今日の天気は晴れ模様。
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自転車がひどいブレーキの音を立てる。
自分でブレーキをかけたくせに、身体は「聞いてないよ」とばかりに一瞬遅れて前につんのめる。
「帰ったら油を差そう。」
頭は現実的な今日を想うのに、目はどうしても幻想的としか描写のしようにないそれを追う。
気持ちよさそうに身を翻し旋回してゆく。
はて。柔らかい布団の中でもとうとう見つけられなかった夢を、いまになって見つけてしまったのかしら。
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夜と朝の狭間。
なんだか眠れない夜を、思い切って特別にしてしまおうと古い自転車を引っ張り出す。
走り出すと、自転車も無理やり起こされたことに抗議するかのように、ギシギシともカタカタともいえぬ音をだれかの眠りを守る街に響き渡らせた。
暫く使っていない自転車は、いつかは通い慣れていた小学校までの道のりを、お世辞にも滑らかとは云えない足取り(自転車の場合は、タイヤ取り?)で進んでゆく。
一瞬で表情を変えてゆく青とも紫ともつかない空を見上げて、
「太陽は東から昇るけれど、朝はどこからやってくるのだろう。」
そう、ふと思う。
起きているのはきっと新聞配達のおじさんとわたしだけ。
そんな気持ちすら沸き立って、想像をなぞるように紙とインクの特有の匂いが鼻の前をかすめてゆく。
垣根では24時間という概念を知っているかのように、草木が瑞々しい匂いをまき散らしている。
気を抜くと「おはよう」とでも話しかけてきそうだ。
朝がくる、眠れない夜を隠すように、何かをまたゼロに戻すように。
「明日は絶好の晴れ模様でしょう」、テレビ越しにそう伝える昨晩の天気予報士の笑顔の眩しさが脳裏に浮かぶ、快晴の予感を呼び起こす空だった。
はて、晴れ模様とはどんな模様なのだろうか。
小学校までの最後の上り坂に備え、身体を瑞々しい匂いでいっぱいにしてしまおうと、助走のような下り坂でペダルから足を浮かせて大きく空を見上げると、キラリと光る尾びれが目に映る。
「そうか、尾びれは空で輝くのか」
前髪が大きく風になびく。
「尾びれ」
自転車がひどいブレーキの音を立てる。
自分でブレーキをかけたくせに、身体は「聞いてないよ」とばかりに一瞬遅れて前につんのめる。
「帰ったら油を差そう。」
頭は現実的な今日を想うのに、目はどうしても幻想的としか描写のしようにないそれを追う。
きらめく尾びれ、舵をとるような胸びれ、腹の畝を順に見せつけるように、
気持ちよさそうにくじらが身を翻し旋回してゆく。
水族館で見るよりも大きく呼吸をしているのか、白い腹が膨らむのまで見えそうだ。
水族館でもここまでじっくりとくじらを見たことはなかったから、比べるのも失礼だけれど。
サドルを離せなくなった両の手がじんわりと湿り気を帯びてゆく。
柔らかい布団の中でもとうとう見つけられなかった夢を、いまになって見つけてしまったのかしら。
「くじらぐも」
記憶の片隅で、教科書で見た文字が浮かぶ。音読という文化、並んだ小さな机たちも奥底から引っ張り出されてくる。
雲にしては、陰影も細部も繊細なものだな、と頭の芯は醒めきっている。
大きな空を存分に味わうかのように、ときには影になりつつ、旋回するときには白い腹を見せ揺蕩い舐めるように泳いでゆく。
生々しささえ感じさせる眼玉がこちらを向いた気がした。
うっすらと背中に滲んだ汗を嗤うように風が吹いてゆく。
風が空に届いても微動だにしないくじらに、思わず前後を確認してしまう。
そうだ、起きているのは新聞配達のおじさんだけだ。
きっとこのくじらを捕まえようとする人はだれもいない。
だれにもばれないようにくじらに声をかけるにはどうしたらいいのだろう。
為す術もなく、空を揺蕩うくじらの腹をそっと指でなぞってみる。
くじらが西に進んでいることが分かったのは、空の中でも青色の濃い方へゆったりと進んでたからだ。
東の空は夜明けの準備で鳥たちが忙しく鳴き始めている。
「よるのくじら」
つとそんな名前が口をついて出る。
くじらを追いかけるように雲の名残が煙のように弧を描く。
正解とでも言うようにくじらは大きく西に舵をきった。
いつか同じような夢を見たと、また記憶の片隅から呼ばれた。
あの夜のわたしは「あのくじらはあの子が空に放したのだ」と既知の事実のように安心してそらのくじらを見上げていたこと、数百キロ離れた空の下で眠るあの子を想ったことが唐突に甦る。
「あの子はまだ眠っているだろうか」
あの子が安心して眠れているように、ためしに「よるのくじら」に願う。
くじらは私を誘うようにぐんぐんと西の空へ進んでいく。
「追いつけっこない、だってこの先は心臓破りの坂だもの」
頭では分かっているのに、既に右足はペダルにかかっている。
「自転車を漕ぎ出すときは右足から」
自転車を練習した時のお守りのような声が耳をかすめる。
漕ぎ出した脚は錆びたチェーンの振動に震え、開けたままの口から気管まで乾いた風に乗っ取られてしまったよう。
ふと、半袖の腕に一滴の水がかかる。
見上げるとくじらは変わらず私を誘うようにぐんぐんと進んでいた。
天気予報士の笑顔が脳裏に浮かんだ。
だって今日は晴れ模様。
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