「お笑い芸人なら笑いにしてほしかった」と言う人へ

  SNSが荒れている。お笑い芸人のやす子さんが、某タレントから誹謗中傷を受け「とっても悲しい」とツイート。加害者からの謝罪を受け入れた。

 時折「お笑い芸人なら笑いにしてほしかった」という一文をよく目にする。辛い出来事に遭った芸人に向けられる言葉だ。真面目にならず深刻にせず、笑いで返してほしかった――この一見、無邪気にも思える感想に、私が嫌な感じを覚えるのは、かつて女子プロレスラーの木村花さんが生前SNSで徹底攻撃されていたときに「プロレスラーなら逃げずに戦え」という論調をたくさん見てきたからだ。

 素直に言って、個人の尊厳を真っ先にぶっ壊しにきている人間に対して、職業観で対応する必要はない。そんな人は「私は客だぞ」と言っているモンスタークレーマーと同じである。人として守るべき一線を越えてきた人間に対しては、客として扱う必要がない。そこにたくさんのオーディエンスがいようといまいと、まずは自分の命と尊厳を守るための行動を第一に取るべきだ。その人はもう客ではないし、周りにいるお客さんも「自分がまず存在してこそ」の客なのだから。

 プロレスラー・アントニオ猪木の「いつ何時、誰の挑戦でも受ける」という名言はプロレスファンならずともいまだに伝説的な台詞として息づいている(「いつ」と「何時」で意味が被っているところに凄みがある)。

 どんなときにも「職業」として対応するのがプロ、という幻想に私たちは少し囚われているのではないだろうか。NHK『プロフェッショナル 仕事の流儀』で描かれる人物のように「個人の感情よりも職業観を優先する」――そういう人間を礼賛するようになっている。確かに、そちらの方がわかりやすい。個人の事情や感情を殺して、お客のため・仕事のために徹する、そのひたむきさには胸を打たれる部分もある。
 しかし・・・カメラの向けられない、誰にも見られないところでその人がどんな心の苦しみを抱えているのかは、誰にもわからない。仮にその胸中を吐露されたとしても「プロなんだから」「わがまま言わずに」と見て見ぬ振りをしてしまうのが今の私たちなのではないだろうか。
 個人を殺して職業として徹するのがプロ、という思い込みは、他人に向けられるだけでなく、いつか自分自分の肌に食い込む鉄鎖ともなる。だから問題なのだ。

 神田伯山の講談に『グレーゾーン』というものがある。古典ではなく、実体験をモデルにした創作である。あらすじは次のようなものだ。

主人公はかつて高校時代に昭和プロレスに熱狂していた。「プロレスは八百長」と言ってくる人間には、独自の理論武装で巧みに論破していた。しかし、新日本プロレスのレフェリーだったミスター高橋による暴露本の出版でプロレス界の裏側が世間に知れ渡ってしまう。「プロレスは事前に勝ち負けが決まっている」。主人公は幻想を打ち砕かれてプロレスに興味を失う。
時は流れて主人公は落語家になっていた。実力を身に着け、中堅と認められる頃、なんとあの『笑点』のレギュラーメンバーとなることが決定する。楽屋で大喜利のシミュレーションをする主人公に衝撃的な事実が告げられる。「笑点には台本があり事前に回答が決められている」。ショックを受ける主人公。しかも「つまらないダジャレを言うキャラ」まで設定が決められていた。幻滅しながらもなんとか心を殺してやり遂げる主人公。しかし裏腹に落語家としての知名度は上がっていき、稼業は軌道に乗っていく。
すると、かつてプロレスに一緒に熱中していた高校時代の友人から電話がかかってくる。
「最近のお前の活躍を見ていると本当に嬉しい」
「・・・でも一つ聞きたいことがあるんだ」
「中学生の息子が言うんだ。笑点なんて台本が決まってるって」
「俺はそんなはずはない、彼の才能は本物だと言った」
「俺は落語家じゃないからわからない。どうなんだ? 教えてくれないか」
友人の無邪気な質問に一瞬、たじろぐ主人公。口にした答えは・・・

 数年前の私だったら、最後の主人公の一言に「それでこそプロだ!」「さすが」と大拍手を送っていた。しかし、現在の価値観ではそれだけでは終わらせることができない、モヤモヤした感情が残るのも確かなのだ。

 個人を犠牲にしてプロとしての「夢」を守る。「幻想」を守る。それはそれで素晴らしさもある。しかし、グレーゾーンの主人公のように、真の落語の才能を持った人間が、「つまらないダジャレを言うキャラクター」で一生をもし棒に振ってしまうのだとしたら。それは落語界にとっても大きな損失なのではないか。たとえ笑点のキャラクターで人気が出て、人生が安泰になったとしても。本意ではない苦しみを抱えて生きる人生は、充実した人生だったと最後に振り返れるのかどうか。

 プロと個人。八百長とガチンコ。巧みな話術でこの間を行き来する、笑って泣けるグレーゾーンは超名作の講談である。

 グレーゾーンは2011年、2016年、2020年版があり、発表する時代ごとに少しずつ内容がブラッシュアップされている。私が期待するのは、2024年以降のグレーゾーンでは、このわずかに胸に残るモヤモヤ感をも晴らしてくれる、新しい結末が用意されていることだ。
 しかしそれとて正解というわけではない。変化する時代の価値観の揺らぎに鋭敏であることが、クリエイター本人、そして観客側にも求められる資質なのだろうと思う。

(聴いた方が楽しいので下記リンクからどうぞ)


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