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ルーティンを崩すときの注意

人間が到底かなわないものから得た知見を得るお話。

気になった記事のご紹介。得るもの多いと思うのでゆっくりご覧ください。



まえがき(所感)


九死に一生を得る。

誰しもとは言いませんが、そういう経験をしたことがある人はその周辺で起きたことを材料にいろんなことに気付けるチャンスを持っています。

九死から一生を得た相手が人間が到底かなわないもの、例えば自然の力や物理的な力などの場合、得られる知見は本当にさまざまなものになります。

そして、そういう知見こそ

「自分がその人の体験をもとに疑似体験する絶好のチャンス」

でもあります。

だからそのような情報には敏感にアンテナを張り、人の体験を疑似的に頂くことで自らの体験を課す訓練をすることは、生き抜く上で最も必要なことです。なぜならすべての体験を自分が得ることは不可能だから。

今回は、普段慣れ親しんだルーティンを改良してしまったために九死に一生を得ることになったある登山家のお話。記事が素晴らしいので引用の上、そのまま全文残します。


記事の紹介


世界中の登山家が避ける“冬のアラスカ”で突然意識を失った日本人登山家(41)の運命は…6歳の娘は「お父さん、死んだ」とつぶやいた

「まるで戦場だな……」

 登山家・栗秋正寿は、雪洞から外をのぞいたとき、そんなことを思った。

 雪洞とは雪面を掘って作ったシェルターのことで、文字通り雪でできた洞窟のような形状をしている。雪洞内は気温こそ氷点下ではあるものの、無風・無音で平和そのもの。ところが数メートルの雪の壁を隔てた外界では、気温は零下40℃ほどにもなり、加えて猛烈な風が荒れ狂っている。風速は50mを超えているのだろうか。

 ときおり爆発したような音が聞こえる。雪崩の発生音かと思いきや、そうではなかった。巨大な氷の塊が飛んできてどこかにぶち当たっているようだ。もしくは、あらゆる方向から吹き付ける風が互いに激しく衝突し、空気が一瞬にして破裂しているようなのだ。


「なにかひとつアクシデントがあるだけでもう終わり」という場所

 まさに銃弾が飛び交う戦場の最前線。外に出たらとても生きてはいけない。その最前線に塹壕を掘ってじっと身を潜めている気分である。戦場と違うのは、自分以外、周囲に誰もいないことだ。半径80km圏内が無人地帯なのだから。

 なにかひとつアクシデントがあるだけでもう終わり。ここはそういう場所なのである。

 2014年3月11日、41歳だった栗秋はアラスカのハンター(4442m)という山の標高3100m地点にいた。アラスカは最高峰のデナリでも標高6190m。ヒマラヤより2000m以上低いが、緯度がずっと高く北極圏に近いため、気象条件はヒマラヤより悪いといわれる。

 特に冬の気象は最悪で、栗秋が遭遇した極低温・暴風はこの時期では珍しいことではない。ひどいときには零下50℃、風速70m超にもなるという。登山の難易度は夏の比ではなく、かつて冒険家の植村直己がデナリで遭難したのも2月だった。

 栗秋は、世界の登山家の誰もが避けるこの「冬期アラスカ」の専門家だ。2014年のこのときまでにすでに14回の冬期単独登山を重ねており、デナリとフォーレイカー(5304m)の冬期単独登頂も果たしていた。フォーレイカーの冬期単独登頂は世界初だった。

 ハンターは、それまでに栗秋が登ったデナリやフォーレイカーと比べて標高はいちばん低いものの、登山の難易度は逆にいちばん高い。その証に、栗秋はデナリやフォーレイカーは数回の挑戦で登頂を成功させている一方、ハンターは7回も登頂に失敗しており、2014年のこのときで8度目の挑戦だった。

 この極悪な環境での登山を成功させるために栗秋が採った作戦が“巣ごもり”である。冬のアラスカの大自然に無理して挑戦したところで人間が太刀打ちできるものではない。栗秋は天気が悪いときには雪洞にこもって時を待つ。天気が回復したスキに歩みを進め、悪天候の周期がまわってきたら再び雪洞を掘ってこもる。この繰り返しで山頂に迫るのだ。

 当然、それには時間がかかる。栗秋の登山は短くても2カ月、長いときは3カ月近くにおよぶ。年明けに入山したまま音沙汰がなく、春先にひょっこり下山してくるというのが栗秋のいつものやり方だ。

 クマの冬眠を思わせるその登山スタイルは、地元アラスカでも類を見ず、驚異と畏敬の念を持って受け入れられている。極寒環境での耐久力から「ジャパニーズ・カリブー(トナカイ)」との異名もとっている。


アラスカの雪洞を「世界でいちばん平和に眠れる場所」という栗秋

 8度目の挑戦となる2014年のこのときも、1月27日に入山して以来すでに44日が経過したが、行動できたのは22日間のみ。残りの22日間は雪洞から出られない日々が続いている。

 だが栗秋はそんな状況を楽しんでもいた。もともとすんなり登れる山とは思っていない。この厳しい環境下でも、待てば登山が可能になるタイミングは巡ってくる。今までもそうやってきた。たったひとりで待つことは自分にとっては苦ではない。

 いや、むしろ楽しい。たとえ外が零下40℃でも、雪洞の中は雪という断熱材に覆われているようなもの。住み慣れた空間は快適で、静かで誰にも邪魔されないため、日本にいるときよりぐっすり眠れている。

 ときには12時間寝てしまうこともある。いまやアラスカの雪洞は「世界でいちばん平和に眠れる場所」だ。外は戦場だというのに、この対比は極端なものだなと自分でも思う。

「父になり 早く下りたい 吾を知る」

 ヒマなときには雪洞内で川柳を詠んだりもする。ノートとペンだけで時間をつぶせる川柳は、孤独な環境下での貴重な娯楽だ。あれこれ思いを巡らし、言葉を選ぶ作業は、刺激の少ない雪洞内で自分を見つめ直す機会にもなるようだ。6年前に娘が生まれて以来、こんな言葉が出てくるようにもなった。

 遠く離れた放送局から入ってくる英語のラジオ番組も大きな楽しみのひとつ。カントリーミュージックやジャズを好んで聴いているのだが、日本にいるときより本場アメリカの音楽トレンドに詳しくなった。誰もいない山中にこもっているというのにおかしなものである。

 そんな日々が続き、日程の半分しか行動できていない。しかしそれは想定内のこと。山頂に達することができるかどうかは運次第だが、まあなるようになるのだろう。


「お父さん、死んだ」「え?なに?」「お父さん、死んだ」

 ところが今回、栗秋は軽い異変を感じていた。登山序盤からどうも体調がすぐれない。下痢が続いており、こんなことは今までになかった。雪洞でじっとしていると耳鳴りがし、食欲もいまひとつだ。頭がボーッとする感覚もある。

 だが熱はない。風邪をひいたわけではなさそうだ。体調が悪く感じるのは雪洞にこもっているときだけで、天気が回復して行動している間は不調は消える。バテやすいようなことも特になく、体力はいつもどおり十分に感じる。

 何か変な気もするが、考えてみれば自分ももう41歳。長年登山を続けていればこういうこともあるのだろう。さして気にとめることはなく、栗秋は雪洞内で夕食のパスタを食べ始めた。明日も天気回復の見込みはない。ここでの巣ごもりはまだしばらく続きそうだ。そんなことを考えていた次の瞬間、栗秋は突然、“落ちた”――。

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 そのとき、福岡に住む栗秋の娘・蒼子(当時6歳)は「お父さん、死んだ」とつぶやいた。

「え? なに?」

 栗秋の妻・聖子は娘の唐突なひと言に訳もわからず聞き返した。

「お父さん、死んだ」

 蒼子はそう言うばかりである。アラスカにいる夫のことを思うと何か不吉なものを感じはしたが、意味がわからない。

 年端もいかない子どもの言うことである。いちいち気にしていては登山家の妻などやっていけない。聖子はそれ以上娘に聞くことはせず、忘れるようにした。


半径80kmが無人の“冬のアラスカ”で突然の失神…現地民から「日本のトナカイ」と畏敬される登山家を襲った“唯一の想定外”「あの時は1つだけいつもと違うことを…」

 福岡から6000km離れたハンターの山中で、栗秋は目を覚ました。

 温かかったパスタは凍っており、沸かしていたはずのお湯はなぜか鍋に一滴も残っていなかった。その鍋をかけていたコンロの火は消えている。左手がコンロにふれて火傷をしたのか、指先に小さな水疱ができていた。

 頭がボーッとしており、状況がつかめない。自分は寝落ちしてしまったのだろうか。いや、今日は雪洞にこもっていただけで、疲れてはいない。特に眠気を感じていたわけでもない。ある時間だけが自分からすっぽり抜け落ちてしまったようで、こんなことは初めて経験する感覚である。失った時間は1時間半ほどのようだった。

 酸欠か――。

 次第にはっきりしてくる頭で栗秋はそう考えた。閉鎖空間である雪洞は酸欠になりやすい。コンロなどで火をたくとなおのことである。だから換気にはいつもかなり気を使っている。入口は閉め切らずに隙間を空けておき、天井には煙突のような穴を空けて空気が循環するようにもしている。


雪洞での生活に長けている自分が何度も酸欠に陥るのは腑に落ちない

 あらためて雪洞の通気口をチェックした。いつもどおりだったが、もっと広く開けたほうがいいのかもしれない。だが何かがおかしい気もする。考えてみれば、登山序盤にも酸欠になりかかったことがあった。

 そしてつい前日にも同じようなことを経験している。そのときは気を失いはしなかったものの、酔ったような状態になった。雪洞での生活には長けているはずの自分が何度も酸欠に陥るのは腑に落ちなかった。

 やや不安を抱えたまま眠りにつく。酸欠による体調不良がもっとも進みやすいのは睡眠中だ。大丈夫なのだろうか。

 少し息苦しく感じたが睡眠は十分にとれ、翌朝を迎えた。天気は相変わらず吹雪。通気口が埋まってまた酸欠になってはまずいと思い、外に出て除雪をする。立ち上がると、左脚に妙なコリを感じる。いまひとつ力が入らないような感覚があり、よろめいたりもした。やはり何かがおかしい。

 その後は3月18日まで天気が回復することはなく、雪洞内に閉じ込められた。幸い、酸欠が再び起こることはなく、体調不良が再発することもなかった。

 登山開始から52日目となる3月19日には天気がいくらかよくなってきたので、雪洞を出て行動を起こす。そして標高3660m地点まで進んだが、その後の行程と天候を考えると登頂は諦めざるを得ないと判断。24日に下山を始め、4月2日、麓のベースキャンプに下り着いた。


この登山でひとつだけ、栗秋はいつもと違うことをしていた

 それにしても不可解な失神と不調はなんだったんだろうか。

 下山して帰国した後、この経験したことのない不調が何に起因していたのか、いろいろ調べるにつれて栗秋は徐々に理解していった。

 この登山でひとつだけ、栗秋はいつもと違うことをしていた。それは「高効率クッカー」の使用である。高効率クッカーとは、底面にヒダを設けることで熱の拡散を抑え、コンロの熱をロスなく伝える構造をした登山用鍋のこと。一般的な鍋よりも少ない燃料で早く湯を沸かすことができるため、登山の現場で人気を集めるようになっていた。

 長期間山に入る栗秋にとって、携行する荷物は1グラムでも少なくしたい。燃料消費の少ないこの鍋ならば、これまでより少ない燃料で登山を完遂できるのではないか。そう考えて新たに導入したのだった。

 ところが落とし穴があった。

 高効率クッカーは、正しい使い方をしないと一酸化炭素が発生するというのだ。火元を覆うことで熱効率をよくしている構造上、適切に空気が送られないと不完全燃焼を起こしやすい。そのため、メーカーはコンロと鍋をセットで設計して不完全燃焼が起こらない工夫をしているのだが、高効率クッカーの使用を想定していないコンロと組み合わせて使うと、一酸化炭素中毒のおそれが高まってしまう。

 栗秋はまさにこの組み合わせで使っていた。別の登山家がまったく同じコンロと鍋の組み合わせで、一酸化炭素中毒を起こしていたことも登山後に知った。

 高効率クッカーは登山だけで使われているわけではない。構造こそさまざまであるものの、同じ狙いをもって作られた家庭用の鍋やフライパンもあり、2015年には行政法人の製品評価技術基盤機構(NITE)が警告を発している。それによると、一般的な鍋と比べて数十倍の一酸化炭素が発生し、死亡事故も起こっているという。

 今でこそ理解が進んでいる部分もあるが、2014年の時点ではこのことはあまり知られていなかった。栗秋は反省した。自分の体に何が起こったのか、正確に証明することはできないが、さまざまな症状と状況からして、一酸化炭素中毒だった可能性が高いのだろう。

 娘の蒼子が「お父さん、死んだ」と言ったということにも不思議な運命を感じた。2年前の2012年にも、同じハンターに登っていたとき、蒼子が「やまのぼり終わったよ」と突然言い出したことがあったという。栗秋は帰国後に話を聞き、日誌を見返したところ、まさにその日が下山を決意した日だったのだ。


アラスカの万年雪に埋もれて永遠に発見されず、すべてが謎に

「目を覚ますことができて本当によかった」と栗秋は振り返る。なぜ意識を取り戻すことができたのかはわからない。燃料切れでコンロの火が消えたのが幸いしたのか、あるいはすきま風が吹き込んでいたのか。いずれにしろたまたまの幸運でしかないと思う。

 もし、あのとき目を覚ますことがなかったら。

 雪面にテントを張っていたのであれば、捜索の飛行機に発見される可能性もあるが、栗秋がいたのは雪の下に掘った空間。上空からは発見できない。通りかかった登山者に発見される可能性も限りなくゼロに近い。なにしろ誰もが避ける冬のアラスカ。次に登山者がハンターに来る可能性があるのは早くても数カ月後だ。

 そのときまでには新しく降った雪に覆われて、栗秋がいた痕跡はきれいになくなっているだろう。栗秋の体はアラスカの万年雪に埋もれて永遠に発見されることはなく、何が起こったのかも謎のままだったはずである。

 そしてこれは冬のアラスカという特殊空間特有の現象ではなく、高効率クッカーだけで起こることでもない。日本国内でも、登山やキャンプでの一酸化炭素中毒死は数年に一度は起こっている。

 冬のアラスカに20年通い続けて生還し続けてきた栗秋でも、わずか1回のミスで命を落としかけた。自分の体験が少しでも教訓になってくれれば。栗秋はそう願っている。

森山 憲一
もりやま けんいち
フリーライター&編集者


1967年神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学教育学部(地理歴史専修)卒。大学時代に探検部に在籍し、在学中4回計10カ月アフリカに通う。大学卒業後、山と溪谷社に入社。2年間スキー・スノーボードビデオの制作に携わった後、1996年から雑誌編集部へ。2008年に枻出版社に移り、雑誌『PEAKS』の創刊に携わる。登山とクライミングをメインテーマに2013年からフリーランスとして活動中。

記事の筆者


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