リトアニアからベルギー留学で遭遇した憎悪感情と向き合う方法
リトアニアの大学院中に
Erasumas(EU圏内の交換留学)で
ベルギーのブリュッセルにある大学である
IHECS(Institut des Hautes Études des Communications Sociales)の
短期留学に2024年2月9月~16日まで参加していた。
こちらは、有難いことに在籍する
Vilnius 大学から補助金として790€をいただけた。
1週間のプログラムは、Interculturalism
(異文化間主義)をテーマに様々なアクティビティやグループ課題に取り組んでいた。
国際都市ブリュッセルにてIHCSの学生達と
リトアニア、ポーランド、ルーマニア、チェコの
大学から集まった各代表学生たち
総勢40名程度での学びは普段の授業と異なった
刺激的な学びがあった。
その環境下で人間の持つ憎悪感情について遭遇した経験と自身の考えたことを書き留めたい。
短期プログラムの概要
プログラムの概要を一言でまとめると
音楽、芸術、食、ダンス、映画、対話を使って
Interculturalism(異文化間主義)の実現を考えることだ。
幸いなことにプログラムのコンテンツ
に研究テーマに関連する難民の社会統合に
取り組んでいるNGOスタッフからのレクチャーや
シリア難民映画上映、シリアやガザ出身者との
交流機会があり、私の関心事項と強い結びつきが
ある内容であった。
Interculturalism(異文化間主義)とは
プログラムのメインテーマである
Interculturalism の定義は以下の通り。
実際のところ、この理論は定義だけを確認しても理解しにくい。
様々な国籍の人間が同じ地域で生きていく中で
インターカルチュラリズムの状況は、
下記の図が分かりやすい。
左の図がMulticulturalism 多文化主義で
同属の国籍、宗教、価値観で固まっており、
相互の交流がない閉鎖的な状態。
一方でInterculralism異文化主義は、
様々な異質な文化間が活発に混ざりあっている
ネットワーク拡張型の環境である。
左図のような状態は、閉鎖的な環境により
自分とは異なる他者への偏見を持ちやすい。
このプログラムでは、右の図のような
インターカルチュラリズムの作り方、
対話による相互理解の促進手段について
音楽や芸術、食など様々ツールを使って
考えていくことを目的としている。
とは言え、社会の潮流は
分断、排除、二極化である。
様々な文化が混ざり合う国際都市ブリュッセルにてインターカルチュラリズム実現の難しさを
痛感した。
遭遇した個人の憎悪な場面
この困難さは、プログラム中に直面した
人間の憎悪感情との遭遇が関係している。
2つの具体的な事例を紹介したい。
1つ目は、CinemaximiliaanというNGO主催のイベントでギニア、ガザ出身の難民申請者同士の
いざこざだ。
彼らは些細なことでミスコミュニケーションを
起こし、かつ言語の壁によって
双方にイライラが募っていたようだった。
ガザの方が差別発言を言ったことで
ギニアの青年は、涙目になりながら拳を握り
危うく暴力を振るう可能性を感じた。
私は、このようなトラブルの仲介をする事は
過去に度々経験していた為、
ギニアの青年を引き離し
彼の怒りを取り除くことに全神経を使った。
この時、神経を擦り減らして
心臓の音が聞こえるほど緊迫した場面で
アドリブでとっさに下記内容を伝えた。
「日本がどこにあるか知っているか?
ギニアと日本はものすごく遠い。
貴方は、ギニアの隣国であるセネガルの文化の理解に比べたら、日本の文化や価値観を理解するのは
すごく難しいだろう。でも、それでも
貴方と友人関係を築きたい。
ガザとギニアも同様だ。距離的にとても遠いよね?
ミスコミュニケーションだって起こるだろ。
でも暴力はだめだ。二人ともそれは望んでいないはずだ。私は、物理的な距離の壁を乗り越えて
双方の努力で橋を架けることが出来ると信じている。」
この言葉が正しかったかは全く分からない。
しかし、少なくともグーパン寸前から
彼は笑顔になり私との握手でその場は終わった。
このいざこざが起きる前は、おいしいパレスチナ料理をごちそうになり
シリア人映画監督の言葉に心を揺さぶられたばっかりだった。
しかし、この経験は、自身の様々な感情や葛藤に直面するきっかけとなった。
2つ目の憎悪は、私が直接遭遇した事例ではないが
グループワークを一緒に取り組んだ同性愛者の
ベルギー人がバーでアラブ系の移民に
アラビア語で差別発言を受けたことだ。
その場には、私のクラスメイトでアラビア話者の
モロッコ人のがいたことでヘイトスピーチを理解することが出来たそうだ。
LGBTの歴史は差別の歴史と言っても過言ではない。国によってはLGBTを公表しただけで迫害を受けるケースもあり、難民として避難せざるを得ない人もいる。
この2つの事例を経験した後に
改めて異なる文化や価値観が混ざり合うほど
このような人間の憎悪感情を誘発させるリスクがあると痛感した。
Interculturalismが実現する理想と
暴力、排除、憎悪が蔓延する現実の世界では、
分厚い壁がある。
人間の憎悪感情との向き合う方法
この経験で様々な思索を重ねた結果、
人間の憎悪と向き合う上で大事なことを
2点考えた。
1点目は、
自分の中のモラルコンパス(倫理基準)を明確にして日々アップデートしていくことだ。
何が正しくて、何がダメなのか。
この倫理基準の幹を言語化し、理解することだ。
モラルコンパスを柔軟に育めば
今回のような場面に直面した時に
自分の取るべき行動に迷いがなくなるはずだ。
何があってもいかなる暴力はだめだ。
ヘイトスピーチ、憎悪発言、人種による優劣思想は
決して許されるべきでない。
自分の立ち位置の理解、その背景を批判的に
深堀していくことをやめない胆力が必要だ。
2点は、
自分のモラルコンパスに反した出来事に遭遇した時
「声を上げる」勇気だ。
脆弱な立場に置かれる人々は
声を上げたくても上げられない場面が数多く存在する。
声を上げることは怖い。
大きな勇気が必要だ。
この際に心に留めたいのが
フランスの寓話『茶色の朝』で描かれた世界観だ。
この物語は、「茶色以外のペットは処分するように」という法律を皮切りに、主人公の”俺”と友人
シャルリーの身の回りで次々に「茶色」以外の存在が認められなくなっていく物語だ。
“俺”は新聞、ラジオ、服装、言葉……とあらゆるものが茶色に染まっていくことに驚きつつも、その都度理由を見つけて違和感をやり過ごしていく。
自分とは関係のないことだからと思考停止になり
ついに「以前、茶色以外の犬を飼っていた」という罪でシャルリーが逮捕される。
かつて白黒のぶち猫の飼い主だった“俺”は、自身の身も危うくなったと気づき、抵抗してこなかったことに後悔する。
この逸話が伝える社会へのメッセージは
自分の違和感を見逃さないこと
やり過ごさないこと
考え続けること
と思う。
自身の違和感に関する感性と向き合い
思考を辞めない胆力によって
自ずと声を上げる勇気を出せるのではないか。
—-End ———
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参考
・茶色の朝(2003) https://amzn.asia/d/dsrwQ5Q