今日も月が綺麗だ、という酔っ払いの回りくどい感想。
※酔っ払いの戯れ言です。
※何度読んでもあなたの糧にはなりません。
※2021年こそは、どこかへ行った、○○がよかった、という記事を書けるようになりたいと2020年の終わりにマウントフジに向かって叫んだ記憶がなくもないですが(ないです)、2/28時点では難しいようです。ご了承ください。
※繰り返します。酔っ払いの戯れ言です。
満月の夜。
先週はもう少し小さい月を西の地で見上げていたと思うと、「空は繋がってるんだなあ」とか思わないでもない。
メルヘン。地でいく大層なメルヘン。
満月を見ていたらきらきらしたものが飲みたくなって、缶のハイボール片手に思い余ってPCを立ち上げた。
「記事タイトル」は余白のまま。
公開するかもわからない。
という保険は、公開しなければだれにも届かないと思うとこれまた一興。
そういえば、今日読んだ本に「我に返る」という表現があって。
前後を読んでもなお、自分は久しく「我に返」っていないなあと思った。
ベクトルは内向き、いまの環境にできあがったそれなりの自分を当てはめて置いておく、器用なのか不器用なのか。
近いうちに「器用貧乏」についても考えてみたい。
ほぼ架空の予告。性格上絶対に書かない。
主人公は、「我に返」って人との関係性や自分の身の回りを見直し始める。
今まで見ていたのに脳が素通りしていたことや、小さな音、隅の埃、何もかもがクリアに見えるようになる。
「なるほどいまの自分にも必要だな」と思いつつ、大変偶発的な話でいかにして至れるのかは記載されていない。
果たしてクリアに見えることは、客観なのか主観なのか。
仕事もプライベートも、気付いていないけれど、見えているのに「見てないふり」していることがあるんだろう。
見すぎて当たり前になって、「見るまでもない」と勝手に脳が判断しているといったほうが良いかしら。
日々、信号が青から赤に変わることに感情を抱いたり、上司の理不尽に新鮮に傷ついていたら心も身体もいくつあっても足りないものね。
ここで仕事とプライベートを分ける必要性はないか。WLBとかではなくて。
良くも悪くも当たり前になって、普通になって、通常になって日常になる。
異常が通常になること恐怖を感じる話はどこかでした気もするし、していないかもしれないけれど今日は割愛。
人生経験を積むことは大切だろうし、生きていればなんとなくの糧は身に付けられるだろうけど、どうしても自分のやり方に固執したり視野が狭くなったり。困ったときにも自分の経験したHOWやプライドにがんじがらめになって後戻りが効かない可能性も内包している。
ポジティブに言えば「経験豊富」。だけど、そこにはリスクもある。
それらを改めて検分する機会は、それこそ「偶発的」でないと難しいのかもなあ。
改めて自発的に取り組もうと思ったって、どこから触れたらいいかわからないし、まず気づかない。
たとえば、価値観が揺らいだとき、信用していたことが崩れたとき。
視野が広がるというより、ゼロに戻る感覚。
見ていたつもりになっていたことを検める感覚。
恐怖ではない新鮮さ。
主人公は、周囲の人の幸せを羨んで卑屈になってを繰り返していたけれど、
わたしは主人公の「この一瞬」が羨ましくて仕方なかった。
外はもう春の匂い。マスクで過ごすようになってから、より一層季節の匂いには敏感になったように思う。
「#マスクフィルター越しの私の世界」。黙れ。
今までは「ツアーが決まったから秋」「ツアーが終わるから年が明ける」とバンドマンを地軸に生きていたことは言うまでもない。素性がばれる。割愛。
「ちゃんと有給の申請したっけ」そんなふとした考えが頭を過ったときにすら吐き気がしてしまうような、泥のような2月は終わり。
来月は泣かずに仕事ができるようになるといいね。
暦とは残酷なもので、麗らかでいつまでも寝ていたい3月に23営業日を持ってきた。どんなプレゼントだ、持ってきて許されるのは花粉までだばかやろー。
病んでも笑ってもこれが年度末、とは昔の偉人が遺したらしい名言。
祝日でたるんだ心と身体に鞭を打って、馬車馬のように働くのみです。
笑顔も毎日Ctrl+CからのVできたらいいですね。からのV。黙れ。
ところで、馬車馬ってそんな働いてたんですかね。
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