マリー先生の部屋
小説を投稿してみるテストその2。
マリー先生はいつも穏やかな微笑みを浮かべている。
先生は汎用人型ロボット[ヒューマノイド]だ。拡張機能[エクステンション]として、家庭教師用の能力も持っている。だから、僕と妹に色々教えてくれる。
授業中、先生は時折間違える。間違ったことを教える——いったい何が「間違ったこと」だなんてことが僕らに果たしてわかるのだろうか——というわけではなく、計算を間違えたり、単語の綴りを誤ったりする。そういったとき、多くの場合マリー先生は自分で気付いて訂正する。そうでない場合には僕か妹——妹の方がたいてい気付くのが速い——マリー先生の間違いを指摘する。マリー先生は「おや、確かにそうですね。ありがとう」といって速やかに訂正する。
とはいえ、これは欠陥というには当たらない。そもそもマリー先生は誤りについて寛容にできているのだ。実際、僕も妹もよく間違えたり失敗したりするけれど、それに対してマリー先生が無意味に厳しくとがめ立てすることはない。
ヒューマノイドは完璧であるようには作られていない、としばしば先生は口にする。ヒューマノイドは人々[ヒューマン]と一緒に暮らしているのだから、完璧である必要はないのだ。もし、ヒューマノイドが誤ることがなかったら、人は誤りがないことを当然だと思って暮らしていくことになってしまう。それはとても危ないことだ。ヒューマノイドより人間の方が誤りをおかす危険性がずっと高いのだし、事前に予想しなかった大きな誤りの可能性を見過ごすことになりかねない。
だから完全無欠を求めず、ちょっとした間違いを犯す可能性を許容することで、「人は間違う」という事実を忘れさせない、ということが重要なのだ。「過つは人の業」と格言めいたことをよく先生は口にする。間違えたら訂正すればよく、絶対に間違えてはいけない、ということを求めるのならそれは人の姿を模す必要はない。専用の機械を作ればよいのである。
マリー先生と僕と妹は小さな家で暮らしている。
近くには他の家はない。「家」といってもただ単にそう呼んでいるだけのことで、実際にどういう形をしているのかというのはわからない。外から眺めたことがないからだ。また「小さな」といっても、それは先生がそういうからで、僕は他の家を見たことがないから小さいかどうかはわからない。僕と妹の知識のほとんどは先生が教えてくれたことで構成されている。
外からこの家を見たことがないのは、この家が地中深くに位置しているからだ。なんでも、地上はとても人間が生活を営める環境にはないらしい。それどころか、移動や通信をすることすらままならないほどだという。だから僕も妹もこの家から出たことはない。先生が僕らの暮らすこの家のことをたまに避難所[シェルター]と呼ぶのは、本来は別の場所で生活できるはずであったということを暗に示している。
僕らの家の中には、僕と妹には使い方のわからない難しい機械類が並んでいる部屋がある。でも僕らはまだそれらを十分に取り扱えるだけの知識をもっていないので、中に入ってはいけない。遠い昔、一度だけ「特別に」先生に中を見せてもらったことがあるけれど、いったいそういった機械が何のために使うものなのか、何をするものなのか見当もつかなかった。後で聞くと、家の外部との連絡を取る特殊な通信装置がその部屋にはあるのだという。マリー先生は一日に数十分ほどその部屋で過ごす。これは先生の日課のひとつで、毎日欠かすことがない。
一日、というのは時間の単位で、僕らの生活の一番重要な基準となるものだ。僕たちの生活は一日というサイクルを基準に動いている。一日は二十四時間で一時間は六十分、一分は六十秒。この一秒というのは原子の周波数を基準に厳密に決められているらしい。また、七日間をまとめて一週間と呼び、これは僕らの生活サイクルのより大きな単位となっている。さらに大きな単位として一年というものがあるが、これは三百六十五日——厳密にいうと三百六十五日と四分の一日ということだが——つまり五十二週間と一日からなっている。どうしてこんなに複雑な単位系になっているのかというと、ずっと昔に人類が暮らしていた地球という惑星の環境に則って定められたかららしい。とはいえ、僕らのように日がな一日変化のない環境の中で暮らしていると、時間の由来といったものは些細な事柄に過ぎず、こういった時間の区分が実はマリー先生によって勝手に定められた規則であったとしても別段差し障りはなさそうだった。
ともかくも、僕らはそういう時間の定めに即して暮らしていた。この時間系にしたがって起床の時間や授業の時間、就寝の時間などが決められていた。例えば起床は六時で、授業の時間は九時から十一時、十三時から十七時の二回、就寝の時間は二十一時だった。授業の合間には適宜休憩時間が挟まれる。一週間のうち二日は授業は休みで、各自好きなことにその時間を使ってもよろしいということになっていた。
マリー先生は言葉や文法、計算の仕方なんかを教えてくれる。それ以外にも、自分の知っている色々なことを教えてくれる。例えば地上のことだ。
僕たちは地上に関する知識を持っていないので、僕らの想像する地上の光景というのはマリー先生の言葉のひとつひとつから勝手に自分の中で再構築したものでしかない。遙か昔、異国の奇妙な動物の伝聞に思いをはせた人々もきっとこんな感じだったのでしょうね、とマリー先生はいう。
マリー先生は歴史も教えてくれる。
この星は宇宙植民地だ。もともと人が住めるような環境でなかったところをテラフォーミングという技術で環境を作り替え、基地を作り、入植者がやって来た。
人々はこの惑星に定着・発展するのに大きく貢献してきたのがヒューマノイドである。
宇宙環境は厳しかったが、人間は、何より孤独であった。なぜなら、地球という人間の原点となる惑星以外に知的生命体を見つけることができなかったからだ。この大宇宙において、人間にとって友となるべき種族はいまだ見出すことができなかった。文明について、文化について、あるいは存在の意義について、語るべき相手を持たなかったのだ。なるほど、人間という種族の中ではある程度の共通了解のようなものはできた。しかしながら、それは人間という枠の中に閉じ込められた独善的な特殊解なのではないのかという疑念をついぞ人々は打ち破ることはできなかった。そこで、人間はヒューマノイドを造り出した。人間の話し相手として、共に考え、歩む友人として。そして、人間の理解者として。
労働力や、環境適応などというのはヒューマノイドの表面的な役割に過ぎなかった。人間はヒューマノイドを創造することによって自分ではない他者を創り出そうと試みたのである。それゆえ、ヒューマノイドが必要とされたのは人類の本質的な孤独ゆえだった。
その孤独がどの程度癒されたのかは定かではない。実質、単なる気休めに過ぎなかったのかもしれない。一部の人々はヒューマノイドという存在の根本的な部分にある不安定さというものを敏感に察していた。
あるとき、ヒューマノイドが反乱を起こすのではないか、という不穏な噂が人々の間で駆け巡った。多くの人はそれは悪質な冗談だとして一顧だにしなかった。しかし、それをもっともらしい真実であると見なした人々もいた。そういった反ヒューマノイド派の人々[ヒューマニスト]はある信念に取り憑かれていた。いずれヒューマノイドが人間に取って代わってしまうのではないか、と。それは人間にとってヒューマノイドは必要だけれど、ヒューマノイドにとって人間は必ずしもそうではないという事実に端を発していた。
反ヒューマノイド派は、各地のヒューマノイド工場を破壊する活動を始めた。小さな火種が大規模な対立に発展するのにそう時間はかからなかった。
人々の対立は深刻となり、やがて戦争が行なわれるようになった。
ヒューマノイドを巡って、人々は争った。ヒューマノイドのために人々は血を流した。憎しみが憎しみを生んだ。反ヒューマノイド派はヒューマノイド擁護派を機械の操り人形だと揶揄した。擁護派は反対派を暴力主義者[テロリスト]だとして非難した。両者の溝は決定的だった。相手を破壊者だとののしった擁護派も暴力に頼らざるを得なかった。共同体は危機に瀕していた。今にも崩壊しそうであった。そこで一部の人々はシェルターに自分の家族やヒューマノイドと一緒に疎開した。「ちょうど、あなたたちと私のように」。立場上、家族は避難させても自分自身は地上に残らざるを得ないものもいた。
戦乱が終わり、安全が確保されれば、地上に戻れるはずであった。戦乱が終わりさえすれば。しかし、その見込みは外れていた。
戦乱は、きっと終わったのだろう。永遠の平穏が地上を支配していた。あらゆる戦闘は終結し、あらゆる通信は途絶えていた。それはつまり、宇宙植民地の壊滅を意味していた。今では、いかなる通信を拾うこともできない。
「——結局のところ、本質的な問題というのは人類の孤独という点にあったのでしょう。反ヒューマノイド派の人々は、自らの作り出したヒューマノイドという存在を信じ切ることがついにできなかった。自分自身に取って代わってしまうのではないかという恐怖を最後まで克服できなかったのです。一方で、擁護派の方も、ヒューマノイドを盲目的に信じることしかできなかった。それも自らの孤独ゆえのことです。全く疑わないことによって本質的な問題から目を背けたのです。こういった方向性の違いのせいで、反対派と擁護派は相容れることがなかったのです」
僕は先生に聞いた。
「先生には僕たちは必要?」
マリー先生はいつもの微笑みを浮かべてうなずく。
「もちろんですとも」
僕たちがいなくなったら、と聞こうとして僕は一瞬考えた。
「ヒューマノイドにも感情はあるの?」
「……わかりません。あるという人もいれば、ないという人もいますね。あるいは、あるにしてもそれは擬似的なものに過ぎないという人もいますし、そもそも感情とは外部から見出す側に存在するという人もいます。そもそも人間の主張する『感情』という概念自体が曖昧な代物だという意見も少なからずあります。つまり人間の感情というものも錯覚に過ぎないということですね。私個人としてはどの意見を採用したらよいかよくわかりません。まあ、あったとしても不思議ではないというぐらいのものでしょうか」
「人間とヒューマノイドにとってお互いが必要だとしたら、それで申し分なくうまくいくのではないの?」
「それはどうでしょうかね。人間の時間は限られています。対して、ヒューマノイドは半永久的に存在し続けることができる。互いの時間の尺度が違うのです。人間にとってヒューマノイドが必要な理由と、ヒューマノイドにとって人間が必要な理由はおそらく違うでしょう。だから、互いが互いを必要としていても、ずっとうまくいくということは、よほどの条件が整わない限り無理なのだと思います」
最後に先生に尋ねた。
「だとしたらマリー先生、やっぱり僕たちも孤独なのかな」
先生は、一瞬、困ったような顔をしたのかもしれない。それまでに僕らに見せたことのない表情だったからだ。しかし先生はまたいつもの笑みを浮かべて、言った。
「……それは、わかりませんね。私には」
——随分昔の会話だ。
ここ数日、そのマリー先生が、姿を見せない。
僕らはずっと待っていた。先生が自分の部屋から出てこなかったからだ。その次の日も僕らは先生が部屋から出てくるのを待っていた。だけれど先生が部屋から出てくることはなかった。先生が姿を見せなくなって四日目も過ぎようというとき、僕と妹は、ついに先生の部屋をたずねてみることにした。
僕らはそのとき初めて先生の部屋に入った。
先生の部屋は僕たちの部屋とは構造が違っていた。僕らの部屋よりもマリー先生の部屋はずっと広かった。机と本棚、大きな戸棚もあった。
先生は、寝台に横になっていた。
「マリー先生」
呼んでみても先生は微動だにしない。
「先生、マリー先生」
もう一度声をかける。しかしまったく反応はない。
充電が切れているのかもしれない。だがこの部屋には充電ポッドは置かれていない。充電用のケーブルもない。何か違う動力源を使っているのだろうか。
部屋の方に手がかりがなかったので、マリー先生の方を調べる。
ケーブルの差し込み口も、電池の交換口も見当たらない。それに、調整パネルどころか、電源ボタンさえない。いったいどういうことなのか。それとも何か非常に特殊な操作が必要なのだろうか?
仮に単なる充電切れだとしても、これでは壊れてしまったのと同じことじゃないか。
僕と妹はひとしきりマリー先生の胴体をあらためたが、何一つ手がかりは得られず、もとあったように先生の体を寝台の上に載せた。僕たちの身体とまったく具合が違っていた。
僕たちはどうすればよいのかわからなかった。先生は修理の仕方を教えておいてくれなかった。もちろん先生が動かなくなったときどうすればよいのかも。この家のあらゆることを先生が司っていたのだ。
その、マリー先生が壊れてしまった。
先生がいなければ僕らには何もわからない。この家から出る方法すら僕らは知らない。先生から教えてもらったことが僕らのすべてなのだ。初期設定[デフォルト]で僕らが持っていた知識はとっくの昔に先生が消去してしまっていた。
僕と妹はそのまましばらく黙っていた。そのうちにエネルギー残量低下の警告が出たので、自分の充電が切れないうちにめいめいの部屋に戻った。
〈了〉
初出:GARIO+カノウソウスケ『短篇小説集 「擬」』 2015.9.20
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