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『いとみち』(横浜聡子、2021年)

舞台は現代の青森。高校生の相馬いと(駒井蓮)は内気だが三味線の腕は抜群。祖母ハツヱ(西川洋子)や父耕一(豊川悦司)は彼女を可愛がっているが、当のいとは自分の内気さを持て余している。しかし、ひょんなことから応募してしまったメイドカフェのアルバイトが彼女を社会と関わらせ、少しずつ成長させてゆく。短く書けば映画のあらすじはこれだけだが、その内容は広い。

冒頭、社会の授業で音読を当てられたいとがテキストを読みはじめると、ほかのクラスメイトの比にならないほどのズーズー弁が響く。あまりの訛りにおもわずこちらの頬も緩む。
いとは方言の上でも性格の上でも話せない人物として姿を現す。彼女は、のちに親友となる同級生の早苗にも、大学教授である父の教え子たちにも人見知りして話せない(唯一話しかけられるのは犬!)。
代わりに彼女は見ることを選ぶ。背中越しに早苗を見て、下校中は遠くに臨む山を見て、初めて訪れたメイドカフェの店内をじっと見る。いとは、見ることによって周囲を観察し、適度な距離間の下で相手と関わろうとするのだ。
それを知ってか知らずか、メイドの先輩幸子(黒川芽以)は接客方法を「見て覚えな」と告げる。プロとしての矜持から出たこの言葉を胸に、いとは「いらっしゃいませ、ごすずんさまぁ」と練習に練習を重ね、上達してゆく。そもそも三味線の弾き方も祖母から「見て覚えるべし」と教わっていたのだから、いとは見ることに長けている。

見つづけた結果、いとは社会を知ってゆく。早苗の家庭は貧しく、幸子はシングルマザーであり、別のメイドは田舎に飽きて東京にあこがれを抱き、父は自分を誤解していて、カフェのオーナーは……といった具合に、純朴ないとの周りは波乱に満ちている。そして、社会のとば口に立ったいとは、話せずに見る人間から見られ話す人間に変わる。クライマックスの演奏と結部の登山が、いとの変化を雄弁に伝えてくれるだろう。

ある事情から経営難に陥ったカフェで、いとは再起を図るべく三味線の演奏会を企画する。地道なビラ配りや常連客の勧誘もあって、客席は満員。なかにはハツヱや耕一、早苗の姿もある。
ステージに立ついとの目の前に広がるのは、これまで自分が関わってきたすべての人たちである。これまで見ることしかできなかったいとが、今、見られている
かつて耕一は娘にいった。「お前は口下手なんだから、音で対話しろ」。
数分間にわたり、いとは大きな音で話す。
無事に演奏会を終えたいとは、父と登山に行き、山頂から青森の街に向かってやはり話すだろう。おーいとも何とも聞きとれない不明瞭な声、しかしどこまでも響く声で。

映画のラスト・ショットは、マジックアワーのなか山を見上げる少女を背中から捉えたものである。直前にいとが山で大声を張るショットが配されているため、これは切り返しに見える。ただ、通常の切り返しは、時と場所を同じくした人物の会話などで用いられる技法だが、ここでは時間も場所も離れたふたりが繋げられる。いとのファースト・ショットがそうであったように、観客に顔を見せてくれないこの少女は、かつてのいとに似た今ひとり別の少女だろうか。彼女は遥かな呼び声をすでに見ている

撮影は柳島克己。キャメラは青森の空も駒井の顔つきも、果てしなく澄ます。


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