6年ぶり3度目のイスラエル•パレスチナ渡航記③魂を揺さぶられた戦時下の結婚式
前回
の続きでイスラエル・パレスチナ渡航記最終回は
渡航目的である旧友パレスチナ人の結婚式。
場所はイスラエル領域でイエス・キリストが
育った都市ナザレ。
ナザレはアラブ系の都市でもあり
イスラエル国籍を持つパレスチナ人が
多く住んでいる。
新郎新婦はともにパレスチナ人であり
参列者の多くがパレスチナ人だったが
一部ユダヤ人も参加していた。
もちろん、パレスチナの結婚披露宴は
日本のマニュアル化されたそれとは大きく異なる。
パレスチナの結婚披露宴はシンプル
踊る。踊る。ひたすら踊りまくる。
まず18時
爆音を鳴らし新婦を乗せた車が到着。
音楽隊らしき集団が盛大に演奏しながら
新郎が入り口までエスコート。
その間、参列者はひたすら盛り上げる。
指輪の交換、写真撮影が終わったら
一旦終了
外でゆるく参列者と雑談すること3時間
披露宴が21時から始まり、24:00まで続いた。
日本の結婚披露宴のような
堅苦しいことも
きっちりとしたスケジュールは
何もない。
参列者の服装も非常にカジュアル。
新郎新婦と親族とお世話係はきっちりと正装して
いるが、多くが私服で参加していた。
21:00過ぎに
ミュージシャンの演奏が始まると
新郎新婦が中心になって
参列者は、踊って踊って踊りまくる。
新郎新婦に求められる資質はたった1つ
3時間踊り続けられるかどうか。
新郎のお兄ちゃんとは9年ぶりに再会したが
真面目で知的な彼は
見た目とは裏腹にこの場は
クラブのパリピのように
踊り続けていた。
ここでは、楽しく踊ることが
最大の祝福なのだろう。
私が今回も大変お世話になった新郎の親友は
披露宴の前日
一緒に夕食を食べながら
うなだれていた。
「明日は親友の大事な結婚式だ。
でもガザの問題はどうなんだ。
ずっと頭から離れない。
ここからレバノンも近い。
ヒズボラの影響も気掛かりだ。」
彼はNGOでパレスチナ支援の仕事を行っており
彼の住む町はレバノンの国境と目と鼻の先にある。
結婚式を祝いたい半面
パレスチナ人として
ガザで起きている問題に
心を痛めている状況に
上手く返す言葉を見つけられなかった。
彼と最後に会った6年前から
彼の毛髪量の変化が
彼のストレスの大きさを物語っていた。
しかし、結婚式当日
彼は、焦燥感漂う前日とうって変わって
意気揚揚と式の準備を行っていた。
会場に向かう車では
日本のアニソンを大合唱して、
ハイテンションになっていた。
披露宴では
彼は喉が枯れて、足が棒になるほど
全力で歌って踊っていた。
幸せそうだった。
このギャップに魂を揺さぶられた。
現状を考えたら
彼の頭の中は苦しいことで溢れている。
でも、今日だけは
笑顔で全力で楽しもう、お祝いしようと
振る舞っている姿に胸を打たれた。
郷に入ってたら郷に従えの精神で
彼らと共に私も歌と踊りに出来る限り参加し
心が温かく・ハートフルな瞬間を味わえた。
結婚式の参列者の多くはパレスチナ人で
彼と同様に、ガザ戦争・イラン&ヒズボラとの
緊迫した情勢によって何かしら多くの問題を抱えているだろう。
でも、今日だけはこの1日だけでは会場全体が
「新郎新婦の門出を祝おう!」
という心意気に溢れていた。
新郎や新郎のお兄さん、お母さん、新郎の親友が
口を揃えて
「こんな状況の中でも海外から
参加してくれて心から有難う」
と何度も御礼を言われた。
新婦新婦の海外の友人の多くは
情勢懸念を理由に参加を断念していたとのこと。
今回は特に様々なリスクを考慮しての渡航だった。
渡航前は純粋に「参加したい」という
気持ちだけだったが
結婚式で関係者に御礼を言われて
私が熟考して参加した意味を見出せた気がする。
停戦の見通しが未だに見えないガザ戦争
イラン・ヒズボラの報復懸念で
中東全体の情勢悪化
この状況で
私というパレスチナとゆかりがある個人は
‘‘パレスチナの事を忘れていない
大事に思っている’’
ということを行動(渡航)を通じて
パレスチナの方々に訴えることが
できたのではないか。
私は
「パレスチナに再訪するチャンスをくれて
こちらこそ本当にありがとう!」
と新郎関係者に伝えた。
彼らは、
どうにも目の前の困難な変えられない事柄に
日々直面している。
パレスチナの結婚式を通じて
いま目の前の過ごし方は自分次第で
ポジティブな状況に変えられる
ことを改めて学ばせていただいた。
ガザの人道危機、ヨルダン川西岸での
占領や暴力の激化は
様々な感情が蠢く。
一方で
6年ぶり3度目
イスラエル・パレスチナ戦時下の渡航は
旧友たちとの再会の数々に魂が温まり
パレスチナ人の方々の優しさに心が沁みて
結婚式で幸せな空間に立ち合えたことで
やっぱりパレスチナの人や文化が大好きだという
気持ちが溢れ出た
記憶に残る旅となった。