居心地が悪い。所在なげに部屋の中を見ていると、大きな掛け時計が目に留まった。完全に骨董品といってもいいような代物の振子時計だ。振子が規則正しく左右に運動して、カチカチと音を立てている。
 それ、機械式なのよ。
 茅井さんがお茶を運んできた。
 一週間に一度、ねじを巻くの。本当はひと月に一度くらいでいいそうなんだけど、年代物だからかしらね、一週間もしたらズレちゃって。
 湯呑みを置く。座卓もちょっとしたものだ。
 ちょっと待っててね。父の部屋が散らかってて、少し片付けないと。
 ひとりになると、またしても手持ち無沙汰になる。時計が時を刻む音がカチカチと静かな部屋に鳴っている。無駄な調度の類はほとんどない。必要最低限のものしか置いていない、だけれど置いているものにはちゃんと手がかかっている。飾らない潔さ、というのだろうか。
 五時過ぎか。外はもう夕暮れだろうか。されども、特段急いで帰る用事があるわけでもない。帰るにも帰れず、淹れてくれたお茶をすすりながらぼんやりと待っていた。
 本来ならもう少し素直に喜んでもよかったのだろう。茅井夏乃のことは確かに気になっていたのだし、幸か不幸か、今は彼女ひとりしかこの家にはいないという。だけれど、なぜだか浮ついた期待みたいなものは微塵も湧いてこなかった。
 もしかしたら、彼女のことが気になるというのは、言いしれぬ不安のせいだったのかもしれない。見ているとどこか落ち着かない気分になる。だから――
 彼女が僕の名を呼ぶのが聞こえた。湯呑みを置いて、僕は立ち上がった。
 案内するわ、といって板張りの廊下を歩いていく。暗い艶のある廊下はしっかりと体重を受け止め、かすかなきしみがむしろ快い。
 ドアの手前で立ち止まった。
 ここが、父の書斎。今は使ってないの。好きに見てくれていいわ。
 そう言って、ドアを開ける。
 洋間だった。絨毯が敷かれている。
 書き物机と、壁一面の本棚。息を呑んだ。壁だけでは飽き足らず、本棚から本があふれて所狭しとそこかしこに積まれている。こんな部屋に入るのは初めてだった。
 ええと、これだったかしら。この辺にあるわ。
 本棚から例の骨の画家の作品を取り出して見せてくれる。
 英語、の他にドイツ語だろうか。アルファベットに不思議な装飾のついた、僕には読めない言語の本もある。まるで、西洋の魔術書のようにも見えて、僕はおっかなびっくり手を触れた。
 これ、見ていいの、全部。
 もちろん。
 そのために来たんでしょう? とでも言いたげだ。
 今は誰も読む人がいないから、本も喜ぶわ。
 そうだ、と言って彼女は付け加える。
 こっちの部屋、電球が切れたままなの。ちゃんと中を見るんだったら居間の方がいいわ。
 それじゃあ、ごゆっくり。
 気を利かしてくれたのかどうか、ひとりにしてくれた。確かに、本を見るのにずっと脇にいられたらどうしようかと思っていたところだった。
 使っていないとは言っていたが、それなりに手は入っているらしく、本がほこりをかぶっている様子もない。この部屋の居心地は悪くなかった。
 装飾のついた磨り硝子の窓から入る明かりが、夕暮れの近いことを知らせていた。
 見回すと、壁にかけられているものに目が留まった。額のようだが、白い布がかけられていて何が飾られているかわからない。写真か、あるいは絵か。目を凝らしてみても特に何も見えなかった。
 布。ほこり避けだろうか。
 そういえば、鏡に布をかけるんだったな、と僕はふと思い出した。
 葬式の夜、何かが鏡に映らないように。
 何が飾られているのか、あとで聞こうと思った。
 書斎の蔵書はなかなかのものだった。目当ての画家の図録も五、六冊あったが、それ以外にも前から気になっていた画家の画集が何点もあった。
 どういう人だったんだろうな。
 自然と、書斎の持ち主に思いを馳せる。画集の他には、文学、歴史、医学、天文学、その他学問――なんだかとりとめのない取りそろえだ。本棚は持ち主の性格を反映するというけれど、僕にはよく判別しかねた。何をしていた人なんだろう。
 もうだいぶ暗くなっていた。
 何冊か選ぶと、僕は部屋を後にした。廊下は暗く、まるで迷路のように見えた。障子を通して、廊下に部屋の明かりが洩れている。居間に電気が点いているほかはどこにも明かりが点いておらず、薄暗闇になっていた。まるで、外の暗黒が家の中に滲んできているようだった。
 居間で、彼女は数学の勉強をしていた。ノートと教科書を広げ、今日の授業で出された宿題をやっている。
 集中しているのか、あるいは単に意に介していないだけなのか、僕には気にも留めない。
 しかし、確かに綺麗だ。僕は彼女の斜向かいの位置に陣取りながら思った。青白い蛍光灯の下では、なめらかな膚がよく映える。
 きれい、というのはどういうことだろう。ちょっとした所作や書き物をしている姿には何の問題もないのに、それが面と向かった瞬間、なんともいえない不安な胸騒ぎを引き起こす。よく整っている、ということに関していえば茅井夏乃はその点間違いない。整った面立ち、きめの細かい水のような膚、つややかな髪――彼女の髪は確かに目を惹く。白い肌とのコントラストで、みずみずしさが際だつ。そして、井戸の底のような、深い、深い瞳――。
 画集を眺めていたはずが、つい思考があらぬ方向に行っていることに気が付いた。さっぱり図像が頭の中に入っていない。
 ふいに目を上げると、視線が合った。どきりとする。
 楽しい?
 僕はうなずく。
 そう、良かった。
 彼女はノートの方に視線を戻す。そのまま、また会話は立ち消えそうになる。
 宿題の方は?
 もう終わるわ。
 随分早いね。数学の宿題、来週の提出じゃなかったっけ?
 そうね。でも、さっさと片付けてしまわないと、気持ち悪くて。
 計画的なんだ。
 そう? 普通じゃないかしら。
 彼女の口から出てきた普通という言葉には、どことなく違和感がつきまとった。
 ちょうど僕が何か当たり障りのない言葉を口にしようとしたとき、玄関の方で何か音がした。壁を殴りつけるような音だ。静謐なこの家にはそぐわない荒々しい音だった。
 音がやんだ後の静けさは、不穏さに満ちていた。
 表情がこわばっていた。彼女もそういう顔をするのだ。
 もう一度、同じ音。どんどんと、がたがたと、木造の家全体を揺さぶるような、そんな勢いの音。
 ――浅田君、ちょっと。
 彼女は、なにやら険しい顔をしていた。

 そうして僕は、廊下の物入れの中にいるのだった。
 ここに隠れていて。私がいいというまで出ないで。
 有無を言わせない口調だった。僕は勢いに押されて従った。
 物入れの中は暗かった。戸が閉められると真っ暗になった。
 かびくさい、湿ったほこりのようなにおいがした。肺の中が汚れてしまうような気がして、一度にあまりたくさん息を吸わないようにした。
 もう一度、例の乱暴な音が繰り返される。静寂。がらがらと、戸を開ける音――茅井さんが戸を開けたのだろうか。
 なにやらよくわからないわめき声のようなものが聞こえた。巨大な哺乳類の叫びを思わせる、低い、しかし大きな音。その後、バチン、と何かがはぜるような、厭な音が響いた。
 何か、理不尽なものがいる。
 みしっ、みしっと板張りの廊下を踏みしめる重たい音が近付いてくる。ぶつぶつとつぶやくような、蜂の羽音のような音を同時に立てながら。
 戸を一枚隔てた向こうに何がいるかはわからないが、こんなところで襲われたら逃げ場はない。
 少しの身体の動きが伝わって、身体を支える床がきしむ――いけない。
 音を立てたら駄目だ。
 ぴん、と神経を張る。髪の毛一本動かないように。
 脈打つ心臓の音が、外に洩れているのではないか不安になる。
 落ち着かないと。
 足音は少しずつこちらに近付いてくる。ゆっくりと、しかし確実に。
 足音が止まった。
 息を止める。
 向こう側の何者かの息づかいすら聞こえる気がする。
 遠くで、何事か言う声が聞こえた。茅井さんだ。
 それを聞いてか、足音は遠ざかっていった。
 息を吐く。張りつめた神経が緩む。緊張が解ける。
 とりあえずの危機はまぬがれたようだ。
 それからどれくらいの時間が経ったろうか。
 もう大丈夫よ、といって彼女が戸を開けてくれた。
 さっと彼女は振り返ってまた居間に戻る。薄明かりに、右の頬が赤くなっているのが見えた。撲(ぶ)たれたようなあとだった。
 居間に、何かがあった。
 中年の男性が床の上にうつぶせで寝て――いや倒れていた。
 紹介するわ。
 茅井さんは言った。
 ――私のお父さんよ。

 お父さん、と彼女の言葉をそのまま繰り返した。
 ええ、と彼女はうなずく。
 お父さんと呼ばれた人物は、倒れたままぴくりとも動かない。そばには湯呑みが転がっていて、お茶がこぼれている。僕は彼女の顔をうかがった。赤みがかった右頬が痛々しかった。
 大丈夫よ、死んでるもの。危険はないわ。
 じゃあ大丈夫だね、と僕は答える。自分で口にしていながら、何が大丈夫なのかはさっぱりわからなかった。死んでるだって。
 彼女の平静さが、かろうじて僕の意識をつなぎとめていた。なぜ彼女の父親がこんなところで倒れているのか、救急車を呼ばなくてよいのか。内心、あふれる疑問ではちきれんばかりだった。だが、彼女は僕の様子は意に介さない。だから僕は何も口に出すことができなかった。
 ちょっと待ってて。今、拭いてしまうから。
 そう言って、彼女は台所からバケツと雑巾を持ってきた。緑色のゴム手袋をはめ、濡れた箇所を雑巾で拭きはじめる。
 その光景を、僕はただ眺めていた。
 拭き掃除を続けながら、ふいに彼女が口を開いた。
 こんなに遅くなって、おうちの人が心配するかな。
 彼女の言葉に反応すべきか躊躇した。まるで独り言のように聞こえたからだった。
 ――ねえ、浅田君?
 そう言われてはじめて、僕は反応すべきだったことがわかった。
 いや、大丈夫。独り暮らしだから。
 だったら安心ね、お腹空いたでしょう? 夕食、用意するわ。
 無論そんな気分ではなかった。いや、気分どころの話ではない。
 そんな場合じゃないよね、と僕が言うと、彼女は、浅田君は食べなくても大丈夫? と尋ねる。
 返答に窮していると、浅田君がいいなら別にいいんだけど、と言う。
 じゃあ、すぐにでも埋めに行かないといけないわ。
 埋めるって、どこに。
 裏の森に。
 さも当然、というふうに彼女は答える。他にどこがあるのかとでもいうみたいに。
 拭き掃除を終わらせ、バケツと雑巾をしまうと彼女は言った。
 急ぎましょう、夜は短いわ。
 ついてきて、と言って、靴を履き、裏の納屋らしき建物に回る。納屋は真っ暗で、中は見えない。土ぼこりのにおい。茅井さんがどこかから懐中電灯を取り出して照らすと、古いリアカーが置いてあるのがわかった。荷台にはスコップが乗っており、ちょうど今このときのために用意してあったかのようだった。
 これを押していくの? と僕は彼女に聞いた。茅井さんは必要なものがちゃんと荷台に乗っているかどうか確認しながら、ええそうよ、と答える。確認が忙しいのか、心持ち返事も適当だ。
 納屋の大きな扉の外を、満月の月明かりが照らしている。
 古いリアカーを、僕は見下ろす。板は古ぼけ、金属の持ち手もところどころ錆びている。
 ああ、待って。これ、使って。
 茅井さんがくれたのはまだ新しい軍手だった。僕は軍手をはめるとリアカーの持ち手を握って引っ張った。ぎしっ、と大きくきしんで荷台が動いた。

 裏の戸口に寄せたリアカーまで死体を運ぶのは一苦労だった。重かったし、なにより気味が悪かった。これが生きている人間だったら運ばれる側が多少重心を動かすなりして気を遣うからそこまで苦労はないのだが、死んだ人間には運ばれる側としての気遣いも何もなかった。死体はのっぺりした重さで、うまく力の入れどころがわからず倍にも重く感じられた。なお悪いことに、僕は死体の顔を見てしまった。その顔は、凄まじい苦悶の表情をしていた。僕はそれ以降努めて顔を見ないようにした。
 茅井さんも運ぶのを手伝ってくれたが、そこは華奢な女の子の腕で、さして力になるはずもない。やっとのことで裏口から死体を運び出すと、なんとかリアカーに乗せた。
 小さな達成感を覚えたが、それはすぐに疲労感に変わった。
 もちろん、これで終わりのはずがないのだ。まだまだ夜は長い。
 茅井さんは青いビニールシートを持ってくると、広げて死体の上にかけた。
 僕がリアカーを曳き、茅井さんが僕を先導した。リアカーは重かったが、思ったよりは楽だった。何より死人の顔を見なくてすむのが良かった。
 彼女は懐中電灯を点けない。月明かりを頼りに僕らは歩く。
 そうして僕らはあの分かれ道までくる。
 昼間通らなかった方の道。
 森に続く道だ。
 少し進んだ道の脇に一際大きい看板があった。立入禁止と書かれていたが、ところどころペンキがはげている上に、錆びがひどかった。
 時折リアカーの立てるぎしぎしという大きな音を誰かが聞いていやしないか心配になる。
 安心して。誰も来ないわ。
 僕の不安を察するように彼女が言う。
 しばらくして、森の入り口とおぼしきところに着いた。そこから先は、ぼうぼうに草が生い茂っていたが、確かに一度砂利が敷き詰められた道のようだった。
 木々には虎縞のロープが張られ、森と外側の境界線が引かれている。黄色と黒、危険を暗示する色の組み合わせ。神経質なレタリングで立入禁止と書かれた張り紙もある。僕がまじまじと見つめているのに気がついたのか、大丈夫よ、うちの土地だから、と茅井さんは言う。
 心配はいらないわ。
 何の心配も。
 大丈夫、大丈夫、大丈夫。彼女が囁くたびに僕の頭はどうにかなってしまいそうになる。いったい何が大丈夫なのかがわからないまま。
 奥へ続く道は暗かった。満月だというのに、そこだけ黒の絵の具で塗りつぶしたようだ。月は見えるのに、月明かりは地面までは届かない。
 茅井さんは懐中電灯を点ける。それは大きい不格好な電灯で、黄色のボディに黒い染みみたいな汚れがついていた。
 行きましょうか。
 僕はうなずいた。
 森は寝静まっていた。リアカーの、キイキイと錆びた車輪の立てる音が耳に障った。時折風が吹いて、ざわざわと草木がなにごとか囁いた。
 茅井さんが照らす明かりを頼りに、僕はリアカーを曳いた。楽な仕事ではない。なにせ大の大人が乗っているのだ。それに、平坦だとはいえ、手入れされていない砂利道をガタゴトと行くのだから疲れないはずがない。
 しかしなにより沈黙が重かった。何でもいいから彼女に何か喋って欲しかった。だけれど、本当に聞きたいこと――
 (なぜ君のお父さんは死んでいるの)
 (なぜ君のお父さんを埋めにいかないとならないの)
 ――は、何か核心的なことに触れてしまうような気がして、むしろ聞きたくなかった。
 ねえ、何か話してよ。
 だがもう沈黙はうんざりだった。僕は彼女にお願いする。
 この道のずっと奥にはね、と彼女はこちらを向かずに口を開いた。
 古いオヤシロがあるの。
 オヤシロ? 
 社会の社、のヤシロよ、神社みたいなものかしら。
 ここもオヤシロの森っていってね、昔はちゃんと色々やっていたらしいんだけれど、私が物心ついたときにはすっかり廃れちゃっていて、ただオヤシロがあるだけだったのよね。
 小さな頃、よくあそこで遊んでいたの。
 ひとりで遊ぶのには良いところだったから、と彼女は付け加えた。
 だからそんなに悪いところでもないのよ、ここも。
 何もないよりは気休めになったような気がするが、どうだろうか。
 あとどれくらい歩くの?
 もう少しかな、あともう少し。
 その少しがどれくらいの少しなのかがわからない。懐中電灯の光は、液体のように黒々と広がる暗闇の向こう側までは届かない。いったいどこまで行けば終わりなのか、途方もなく遠い。
 浅田君、ご家族は? 独り暮らしって言ってたけど。
 叔父に養ってもらってるんだ。
 お父様とお母様は?
 随分前に離婚してね、父方の叔父に引き取られたんだ。
 変な気持ちがした。これまでこんなことを誰かに話したことはなかったのだ。
 それで、高校から独り暮らし。町の方にアパートを借りて暮らしてるんだ。生活費は叔父に出してもらってるんだけど、体のいい厄介払いだよね。
 そうなのかな、と彼女は相変わらず振り向きもせず言う。
 例えばね、もし叔父様にとって浅田君が本当に相容れない存在なのだったら、かえって自分から遠ざけた方がお互いにとって賢明な判断じゃないかしら。それとも、その厄介を抱え込んだままの共同生活を送る方がいい?
 茅井さんの言葉には何か含みがあった。そう言われれば確かにそうなのかもしれない。
 急に、茅井さんが足を停めた。辺りをきょろきょろ見回している。
 着いたわ。この辺かな。
 何か目印があったのか、わからない。どうせ茅井さんにしかわからないのだ。僕が考えを巡らしたところで、何か意味があるとは思えなかった。
 こっち、と茅井さんが僕を呼んで脇の藪をかき分けると、そんなに草が生い茂っていないひらけた場所に出た。
 スコップを持ってきてと茅井さんが言ったので、僕はリアカーに積んであるのを二つとも運んだ。
 茅井さんは手に持った懐中電灯の光でだいたいの範囲を示して、これくらい、掘るから、と言った。
 結構深く掘らないと、掘り返されちゃうから。
 誰に、とか、何に、とは僕は聞かなかった。
 そうして僕らは仕事に取りかかった。
 ざく、ざくとスコップを土に突き刺す音。金属音にも似た、どこか鋭い音。地面に突き刺し、体重をかけて踏み込み、土を掘る。掘り返した土を穴の外へと放り出す。時折固い石にあたっては、がちっと突っかかる。草の根が張っているところは、なかなかうまく掘り返すことができない。何度も何度もスコップを土に突き刺すしかない。
 黙々と僕と彼女は土を掘る。彼女の父親を埋める穴を掘る。
 軽く小一時間ほど経ったろうか。
 僕らは汗だくだった。額に汗をかきながら、ひたすら穴を掘っていた。服も靴も土まみれだった。
 本当のことをいうとね、と彼女は言う。
 初めてじゃないのよ。
 何が。
 お父さんを埋めるの。
 え?
 手。休めないで。
 ごめん。
 最初はね、些細なことだったの。本当に些細なこと。どうしてそんなことをしたのか、私も覚えてない。ほんのささやかなきっかけ。でも、どうしても堪えられなくって、紐で、寝てるお父さんの首を絞めたのよ。
 お父さんがじたばたして、それから動かなくなって、もう息をしないのがわかってから、私、はっとして。どうしようって思って。
 警察に行く? でも、おかしいでしょう。だって、お父さんが悪いんだもの。父親だからって、自分の娘だからって、叩いたり殴ったりするの。私だってずっと我慢してきたのよ。ちょっと刃向かっただけじゃない。それなのに、まだ責められないといけないの? 
 でも相談できる人もいなかったし、自分でなんとかするしかなくって。
 私ひとりじゃ運べないし、学校を休んだりしたらばれちゃうかもしれない。でも、だからって家の中にずっと置いておくわけにもいかないでしょう。腐っちゃうし、だいいち死んだ父親と一緒に暮らすなんて気味が悪いわ。
 だから、少しずつ裏の森に埋めたの。
 ――少しずつ。
 そう。少しずつ、運べるようにして、森に通って。
 それで、すっかり埋めてしまったというわけ。
 ――だったら、あの荷台に乗っている男は何者なんだ、と思ったが僕は黙って手足を動かした。
 それでね、次の満月だったかしら。ちょうど、今夜みたいな。
 どんどん、って家の戸を叩く音が聞こえたのね。それで、おおい帰ったぞ、って呼ぶのよ。お父さんが。
 てっきり、幽霊か何かかと思ってどうしたらいいかわからなくなったの。でも、何度も大きな声で呼ぶものだから。戸を開けたのね。
 そしたら、ぼうっと家の前に突っ立ってるのよ、生きてたときと同じ姿で。
 どうしてすぐに開けないんだ、って殴られたわ。でもお父さんは何も覚えてないみたいで、それ以外には何も言われなかった。
 いったい何が起こったのかわからなかったわ。お父さんが死んだのも間違いなく事実だし、お父さんを森に埋めたのも事実。でもそのお父さんがまた家にいるのも事実なの。
 結局私は、何もなかったんだということにして、また元の生活を送ることにしたの。
 確かにお父さんの首を絞めたのは悪かったし、私の我慢も足りなかったのかもしれない。もしちゃんとうまくやり直せるとしたら、その方がいいものね。
 でもそのうちにわかってきたのは、お父さんは前のお父さんとは違う、ってこと。
 どこか壊れていて、ヘンなのね。
 ヘンっていうのは、そうね、例えば、急にわけのわからないことを言い出したり、電池が切れたみたいに何時間もずっと動かなかったり、小動物を捕まえてきたり、とにかくおかしいのよ。
 それだけならまだ良かったんだけど、また私に手を上げるの。それも前よりひどく。前はまだ良かったわ。だって、一応タテマエでも理由があったんだもの。でも、今度は、ただ殴るのよ。無表情に、何も言わずに、ただ殴るの。何度謝っても、何を言っても、やめてくれないの。
 お父さんが帰ってきたとき、本当は私、少し嬉しかったんだと思うの、だってさすがに申し訳なく思うじゃない? でも、やっぱりお父さんはお父さんで、それも前よりもひどくなって帰ってきて、前にも増してやりきれなくって――
 それでまた、埋めに行ったわ。
 前よりも少し、深く掘るようにして。
 そしてまた次の満月――
 あとはその繰り返し。
 埋めるたびに、お父さんごめんなさい、私の我慢が足りなかった。次には絶対許してあげよう、ってそのたびに思うの。でも、お父さんね、殴るのよ。私のこと。何度帰ってきても何のためらいもなく、殴るの。それだけは変わらないのよ。
 何度やり直しても駄目なのよね。だからもう、最近ではすぐに埋めてしまうことにしてるのよ。だって期待するだけ無駄なんだもの。
 頭がうまく回らない。言葉はちゃんと耳から入るのに、どうにも実感を持って受け止められない。疲労と空腹で頭が朦朧としていた。確かに、あのとき彼女の言うとおり夕飯を食べておけばよかったと思った。
 それで――まだ掘る? 話が一段落したので、僕は尋ねた。
 穴はもう結構な深さになっていた。
 そうね、これぐらいにしておきましょうか。
 だったら藪の向こうから死体を運んで来ないといけない。
 僕が背中を後ろから抱え、彼女が足を持った。生い茂った藪をかき分けるだけでも大変なのに、死体を抱えながらはなおさらだった。よっ、とかなんとか声を上げながら穴の方へ運んで、せえの、というかけ声で穴に放り込んだ。首が明後日の方向に曲がった奇妙な姿勢になってしまったが、茅井さんは特に何も言わなかった。
 あとは埋めるだけだ。
 それまでの作業に比べて、穴を埋め戻すのは楽だった。死体に土がかけられ、姿を消していく。その光景はどこか感慨深かった。こうして土の中で肉が朽ちて、やがて骨になるのだろう。誰にも知られないまま。そしてこの死体を養分に草木が育つのだろう。もしかしたら花が咲くかもしれない。
 桜の下には、死体が埋まっているんだったっけ。
 僕が言うと、茅井さんは、そんなのきっと迷信よ、と苦笑した。
 それだったら、この森にももっと綺麗な花が咲いててもいいもの。
 穴を埋め戻す作業がだいたい終わりそうになったとき、僕はふと思い浮かんだ疑問を口にした。
 そういえば、燃やすっていう手はなかったの。
 駄目よ。くさいもの。煙も出るし。
 変に納得した。そういうものか。
 最後に余った土を適度に均しておいて、埋める作業は終わった。
 さあ、帰りましょう。
 へとへとだった。手足が重かった。このまま寝てしまうのではないかと思ったが、こんなところで眠るわけにはいかなかった。
 運ぶ荷物がない分、帰り道はまだ楽だった。普段使わない筋肉が痛んでいるのがわかった。
 無事に家に着くと、裏口の三和土に腰を下ろす。何時間ぶりかの休息を取った。僕は土だらけだった。
 お風呂、湧かすわ。待ってて。
 ごおおお、という、エンジン音にも似た低い音。どうも旧式の石油ボイラーで湯を沸かしているらしい。頭がふらふらする。待っている間に寝てしまいそうだ。
 知らないうちにうつらうつらとしていたらしい。湧いたわ、と呼ぶ声ではっと我に返った。
 洗い場で身体についた泥を落とし、熱い風呂に浸かった。気持ちがよかった。蓄積した疲労が、甘く心地よいものに感じられた。
 風呂場は水色のタイル張りだった。
 ここで、彼女は父親を解体したのだろうか。
 そんなことをぼんやりと考えていたことを覚えている。

 気がつくと、僕は布団に寝ていた。障子の向こう側は明るい。
 身体中が痛かった。節々がぎしぎしときしむようだった。
 ふかふかの布団が柔らかくて気持ちがよい。
 いや、そんな場合ではない。
 飛び起きると、見慣れない浴衣を着ていた。いつの間に着替えたのだっけ、と思うと昨晩の記憶がうっすらとよみがえってくる。
 ――もう遅いから、泊まっていくといいわ。床も用意したから。
 そうだった、そう言われたのだ。そして寝床に就くか就かないかのうちに眠りに落ちてしまったのだった。
 枕元に書き置きがあるのに気付いた。先に行きます、夏乃、とある。女の子の字にしては、多少丸みが少ないように思った。
 時計は四時を指していた。午後だ。もう学校はとうに終わっている時間だ。
 今日は無断欠席だな、とぼんやりとつぶやいた。
 別にどうでもいいことのように思えたし、実際どうでもいいことだった。
 まだ半分夢心地だったのだと思う。僕はあぐらをかいたまま長らくぼうっとしていた。
 そのうちにがらがらと、玄関の戸が開く音がした。
 そろそろと板の廊下を歩く音がこちらに向かってくる。
 障子を開けたのは茅井さんだった。
 僕はなんと声をかけたらよいかわからなかったので、とりあえず、おかえり、とだけ言った。
 一瞬、間があったように思う。
 ただいま。もしかして、ずっと寝てたの?
 うん、と答えてから、僕は恥ずかしくなった。
 そうね、朝もぐっすりおやすみだったものね。全然起きないんだもの。
 茅井さんはそのとき一瞬、笑ったのかもしれない。
 おなか空いたでしょう、何か作るわ。簡単なのでいい?
 遠慮しようにも、確かにおなかが空いていた。うなずいて、頬が熱くなった。
 彼女が台所に行っている間、僕は布団をたたんだ。和室で寝るなんてどれくらいぶりだろう。湿気った畳の香りがどこか懐かしかった。
 居間に向かうと、チン、というトースターの小気味よい音に出迎えられた。
 トーストにベーコンエッグ、それにちょっとしたサラダ。あと、朝食の残りだという味噌汁が出た。
 ごめんなさいね、すぐに出せるのがこんなのしかなくって。あれ、浅田君はマーガリンと、バター、どっち派だった? 一応どっちもあるんだけど。
 じゃあマーガリンで。
 依然、実感の乏しい状態が続いているけれど、焼きたてのトーストの香ばしさと、カリカリに焼けたベーコンの脂の匂いは、確かに現実のものだった。頭がくらくらとした。
 用意された食事を口にしながら考える。昨晩のことは夢だったのではないか。だけれど、昨晩のことが夢だったらこうして今茅井さんの家にいることの説明が付かない。夢でないとすると、こうして今、茅井家でご飯を食べていることは説明が付くけれども、昨晩のことが事実だったということになるわけで……。頭の中で思考がぐるぐると渦巻いていた。
 よかった。服、すっかり乾いたわね。
 庭先で彼女が言う。どうやら土まみれだった僕の制服を洗濯してくれていたらしい。
 何から何まで手際がいい、というのだろうか。豆腐と茄子の味噌汁をすすりながら、僕は何かかえって腑に落ちない感覚を抱えていた。僕の中で勝手に思い描いていた彼女のイメージと、今こうして目の前にいる姿がうまく整合していないからかもしれない。
 出された食事は、あっという間に僕の胃袋の中に収まった。
 あら、さすがに足りなかったかしら。よかったら、夕飯も食べていく?
 せっかくの申し出だったが、辞退させてもらうことにした。いったん帰って少し落ち着くための時間が欲しかった。

 その日、帰る段になって彼女は言った。
 ね、昨晩はありがとうね。本当に助かったわ。
 言葉の距離に僕はどきりとする。
 そうして僕と彼女――夏乃との関係は始まったのだった。

<続>

狩野宗佑「彼女は森の暗がり」(一)  2018/10/12


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