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リトリーバル時に何を使うか

リトリーバルするとき何を使って思い出せばいいのかを考えたお話。
(リトリーバルは本文前半で解説しています)

66日ライティングマラソン。47日目。

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リトリーバルとは

先日👇の記事を書きました。

ずっと効果的な勉強法を探していて珍しく自分にヒットしたので、本当に共有する価値があるかと考えてみました。そして、いけるな~これ^^と思えたので、後世に残そうと思ってかいた記事です。

ただ、この講座の中で一つ、ひっかかったことがあります。それは最強の記憶学習で言われいてたリトリーバルです。

リトリーバルを辞書で引いてみると👇。

検索、つまり記憶したものを検索して記憶を取り戻す、みたいなニュアンスです。そして記憶学習においては👇の性質があるみたい。

●リトリーバル
  →リトリーバルとは、自分の頭だけ使って学んだことを思い出す
  →読んだあとに目をつぶって、何が書いてあったかを思い出す
  →読み直しが危険なのは、字を使って思い出している(自分の頭で思いだしていない)
  →リトリーバルは負荷が高いけど、高いからこそ少ない回数で効果につながる

結果が出る勉強法より

リトリーバルをどう使っていくか

学習したことを自分の頭だけを使って思い出すこと、これが記憶学習に効果があるのは納得できます。ただこれ、めっちゃ疲れます😅。

なんで疲れるのか?を考えてみると、👇の点が非常にひっかかりました。

読み直しが危険なのは、字を使って思い出している
(自分の頭で思い出していない)

結果が出る勉強法より

そりゃぁ疲れるわ、字で思い出すって想像しただけでもなかなかしんどい。

読み直しとは我々が「覚えるためにやっている行為」の一つ。

講座の中の話によると、読み直しは「2回目以降は効果があまりない」とされている。だから効果的な記憶学習をしたければ、読み直しをするときにリトリーバルを併用する必要がある、とも言及されています。

めっちゃしんどいリトリーバルを記憶学習に取り入れれば、否が応でも脳は覚えてくれるはず。

ただそれでも疑問が残りました。

我々がリトリーバルをするとき、字を使って(言語を使って)思い出している、という暗黙の事実は本当か?ということ。

どうやらこの辺りにリトリーバルの本質が隠れてそうです。

何を使ってリトリーバルするか

リトリーバルとは記憶を検索して思い出すことです。

覚える→記憶する→思い出す。この一連の流れが記憶定着に有効なのはわかりますが、記憶する部分において

我々はいったい何をどんな状態で記憶しているのか?

に目を向けない限りは、効果的なリトリーバルは望めないのでは?ということに気づきました。

例えば、覚えるとき・思い出すときに日本語を使っている我々が、果たして記憶するときも日本語を使っているのか?

私はNoだと思います。

日本語は我々が存在する外界でのコミュニケーション手段。それを使って記憶しているとなると、我々が日本語が通じない海外に行ったら日本語で覚えた記憶は思い出せなくなる(笑)。

海外に行って現地の言語を話すとき、外見は現地の言語を装いますが、考えるときは日本語。そしてその行ったり来たりに疲れる(笑)という経験は、海外に行かれたことがある人は思い当たるでしょうね。

実際、記憶される内容って何なんでしょうか。

自分の経験からしてそれは、

(記憶される内容は)言語ではない

ということです。つまり記憶学習って

記憶する段階で『記憶に都合がよい何らかの状態』に変換されている

のでは?というのが私の仮説。そうでないと以下の説明がつきません。

会ったこともない話したこともない生まれも育ちも言語も違う日本人と外国人が、両親から受けた愛情の記憶について通訳を交えて話をしたとき、その話のいくらかは「示し合わせなどしていないのに自然と同感できる」こと。

これは記憶が言語ではなく、言語から本質を抜き出した「記憶しやすい何か」に置き換えられて記憶されているからに他ならない と思うわけです。

記憶することはもっとも身近な行為

記憶するって我々が意識せずにやってる行為ですね。

普段意識しないでもできることを意識してやるとなると、脳内でいろいろとスイッチが切り替える必要がありそう。

まるで、意識せずできている呼吸を意識してしようとしたとき、意識する前にできていた呼吸スイッチから制御権を奪い、意識して呼吸したあとで、奪った制御権を意識せずできる呼吸に返す ように。

記憶もそんな感じで行われているはずなので、もっと人間の脳については知りたいなぁと思いました。

これは永遠のテーマだな、たぶん(笑)。

リトリーバルと考えること

記憶時に言語を使うか否か。これは考えるときに言語で考えるか否かともつながると思います。

よって考えるときに我々が何を使って考えるか?を調べることは価値がある。

そして興味深い記事を見つけたので全文引用しておきます(ちょっと長いので時間があるときに読んでみてください)。

記憶学習についての私の仮説は、以下引用の最後に載せた画像「思考のプリプロセッサとポストプロセッサ」の最上段の思考の部分が、記憶にも当てはまるのでは?ということです。

単身で海外に出て1〜2週間たち、日本語をほとんど使わない日々が続くと、英語で夢を見ることがある。夢の登場人物たちと英語で話し、夢の状況について英語で自問自答する。目が覚めると我に返ったような、ちょっと不思議な気分になる。だが、日中も同じようにしているから、そんな夢をみるようになるのだろう。

昭和の頃、ある有名な英語学校が「英語で考える」を教育スローガンにしていた。その広告を見るたびに、なんだか奇妙な感じがした。言いたいことはもちろん、わかる。英語で文章を作るときは、日本語の発想とは全く異なる仕方で、最初から英語的に組み立てないと、まともな英文にならない。自分の頭の中で日本語を介在させても、時間と思考力のムダになるだけだ。

だが、それを「英語で考える」と呼ぶべきなのか。わたし達は本当に、「言葉で考えて」いるのだろうか?

わたしが昨年、出版の取りまとめと編集をお手伝いした恩師の著作「 気品あるアタマと冒険ある実践」(西村肇・著)の中に、「人間と言葉 〜人は言葉で考えるか 科学者とコトバ〜」と言う文章が収められている。もともとこれは’90年代に、ある大手メディアが100万円の賞金をかけて21世紀論文賞を募集したときに、応募した論文であった。そして審査委員会でいったん受賞が決まりかけたのだが、一部の委員(特に名をあげると故・星野芳郎氏)が強く反対して、結局、受賞者なしとなってしまったという、いわくつきの文章だ。

この論文の最初の方に、著者がそれ以前にある雑誌に「人が何かモノを作り出そうと考えている時、コトバで考えるのだろうか」との疑問を書いたら、共感と批判の両方が寄せられた、というエピソードが紹介されている。技術者からは賛同が多く、文化系の人たちからは厳しい意見が多かったと言う。ことに、ある芸術大学の教授からは、「人は言葉で考える」のである、に始まる明確な反論が寄せられた、と書かれている。

ある種の文化系的な、あるいは西洋型教養を身に付けた人にとって、「人間は言葉で考える」は、自明の真理らしい。上に述べた星野芳郎氏の審査意見にも「本質をついていない」と言う言葉があったという。星野氏はどうやら、人間の思考の本質を、自分自身はご存じだと信じていたようだ。だが、人間の考えるという行為は、それほど自明なものだろうか。

ちょっと調べてみるとわかるが、「人間は言葉で考える」という見解は、『言語思考仮説』(linguistic relativity hypothesis)と呼ばれている。カッコ内に英語があること、その英語が日本語とは微妙に違うことから、このような考え方は西洋で育ってきたものだと推測できる。

言語思考仮説の提唱者は、20世紀初頭に活躍した言語学者のエドワード・サピア(Edward Sapir)と、彼の弟子筋にあたるベンジャミン・リー・ウォーフ(Benjamin Lee Whorf)と言われており、彼らの名前を合わせて「サピア=ウォーフの仮説」とも呼ばれる。

サピアは人類学者でもあり、「使用する言語によって人間の思考が枠付されている」という言語観を打ち立てる。のちにウォーフがそれを発展させ、「言語の構造が、その人の世界の認識のしかたに影響を与える」との説を立てた。いずれも言葉(Word)や言語(Language)が、人間の思考に重要な役割を果たしている、との主張だ。

彼らはまず、言葉(Word、語彙)と概念の関連に着目する。各言語にはそれぞれ特有の語彙が存在し、異なる単語や表現がある。英語におけるsnowのバリエーションは限られているのに対して、日本語の雪を表す言葉、粉雪とかぼたん雪とか細雪などは幅広い。さらにアイヌ語の雪に関する語彙は、もっと豊富らしい。

あるいは、わたしがよく引き合いに出す例だが、英語のManagement、 control、 administrationの区別に比べて、日本語は「管理」の一語で全部済ませてしまう。そこでマネジメントという行為の内容を、より詳細に分析する思考が止まってしまいがちだ。つまり言語が提供する語彙の範囲が、思考をも制限してしまう可能性がある訳だ。

そしてもちろん、英語の文法や、その元になっている、時制、単数複数の区別、仮定法・接続法、冠詞の存在なども、思考の枠組みや展開に影響を与えているはずだ。若い頃、フランスからの留学生に、「日本語は単数と複数を区別しないが、それでどうやって論理的に考えることができるのか」と問われて、うまく答えられなかった記憶もある。

単複の区別は別になくても不便に感じないが、しかし仕事で後輩が、過去形と現在形をごっちゃにして話しているのを聞くと、「もっと区別してくれないと相手に誤解を与えるのに」とイライラすることはある。日本語には時制の概念が薄く、「確定してしまった事態」であるかどうかの判別が重要になる。このように事象の認識に、言語のあり方が作用するのは、たしかに事実だろう。

だが、サピア=ウォーフの立論が、『仮説』と呼ばれている点にも注意してほしい。まだ実証はされていないのだ。なのに、西洋の論説が海を渡ってわたし達の国に来ると、いつの間にか真理や本質になってしまいがちなものらしい。

それとサピアやウォーフは、いずれも20世紀の米国の人であり、これらの主張が意外と新しいこともわかる。19世紀までの西洋社会では、西洋文化の考え方が絶対的に正しいもので、それ以外は未開だと考えられてきた。サピア=ウォーフの仮説は「言語相対性仮説」とも呼ばれるが、アメリカ先住民の言語研究などを通して、非西洋人も、非西洋人なりに「考える」のだ、という(我々から見れば当たり前の)ことを、明らかにした訳である。

しかしまあ一般に、欧米文化は言葉を重んじる文化だと言うことはできる。「始めに言葉ありき」というヨハネ福音書の冒頭の聖句を信じてきたから、という見方もあるだろうが、むしろ言葉を重視してきたからこそ、いかにもギリシャ的なヨハネの神学を受け入れやすかった、ということかもしれぬ。

いや、西洋だけではない。わたしの経験では、インド、イラン、アラビアなど「中洋」の人々も、我々東アジアや東南アジアの人間に比べて、ずっと理屈っぽい。彼らが「人間は言葉で思考する」と深く信じていても、不思議ではない。

先の西村肇氏の本の中では、環境科学者における発見的思考の現場を、対話で再現した部分もあり、そうした例をベースに「言語による思考」だけが思考ではない、と主張している。ところで、彼の文章に真っ向から反対した人が、芸術大学の先生だったというのは、今ひとつ解せない気もする。アーティストこそ、絵画であれ音楽であれ、自分の創作において、何を作りどう完成させていくかを考える際、言語では表現しきれない領域で働いているはずだからである。

似たことは、数学、とくに幾何学などの問題を考える際にも適用しうる。数式は、広い意味で記号的体系であり、言語表現の展開型だと、いえば言える。しかし幾何学の補助線を考えているとき、はたして頭の中で記号を論理的に展開しているのだろうか?

わたし自身の経験をふりかえると、いちばん大切なアイデアを思いつく瞬間は、頭の中はシーンとしていて、非言語的な静寂の世界にいる(これ自体はもちろん客観的には実証不可能だが)。そして、発見したアイデアを、はっきり定着させ、全体の文脈の中で位置づけるために、言葉や数式や図形などにしてみるのだ。

この段階は、思考の内容を伝達するための行為、と言っても良い。誰に伝達するのか? 他人の場合もあるが、まずは「自分自身に対して」ちゃんと言語化・定式化するためである。そして、これも「考える」という作業の重要なステップの一つである。ただ、これはアイデア生成というエンジンの、ポストプロセッサだと言えるだろう。

同様に、わたし達が問題を捉えて考える際、ふつうは現実界からの何らかのインプットがトリガーになる。ただ現実世界の情報というのは、時系列的にも空間的にも数珠つながりに広がっている。そこから、何らかの要素・概念を分節化して取り出す作業が必要だ。こちらはプリプロセッサと言っても良い。

そして、これらプリプロセッサとポストプロセッサは、いずれも言語(語彙と文法的構造)に大きく頼っている。図にすると、こんな感じだ。

図は引用最下部を参照。

一番下に、物理的世界がある。ここは非構造的な、未分節の情報の海だ。ここから、言語・記号などの助けを借りて、パターンを見出し、分節化していく。言葉や記号は、概念に一対一で対応している。概念と概念のネットワークが、いわばわたし達が「思考」を表現する形式だ。ここまでは言語の世界である。英語で夢を見ているときは、ここが「英語モード」的に働いているらしい。

しかし、いちばん大切なアイデアを創出する段階は、一種の無音の世界で行われるのではないか。以前紹介した、W・ヤングの「アイデアの作り方」に関する記事にも、『孵化段階』=問題を意識の外に移す、という段階がある。これに相当するのだろう。

その後は、階梯を逆に降りていく。新しいネットワークを概念空間で構成し、それを記号・言語化することで、定着化を図る。最後は、声にしたり文字に書いたりして、出力していくのである。アートの世界では、言語記号を経ずに、いきなり色彩や和声などの要素に行き着くこともあるだろう。しかしアーティストではない、わたし達大多数がビジネス界で繰り広げる思考の営為は、ほぼこのようなプロセスを辿っているのではないかと、わたしは想像する。

ということで、言語・記号はとても大切なのだが、いちばん重要なのは非言語的な、無音の世界にたどり着くことにあるはずだ。どうしたら、上手にそこに到達できるようになるのか。それについては、稿を改めてまた考えてみたい。

Tomoichi_Satoさんのブログより
思考のプリプロセッサとポストプロセッサ

※プリプロセッサ・・・何かを処理する前に行われる処理
※ポストプロセッサ・・何かを処理した後に行われる処理

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