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【日系二世】 潜水士ロイ・ハットリとモントレー湾のアワビ漁 〜崩壊した日系コミュニティの軌跡〜
はじめに
モントレーはカリフォルニアの中央に位置する海沿いの美しい街である。ここモントレー湾には、手付かずの自然が残り、クジラやラッコなど多様な海洋生動物が暮らす自然の宝庫であり、アメリカの保養地として多くの観光客が訪れる。
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モントレーのオールド・フィッシャーマンズ・ワーフを歩くと、イタリア移民の漁師やポルトガルの捕鯨船員、スペイン人探検家などの銅像や記念碑が建ち並ぶ。はたしてここで、かつて日系移民が水産業を興し、街のあらゆ海産物の収穫を主導していたとは誰も思わないだろう。
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モントレーの日系移民
この街に日系移民が移り住んだのは19世紀末期であった。苦難の末、彼らは同地の鮭漁船の80%以上を所有し、最新の潜水アワビ漁法を持ち込み、水産物の加工・流通まで自らの手で切り拓いていった。このため、1940年代までのモントレーの水産業は日系移民によってなりたっていたと言っても過言ではなかった。
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漁師家庭に生まれた日系二世 ロイ・ハットリ
1919年、ロイ・ハットリはカリフォルニア州モントレーの日系移民の家庭に生まれた。ロイはモントレーのイワシ缶詰工場から1ブロック離れた家庭で育ち、イタリア移民の多くが近所に暮らしていた関係から、英語を覚えるより先にイタリア語を学んだ。他の日系移民の家庭がそうであったように、彼の父親は漁師であり、また母はアワビの缶詰加工会社を経営し、日系コミュニティの働き先を提供していたが、家族を賄うには十分な収入ではなかった。
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ロイが初めて潜水を覚えたのは18歳のときであった。彼はアワビ漁の潜水士として、父の手を借りて潜水具を身につけ、水深4〜5メートルまで潜水した。潜水具は銅製の重たいヘルメットをダイビングスーツに捩じ込む方式であり、船上のコンプレッサーからホースを通じて空気をヘルメットに送った。潜水具の総重量は約150ポンド(約70キロ)にも達し、これはロイ自身の体重を上回るものであった。
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初めての潜水でロイは水圧や音、寒さに戸惑い、海底についた時は痛みで動けなくなってしまった。これが彼の生まれて初めての潜水の経験であったが、潜水士であった兄から潜水のコツをび、水中で思い通りの作業ができるようにると、夜明けから日暮まで水中で過ごすほど潜水に熱中するようになる。そして彼はいつしか、海の中の虜となっていたのである。
モントレーにおけるアワビ漁
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ドイツ移民のアーネスト・「ポップ」・ドールター(Ernest "Pop" Doelter)はモントレーでアワビを一般的な食材として広めた人物として知られる。彼はシェフのみならず起業家としての才覚があり、モントレーのビーチで作家や芸術家が「アワ・ビチャウダー」を楽しむ様子に着目し、サンフランシスコで開かれた万博で新鮮なアワビや缶詰を宣伝した。これにより、モントレーでのアワビ需要が急増し、日系漁師たちにとって大きなな市場が形成されることとなった。
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ロイがアワビ漁の潜水士として身を立てられるようになった頃、父は病気がちとなり漁に出れないことが多くなった。このため彼は一家の大黒柱として缶詰工場を経営していた母と共にハットリ家の生計を支えることとなった。ロイらモントレーの漁師はロサンゼルスまで南下して潜水を行い、「アワビ王」ドルターと共に、アワビをカリフォルニアの象徴的な食べ物として定着させるのに貢献した。
少なくとも当時アメリカでは、アワビはカリフォルニアの高級珍味として受け入れられていたのである。
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1939年9月、ロイがサンタバーバラ沖で潜水していた際、水深60フィート(約18メートル)の場所でこれまで見たことのない2種類のアワビの群生を見つけた。彼はそのアワビ18個を収集し、貝殻収集家で軟体動物学者であたアンドリュー・ソレンセンにその個体を持ち込んだ。ソレンセンはそれをスミソニアン博物館のポール・バーチ博士に送り詳しい研究を依頼する。結果、新種の白アワビであることが分かり、ソレンセンの名にちなんで「Haliotis sorenseni」として学名が登録された。またもう一種類は赤アワビの亜種で、ロイの名にちなみ「Haliotis rufescens hattorii」と名付けられた。
日米開戦と日系コミュニティの崩壊
1941年12月7日、日本海軍は真珠湾の米太平洋艦隊を奇襲攻撃し、アメリカと日本は戦争に突入した。アメリカ政府は、日本人の血を引く全ての人々に、市民権の有無に関係なく、内陸の強制収容所への移動を命じた。これは、アメリカで生まれ市民権(国籍)を持つ、ロイたち日系二世(ニセイ)も例外ではなく、10日間というわずかな猶予期間が与えられる保有資産の売却が指示された。
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モントレーの漁師家族は、二束三文で漁船や潜水具、そして水産加工場など全ての資産を売り払った。このときの売却額は本来の資産価値の1%にも満たない額であった。また、スパイなどとあらぬ疑いをかけられぬよう、日本の親族の写真や手紙など思い出の品々は燃やされてしまった。
ハットリ家は、アーカンソー州のローワー収容所に移送され、そこで3年間収容された。ロイはここで、生涯の愛妻となるヨシ・グレース・ハットリと出会い、最初の子供を授かった。そして他の日系二世と同じように、自らのアメリカ人としてのアイデンティティーを示すためアメリカ陸軍に入隊した。
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多くが太平洋戦線に投入され捕虜尋問や通訳、翻訳に当たる
ロイは戦争中、陸軍情報部(MIS:Military Intelligence Service)の一員として太平洋戦線に派遣され、戦後は被爆後の広島で医師の通訳として活動した。
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収容所からは581人が志願し31人が戦死した(引用:アーカンソー大学)
第二次世界戦後、収容所を解放されたモントレーの漁師たちは、他の場所で新しい生活を始めた。彼らはモントレーのコミュニティで受け入れられるかどうか分からない中、無用な折衝を避けてゼロから再出発することを選んだのである。戦争により日系漁師たちは、経済的にも社会的にも、そして法的にも何の保証もないなか再出発を余儀なくされたのである。
ロイ・ハットリの戦後
戦後、日系人の多くがモントレーを離れる中で、ロイ家族は住みなれたモントレーに戻った。しかし戦時中の損失と強制収容所での生活により、生活の再建は困難を極めた。ロイは時計修理店で仕事をする傍ら、早朝にクリーニング店で働き一家を支えた。忙しい日常にあっても、彼は時間を見つけては海に潜り続けた。
彼は海藻の森や岩に付着する海洋生物、そして水中の多様な動植物に魅了されていたのである。ロイは自分の潜水への想いについて「海中はまったく別世界だ。これを生業にしてきたことを一度も後悔したことはない。」と語っている。
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フランスの海洋学者、ジャック=イヴ・クストがアクアラングを開発し、潜水をレクリエーション・ダイビングというスポーツとして世界的に広めると、ロイはこれに共鳴し、モントレー最初のレクリエーション・ダイビング・クラブ「「シーオッターズ(The Sea Otters)」を創設する。
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ロイはスキューバ・ダイビングも楽しんだが、フリーダ・ダイビング(素潜り)をより好んだ。また、1962年にはスピアフィッシング(銛や水中銃で魚を捉えるスポーツ)でカリフォルニアヒラメの世界最大記録を樹立していおり、この記録は現在まで破られていない。
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その後、モントレーでは水産業が衰退していき、モントレー湾への野生ラッコの復活や、観光業、レクリエーション・ダイビングなどが盛んになっていった。そして幼少期にロイが暮らした家の近所にはモントレー・ベイ水族館が建設されるなど、時代の経過とともに街は様変わりして行った。モントレーの経済が水産業から観光やレジャーにシフトする中、ロイは海と関わりを続けながら地域社会の移り変わりを静かに見守っていた。
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ロイは日系アメリカ人市民同盟(JACL)から表彰された際、以下のように語っている。
「私のことを、一生涯を海のそばで、海の近くで、海の上で、そして海の中で過ごした人物として記憶してもらいたい。」
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ロイ・ハットリは2011年のクリスマスに92歳で亡くなった。
参考資料
・Melissa Ashley, Caleb Fineske, Leilani Leszkay, Tommy Hattori, Kylie King, and Richard J. King "Roy Hattori and the Japanese American Abalone Fishery of Monterey Bay" SEA HISTORY : 2024.
・Mark C. Anderson "A passionate historian sets the record straight on who changed the abalone game once and for all." June 19, 2014.