中学校教員パワハラ日記
「余命は一年だって」
母が肩を落としてそう言った。
祖父が入院して、しばらくしてから自分にそう言った。
自分は試採用の中学校の非常勤だったが、「常勤の非常勤」という奇妙な雇用だった。(※「常勤の非常勤」てはいについては別記事で必ず詳細を書きます)
家族での看病が必要だ。
自分は学校を休みがちになり、時には早退をした。
校長、教頭にはこの説明をしたがやはり退職をしたい旨を伝えていた。慰留はされていたが、心ここにあらずだった。
教頭は勤務当初から自分のことが気に入らないらしく、何かある度に自分を呼び出した。
例えば
1.期末テストの枚数が多い。
2.期末テストの枚数がぴったり。
どういうこと?
1の場合は乱丁落丁のための予備のため
2は別に良いのでは?
とにかく、自分のことが気に入らない。そう、バレーボールが嫌いなことがそれに拍車を書けている。彼はバレーボールの理事だったのだ。彼自身も経験者で昔はバリバリの鬼コーチだったらしい。しかし、今は教頭になりかくのごとく若手イビリだ。
何か都合の悪いことがあると
「教諭になったときの勉強のために耐えなさい」
だった。
もうこの職場自体が嫌いだった。
そんなある日
放課後、日番のため校舎内を回っていると、とある理科教諭が自分に声をかけた。40代後半だろうか、頭は白髪。そして、彼もバレー出身のガテン系。
「ちょっといいか?」
パソコン室に呼び出された私は何の事だか分からず、戸惑っていた。
すると、彼は饒舌に話し出した。
「もっと一生懸命働けよ、お前は講師なんだから。俺が教育委員会に声をかければすぐにお前の仕事なんてなくすことができるんだぞ。お前のじいさんだってどうせ死ぬんだから、今は働けよ」
慟哭
慟哭
慚愧
続けて、彼は言う。
「お前の教科の5が多すぎる」
→既に絶対評価だったが、そこまで多くしているつもりはない。(35人学級で8人程度)
その後の講釈は一言目の津波でもう頭に入ってこなかった。
最後に彼は
「俺が教えてやれるのは酒の飲み方くらいかな」
こういって、満足そうに部屋から出ていった。
呆然とした自分は、しばらくその場に立ち尽くし、ただ蒼然と並んだ机を眺めていた。
数分後、怒りが細波のように押し寄せる。
1回、2回、3回……
それは少しずつ大きく、激しく、速く、強くなって、自分の心を揺さぶり、赤く燃やした。
その後、このことを教頭に報告し、帰宅。
翌日、私は欠勤した。
そして12月。ボクは退職した。5月に退職を申し出て、代わりが見つかるまで7ヶ月。
人生で最も屈辱的な7ヶ月だった。
後日談:
教頭はその理科教師に事実確認をせず、校長にも報告していなかった。一ヶ月以上経過してから、校長には自分が直接伝えた。
いま考えればICレコーダーでも持っていれば良かったのかもしれない。
この話題は大昔の話ではない2000年以降の話である。
そして、ボクはこの学校を任期途中で辞めた。退職後、教頭から口止めの電話が来た。
「こんなことにこだわっていても君のためにならない」
だそうだ。自分は電話を切った。
雑音でしかなかったから。
この教頭は現在、地区の中学校バレーボール協会の会長である。
そして、理科教諭は東日本大震災のときに色々やらかしながら、今でも教員を続けている。
この当時、この学校での話題は多すぎるので、また別記事にします。
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