「主意主知不自由」の「濃いめ固め少なめ」性について
「不自由」とは「意のままにならないこと」を指すが、これもまた違和感のある表現である。はたして「意」を「まま」にするとは、何か。そもそも自分には「純粋に自分から表出」した「意」があるのか?という感じもする。常々「なんだかんだで流されながらも、まあそれでも人生十分だよね」という頽落もまた「意」と言えなくもない。というか「意」であると言い得たい。ので、もう少し客観的に「主意」と「主知」という観点から「意」を考えてみる。
主知主義=intellectualism はヒトの活動において「知識」の役割を重視する立場。いっぽう主意主義=voluntarismは、知識ではなく「意志」を重要視する立場、もっというと「知識のみを重要視するのはまちがっているよ」という立場だという。主知主義を代表するのはソクラテス先生で「善を成すには、善に関する知識が必要である」というような事を述べている。主意主義を代表するのはキリスト教の教えなどに代表され、「善の知識があっても、善を意志することなしに、ヒトは善行を行わない」というような点を強調する主張だ。
主意主義では「善の知識」を超えたところに「意志=神の御心的なもの」が位置づけられ、これはフランクルが「道徳」について信仰心と関連付けてそれ自身を精神次元のありようとして行った考察や、プラトンのイデア論、フッサールの間主観性などに近いと思う。
二つの主義を並列すると見えてくるのは、「自分の意」の“「自分以外の意」性"である。つまり、「自分の意」だとしている知識は「自分(という意識)を超えた」次元にあるイデア的な、あるいは道徳的精神的な、もっというと神の導き的な「意」に接触しているのではないか、という気分である。もちろんそうした「大いなるもの」に落とし込まなくても、間主観性や環世界性のような「ムード」や「トーン」と呼べるものとして置き換えても良い。
だいぶ飛躍して決着を急いだ間もあるが、もしそうだとすると「意」を「ままに」扱うこと自体、無茶な話だとも思えてくる。「意」は「知識」とは区別されるのでなんらかの「規範」を伴う。その「規範」はもちろん自分の後天的な知識が作り出したものではない。「不自由」という状況が「意のままにならないこと」を指す場合、「不自由」とは「(ヒトを超えたところにある共通の規範の)導きのままにならないこと」とパラフレーズできる。こうして「不自由」が本当は「自分の意」の外にあるもので、外部から要請されているものに対する反応にこそ生まれるものかもしれない、という仮説が成立すると、「不自由」の居場所が当事者にはなく、外部に委託され得るものだというレトリックも成立する。
すると“個人の持つ"「不自由」さが本当は、“社会の規範や要請の"「意のままにならなさ」と言えてしまう、現代の持つ不自由さの構造が少し垣間見えてくる。
「不自由と意」に関連して「意志決定支援」という言葉を考えてみる。
たとえばなんらかの理由で発声や発語、他者とのやりとり、コミュニケーションが難しい場合、当然だが理解に繋がらない状況にストレスは高まる。この時どのように「自己選択・自己決定」をなせるかは、当事者を含めた環境全体の重要な問いとなってくる。
「意」が自分を超えたものとしてあると考えると、そうした「意志」に対して選択し決定していくことこそが、自分を超える手段の一つであるとも言える。それは「実存」=exsistere、自分を超えるものにほかならない。最初の「主知・主意」を(あり得ないけど)二元論的に参照すると、一人称(つまり当事者)には「主意」多め、二人称三人称(つまり環境)には「主知」多め、というバランスが良さそうだ。なんとなくそういうバランス感覚は、知識や意志よりも伝達しやすい性質を持っている気がする。感覚の伝達に関する先行研究は多分たくさんあるだろうから追って引いてみたいとして、「濃いめ固め少なめ」みたいなオーダーをなんとなく感覚として共有・共感出来るところに、ヒトの柔軟な強さがある。
「一人称の主意多め」とは、自己選択していくことで自分を超えられるという「意」を中心に据えるということであり、「二人称三人称の主知多め」とは、そうしたわずかな、テレパシーにもにた「一人称の主意多め」を“受け取る解像度"としての「知識」が不可欠そうな事から来る。そうした意味で「支援」の周りには、知識を得るための「気遣い(現象学的な意味での)」の基盤を作ることも大事になってくる。そうした基盤作りのレファレンスともなる「アセスメント」はどう利活用できていくのか。
アセスメントには「構造化されていないアセスメント」と「構造化されたアセスメント」があるという。
前者は、日常生活に関する生活状況や日常生活動作が、どのような状態にあるかの把握から生まれるもの。現在の目標や気持ちなどもここに括られ、有用であるという。また、コミュニケーションの度合いも含まれる。当然、文脈の整合性や、対人関係の作りやすさなども関連してくるだろう。
いっぽう構造化されたアセスメントには、発達検査や知能検査、認知機能検査など数値的に把握される次元が含まれている。認知機能、注意、記憶、遂行機能などを測るさまざまなテストがあるが、当然これらは単独でヒトの中に存在している能力ではなく、複合的な能力を抜き出して記述している点に注意し、その指標に注目しすぎないような気持ちが必要であることも十分頭に入れたい。
こうした多側面からのアセスメントの目的は「共感的かかわり」の形成に役立つ。「不自由」は千差万別なため決して一般化することは出来ない。しかし「共感」という「状況」については、その態度として一般的かつ構造的に振る舞うことが望まれる、なぜなら「ごく当たりまえ」「とても大変」という尺度は、本来個人の中にしか存在しないが、そうした尺度が社会的「かかわり」に現前し表出すると、とたんに形容されうる形として捉えられてしまう。この時それが「共感的かかわり」を前提として受け取られることが、さまざまな問いに直面する際の助けとなるからだ。とくに幼い当事者では、まだ自分の容態と周囲環境とを分離しきれず「自分が悪いことをしたから」病気等になったのだと空想してしまうことも多いという。こうした自認と他認とのイメージのギャップをどう受け取り、共感するかについて、社会側が十分に理解しておく必要がある。
こうした「自分の選択肢は正しかったのだろうか」という問いは、実存的問題に関わる。ハイデガーはこうした「未来への不安に至る、過去の選択肢に対する、現在の悩み」を「時間性」とし、その構造を「存在と時間」の中で語った。フランクルの言う「画家と眼科医」の比喩もこうした「時間性」に対峙するための理論だと言える。これについては後述したい。
もちろんこうした、「まあもう十分考えたから次でいいよね」という選択もまた、「意」のなす力強さにほかならない、と言えなくもない感じだと言い得ないだろうか。