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【連載】 現代ラカン派における「脚立」とは何か? #1

はじめに

精神分析理論の大きな更新が始まろうとしている。

ジャック・ラカンの娘婿であり、フロイトの大義派の指導者であるジャック=アラン・ミレールは2014年の世界精神分析大会の講義にて、「精神分析は変化しています。それは(変化してほしいという)欲望ではなく、(変化しているという)事実です *1」として、精神分析理論を「現在時へと合わせること」を提言している。

というのも、精神分析理論は19世紀後半から20世紀初頭に、性の抑圧の規範であるヴィクトリア女王の下で、オーストリアの精神科医ジークムント・フロイトが発明したものであるが、21世紀の現代では、もはや性はポルノ・見世物となり、インターネット上における露出された性行為のショーに成り果ててしまっているとミレールは分析しているからである *2 。

すなわち、「抑圧」の時代に生み出された精神分析理論が、「露出」の現代にそぐわなくなってきてしまっているというのだ。このような性の「抑圧」から「露出」への転換の原因になったものといえば、言うまでもなくインターネット、もといスマートフォンの登場である。

「技術の時代においては、性行為は私的なもののうちに閉じこめられた状態でそれぞれに特有の幻想を育むのではもはやなく、いまや性行為は表象の領域に再び組み込まれており、集団規模へと移行してしまっている *3」とミレールが語るように、技術の時代(スマートフォンの時代)においては、人々は常にデータベース的な表象の空間に接続し、自己の内面を何の制約もなしに露出している

かつてのフロイトの精神分析理論では、「抑圧」された表象によって「無意識」なるものが形成され、それをもとに人間は主体化を行っているとされたが、フロイト的「無意識」は現代ではもはや衰退してきてしまっていると言うことができるだろう *4。

すなわち、我々はうわべだけの表面的な存在になり果てようとしており、かつての人間が持っていたある種の「深み」のようなものを手放してしまおうとしているのである。

フロイト大義派の精神分析家であるマリー=エレーヌ・ブルース(2009)の表現を借りれば、このような現代的状況というのは、フロイト的な無意識に代わって「統計学的超自我 surmoi statistique」という新たな構造が出現し、世界中の人々を支配しているということになるだろう*5。

超自我とはフロイトの精神分析理論の用語であり、各々の自我の内部にあって自我を監視し、「こうあるべき」という理想や「〜してはならない」という命令を下す審級を意味する。この審級は、社会的な規範が存在する社会の中で生活することで、いわば「常識」として人々の内部に形成されるものである。しかしながら、現代にそのような社会規範は果たして存在するだろうか。共通の社会規範なしに各人はそれぞれの趣味を生き、自分勝手に享楽しているのではないか。1980年代に、フランスの哲学者ジャン=フランソワ・リオタール(1984)は、モダンという時代の終焉によって人々に共通する大きな規範を喪失してしまった時代をポスト・モダンと呼んだが *6、リオタールの考察した時代から40年が過ぎようとしている現代では状況はさらに悪化している。

先のブルースの言葉に「統計学的」とある通り、現代に特徴的なのは、これまでの社会規範に代わって、SNSにおける「いいね」の数、YouTubeにおける視聴回数、論文の被引用数というような、数字と統計学的思考によって人々を無慈悲に支配する新たな規範=「統計学的超自我」に毎分毎秒、評価され、脅かされながら社会の秩序が維持されているという点である。「YouTube で動画を100万回再生されたい」という理想や、「数字が取れないからこの企画はダメ」という命令のように、心の中の「良心の声」=超自我ではなく、もはや数字=統計学的超自我が人を裁く時代なのである。すなわち、「現代とは、いわば存在しない〈父〉*7への信頼を前提とした包摂のシステムをご破算にし、全員を日常的な排除のシステムのなかに位置付ける時代にほかならない *8」。我々はこの統計学的超自我の支配からいかにして脱出することができるだろうか。

このような現代的状況下において、精神分析理論を「露出」の時代に合わせるために、あるいは統計学的超自我に対処するためにミレールが提示するのは、「〈想像界〉への回帰」とでも呼びうる理論的転回 *9である。この転回はラカン派精神分析理論に詳しい読者ならば、奇妙に感じるかもしれない。というのもラカン派精神分析理論では、その理論的重点を〈想像界〉*10 →〈象徴界〉*11 →〈現実界〉 *12へと移行させていったからである*13 。

1970年代の晩年のラカン理論では〈現実界〉が重要視され、そしてラカン理論を現代版にアップデートしようとする「現代ラカン派」では、その〈現実界〉へといかにして向かうかが議論されていた。それにもかかわらず、ミレールはまたしても最初期の〈想像界〉の理論へと還るというのである*14。

なぜ〈想像界〉の理論へと還る必要があるのか。ミレール(2016)によれば、その帰還というのは、人間の「身体」という領域を保護(Habeas Corps *15)し、捉え直すことによって、精神分析理論における「症状」、そして「無意識」についての議論を更新するために為される。すなわち、本稿冒頭の「精神分析理論の大きな更新」とは、「①症状理論、そして②無意識理論についての大きな更新」ということになる。

まずは①症状理論について確認しよう。
その際のキーワードとなるのが「サントーム sinthome」という概念である。

「言語のように構造化された無意識の形成物としての症状とは、あるシニフィアンを別 のシニフィアンに置き換えることによって帰結する隠喩であり、意味の効果=結果です。 それに対して、話存在 *16 のサントームとは、身体の出来事であり、享楽 *17 の出現です。*18」と ミレールが語るように、60年代までのラカン理論では、無意識の形成物(夢、機知、言い間違い 等)の中に人々の症状が現れるとされ、それらの意味を分析家が分析することで症状に対処していた*19。

だが、精神分析の臨床において顕著に見られたのは、その症状の意味を分析家が解釈しても、解釈しても、症状がそのまま残り続けるという事態であった。この事態から60年代以降のラカンは、最後まで残り続ける症状に分析主体*20の持つ「享楽の根 racine des symptômes」があると考え、これまで分析の終着点として考えられてきた「ファンタスムの横断la traversée du fantasme*21」を格下げし、むしろ「症状と同一化 s'identifier à son symptôme」することを分析の目標に据え始める*22。すなわち、分析家が分析主体の症状の「意味」を解読することは、もはや重要ではなくなっているのである。

そして、そのようなラカンの転回を引き継ぐ形でミレールは、隠喩として分析主体に現れる症状と、その隠喩から分析主体が抱くファンタスム(幻想)を一体化させてしまい、「症状とファンタスムの混合物 mixte de symptôme et fantasme*23」として、70年代にラカンが使用し始めた「サントーム」という概念を捉えるのである。

サントームは、症状の意味の側面ではない、解釈ができない症状の無意味の側面、ミレールの表現を借りれば「身体の出来事événement de corps」である。これは個人という〈一者〉だけの無意味な特異性、さらに簡単に言えば、個性としての症状を指す。ミレールに則って考えれば、人がまさにその人であることをサントームとして捉える

つまりサントームは、徹頭徹尾身体的で、偶然に到来し、もはや言語化することすらできない、その人「らしさ」を指し、このサントームから各個人は自分だけの〈一者〉の享楽なるものを得ているとされる*24。そして、サントームとしての症状は、決して治療すべき対象ではなく、「そのまま」にしておくものであり、分析の最終目標には各個人のサントームと「うまくやっていくこと savoir y faire*25」が配置された。

1950年代の初期ラカン理論においては、人間の身体は鏡の中に映る想像的なイメージとして受容されるということが議論され(鏡像段階)、その鏡像段 階理論に見られるように、初期ラカン理論から身体と想像的なものの親近性は語られては いたが、身体の無意味な享楽に即した議論は為されてはいなかった。そこでミレールは再 び〈想像界〉の理論へと帰ることで人間の「身体」を再考し、身体的で無意味な享楽の面を重視することにより、症状理論は「症状+ファンタスム」の二元論から、「サントーム」の一元論へと移行することとなる*26。

さて、精神分析理論を「露出」の時代に合わせるためにはまだ課題が残っている。それは、フロイト的「無意識」の衰退にどう対処するかである。ここからは、「精神分析理論の大きな更新」の二つ目である②無意識理論について確認する。
今度のキーワードとなるのは「話存在 parlêtre」という概念である。

ラカンは1973年の「テレヴィジオン」の中で、「(無意識とは)なんとおかしな語なのでしょう! *27」と語っている *28。というのも、フロイトの無意識は症状の意味を解読することと関わるものであり、先の身体的・無意味なサントームに対応できないとラカンは考えていたからである。ここに見られるように70年代のラカンは、無意識をもはや不要なものとして考えていた。そして、その2年後の1975年の「症状ジョイス」では、そのフロイト的な無意識に代わって、「話存在」という概念を採用するのであった *29。

そしてその後、月日は流れ、ラカンによるフロイト的無意識から話存在への移行を偶然にも後追いするかのように(!)1995年にインターネット、そして 2007年にはiPhoneが登場し、徐々に人々の無意識が衰退していった事態を受けて、ミレールは「私は21世紀における精神分析のうちで変化しているものの指標として(話す存在を)取り上げたい *30」 とし、21世紀において到来する新たな精神分析理論を、話存在を大々的に取り上げることによって展開していくことを2014年の講義「無意識と語る身体」では宣言している。そしてその際には、「サントーム」、「話存在」に加えて、ミレールは「脚立 escabeau」という、自分を美しく見せるという意味を持たせてラカンが用いた概念を再考しなければならないと言うのである。では、その「脚立」とは何を意味するのか。

以上のことを踏まえ、本稿の(連載の)目的を述べておきたい。本稿の目的は、「脚立 escabeauと は何か?」という問いを明らかにすることである。脚立概念についてはエルヴェ・カスタネ(2011)やコレット・ソレール(2009)などが、日本国内では上尾真道(2018)や河野一紀(2018)が考察を行なってはいるものの、上尾(2018)が述べるように、この脚立なる概念が「現代の実践*31としてどのように可能であり、またどのような意義を持ち得るのか」については十分な検討がされているとは言い難い*32。

ラカン=ミレールの脚立は、ラカン派精神分析理論をその実践へと拓いていくための出発点であり、この点を検討していくことが特異的な〈一者〉の享楽を普遍へとつなげていこうとする上で欠かせない必須の課題であることは言うまでもない。そこで本稿は、ラカン=ミレールの言説に検討を加えることで脚立の真髄を描き出し、さらには脚立に基づく現代的な実践の可能性を提示することにしたい。

本noteの構成としては、#2でラカン=ミレールのテクストを検討することで、脚立理論がどのように展開し、脚立とはどのようなものを指すのかを、ラカンと同じく構造主義の思想家に分類されるフランスの社会人類学者レヴィ=ストロースの「████」の読解も交えながら概観する。

#3では、脚立の古いパラダイム*33であるとされるフロイトの昇華理論を、先行研究を参照しながら紐解いた上で、昇華の結果として現れる現象と脚立の結果として現れる現象の性質が、それぞれ異なることを明らかにしていく。

#4では、脚立の結果として現れる美を新しく「████」と呼称し、その美をフロイトの〈不気味なもの〉と比較した上で議論していく。

#5は、脚立に基づく現代的な実践の可能性を提示するセクションであり、本稿ではその実践を「████」と規定し、そのような脚立理論を用いた実践へと、本稿の読者がいかにして向かうことができるかを示す。

本noteを締めくくる#6では、レヴィ=ストロースの提唱した「████」に基づく「████」と、本稿が提唱する脚立の実践との比較を交えながらこれまでの議論を総括し、その上で改めて概念としての意義を明らかにしたい。



・・・つづく。




(*1)Miller,J.A.(2014). 《L'inconscient et le corps parlant》. 山﨑雅広・松山航平訳「無意識と語る身体」、『表象』、第11号、2017年、82頁。

(*2)ibid., 83頁。

(*3)ibid., 84頁。

(*4)日本のラカン派精神分析家である立木康介(2013)は、現代の犯罪者に関する考察を通して「現代に生きる主体は無意識を手放してしまったかのように見える」と分析し、我々の心から「闇」(本論の言葉で言い換えれば、かつての人間が持っていたある種の「深み」)が失われつつあると論じている。詳細については、立木康介(2013)『露出せよ、と現代文明は言う:「心の闇」の喪失と精神分析』を参照されたい。

また、この「無意識の衰退」に関して、日本の哲学者である千葉雅也(2017)は、近年、「人工知能」や「アルゴリズム」というものが世界的に注目されている状況を受け、かつての人間の持っていた複雑な行動原理が単純化され、複雑な背景を持たないで振る舞うものとしての人間像が前傾化してきていると分析し、「無意識という審級が弱体化した」と述べている(千葉雅也・松本卓也・小泉義之・棚瀬宏平(2017)「共同討議 精神分析的人間の後で——脚立的超越性とイディオたちの革命」、『表象』第11号所収、東京:表象文化論学会、14頁)。また、日本のラカン派精神分析家である松本卓也(2017)は、近年のミレールの議論を「無意識をいったんご破算にしてしまった後で、本人の身体の水準、享楽の水準で何が起こるのか、そしてそこにおいて精神分析に何ができるのかということを考えようとしている」と評している(ibid., 25頁)。

(*5)Brousse, M.H.(2009). 《La psychose ordinaire à la lumière de la théorielacanienne du discourse》. 松本卓也訳「ラカンのディスクール理論からみた普通精神病」、『nyx ニュクス』第1号所収、東京:堀之内出版、2015年、196、197頁。

(*6)リオタール(1984)は、ポスト・モダンと比較して、近代(モダン)においては「人間性と社会とは、理性と学問によって、真理と正義へ向かって進歩していく」、「自由がますます広がり、人々は解放されていく」といった「大きな物語grand narrative」が信じられていたが、情報が世界規模で流通し人々の価値観も多様化した現在、そのような一方向への歴史の進歩を信ずる者はいなくなり、大きな物語は消失したと考察している(ジャン=フランソワ・リオタール(1984)『ポスト・モダンの条件― 知・社会・言語ゲーム』 (小林康夫訳)、 東京:水声社、13頁以降)。リオタールの『ポスト・モダンの条件』から、既に 40年が過ぎようとしており、その間にリオタールの思想に対しては様々な批判や議論がなされてきたが、リオタールの思想は今日でも生き続けていると考えられる。例えば、日本の哲学者である仲正昌樹(2017)は、リオタール以降の現代社会の特徴について、「『我々』の生きている社会は、互いに相手のことをよく分からない不特定多数の人間の匿名的な『コミュニケーション』のネットワークから成る『見通しの利かなくなった社会』である」(仲正昌樹(2017)『増補新版 ポスト・モダンの左旋回』、東京:作品社、167頁)と述べている。リオタールの考察した80年代にはなかったSNSが登場した現在では、仲正の述べるような状況はますます顕著になってきている。つまりは、現在の我々の生きている時代というのは、多数の性質のことなる様々な社会が複数個存在しているものの、その個々の社会のあいだの共通の価値観が存在しないがために、社会の見通しがきかず、近代の大きな物語が存在していた時代と比べ、より他者とのコミュニケーションが取れず、連帯することができない時代だと言える。

(*7)松本卓也(2018)は、統計学的超自我による支配の例として、現代の労働環境を挙げている。かつて存在した終身雇用制度は、〈父〉=資本家への信頼に支えられた家父⻑制的なファンタジーとして機能していた。ところが終身雇用制度が崩壊した今日では、企業は労働者を包摂せず、新卒労働者は統計学的なノルマをクリアしなければすぐさま解雇されてしまう。つまり、この統計学的超自我のもとでは、「〈父〉=資本家への信頼とそれが生み出す包摂はもはや機能する必要がなく、数値目標と「コンプライアンス」の名の下に設定された禁止事項の羅列が排除の脅しのもとに労働者を取り囲みさえすれば、秩序は維持されていく」のである(松本卓也『享楽社会論:現代ラカン派の展開』、京都:人文書院、19頁)。

(*8)ibid.,19頁。

(*9)ミレールが2016年の講義にて、「想像界への回帰」と呼べるような理論を発表している(Miller, J.A.(2016). 《Habeas Corpus》. Cause Du Désir, 94.)ことを受けて、松本卓也(2018)も同様に、近年のミレールの動向を「想像界への回帰」と分析している(松本卓也(2018)『享楽社会論:現代ラカン派の展開』、京都:人文書院、63頁)。

(*10)1950年代にラカンの鏡像段階理論が発表される以前は、「私」という身体のイメージ というのは、フッサールの現象学やサルトルの実存主義に見られるように、「私」の内部から生まれるもの(先天的に「私」という意識が人間には備わっている)であるとされた。ラカンは、このような考えを精神分析の観点から構造主義的に捉え直し、身体のイメージは後天的に「私」の外部(生まれて間もない幼児の場合は鏡という外部に映った自分を見ることで「私」というイメージを持つ)から獲得されると考えた。このように、外部から与えられるイメージによって我々が独自に構成する世界をラカンは〈想像界〉と呼んだ。

(*11)幼児は成⻑するに従って、言語という秩序が社会に存在するということを認識するようになる。〈想像界〉は、自分の思い通りにイメージし、好きなように構成することができた。しかしながら、社会という世界はそうはいかず、言語という秩序を受け入れて初めて参入することができる。それはすなわち、自分の思い通りになる世界=〈想像界〉を諦めて、言語という公共的な秩序に従わなければ社会という空間を生きることはできないということを意味する。自分のイメージによって思い通りに形成されていたこれまでの〈想像界〉は、実のところは言語という秩序によって支配されていたのである。このようにして、言語による秩序が支配する世界をラカンは〈象徴界〉と呼ぶ。

(*12)〈想像界〉、〈象徴界〉の他に、もう一つ世界があるとラカンは述べている。それが〈現実界〉である。これは、我々が今現在住んでいる現実という意味ではなく、イメージや言語によるフィルターを取り払った(いわば構造から脱出した)、無秩序で混沌とした真実の領域のことを指す。普通に生活している限り人間は〈現実界〉に至ることはできないが、幻覚や芸術の中に〈現実界〉が現れることがあるとされる。

(*13)向井雅明(2016)は、「想像界、象徴界、現実界という三つの概念はラカンの理論全体を貫く骨組みをなしているが、彼の理論的発展とともにそれぞれにおかれる比重もまた変化してきた」(向井雅明(2016)『ラカン入門』、東京:筑摩書房、31頁)として、その比重の移り変わりを「(1)鏡像段階、攻撃性などに見られる想像界を中心にしたもの。(2)言語理論の導入による無意識の構造の解明。ここでは象徴界に重心が置かれている。(3)現実界に対するアプローチ。これは象徴界によって想像的事象を整理することにより、初めて可能になった。」(ibid.,32頁)と三段階に分類している。

(*14)Miller, J.A.(2016). 《Habeas Corpus》. Cause Du Désir, 94.

(*15)2016 年のミレールの講義タイトルにもなっている「Habeas Corps」とは、不当に人 身の自由が奪われている者の身柄を裁判所に提出することを求める令状=人身保護令状 のことを指す。この講義で彼は身体性を重視し、「身体の出来事」に基づく無意味な享楽の再検討が行われた(Miller, J.A.(2016). 《Habeas Corpus》. Cause Du Désir, 94.)。

(*16)この語については、後で詳細に議論する。

(*17)ラカン=ミレールの言う「享楽」は普通の意味で言うところの享楽とは趣が異なり、ありのままの生をそのまま生きることを指す(神宮一成(2019)「聖人=症候は享楽する——資本主義の語らいに拠るのとは別の仕方で」、『ラカンからの現代世界言説(Library iichiko 141)』所収、東京:文化科学高等研究院出版局、40頁)。

(*18)Miller,J.A.(2014).《L'inconscient et le corps parlant》. 山﨑雅広・松山航平訳「無意識と語る身体」、『表象』、第11号、2017年、89頁。

(*19)精神分析では、症状が隠喩という暗号化を用いてなんらかのメッセージを発していると考え、分析経験ではそのメッセージを解読し、何を伝えようとしているのかが判別できた時に、症状は解消されるとされた。

(*20)精神分析の臨床は、分析家だけでは成立せず、分析家と患者との「共同作業」によって成立するものである。したがって、精神分析理論では患者の主体的な行動が求められることから、患者のことを「分析主体」として表現する。

(*21)60年代ラカン理論においてファンタスム(幻想)は、分析の終末という概念を考える際に非常に重要な役割を占めていると考えられていた。症状とは患者に苦しみを与えるものであり、その症状から患者が抱くファンタスムとは、逆に快楽を与えるものである。分析実践の場においては、患者は自身を苦しめる症状になんとか対処するために分析経験へと入り、分析家にその症状を語ろうとする。だが、症状は消して消滅することはなく、ただその症状の形態が別の形態へと移行するのみで、それを完全に取り払うことはできない。したがって、”症状のみを語る”分析は終わりのないものになってしまう。そこでラカンは、症状の次元ではなく、症状から患者が抱くファンタスムの次元から分析の終末を考えた。それが「ファンタスムの横断」である。「横断」とある通り、60年代ラカン理論においてはファンタスムを横断(traversée)すること、すなわち患者自身が気づかぬうちに快楽を得てしまっているファンタスムから患者を断ち切ることで分析の終末が迎えられると考えられた。

(*22)Floury, N.(2010). Le réel insensé : Introduction à la pensée de Jacques-Alain Miller. 松本卓也訳『現実界に向かって:ジャック=アラン・ミレール入門』、東京:人文書院、2020年、184-193頁。

(*23)Miller,J.A.(1998). 《Le sinthome, un mixte de symptôme et fantasme》. La Cause Freudienne, 39, p.7-17.

(*24)松本卓也(2018)『享楽社会論:現代ラカン派の展開』、京都:人文書院、54-60頁。

(*25)「うまくやっていく」という「savoir y faire」の翻訳は、赤坂(2011)に拠る。赤坂 (2011)はサントームを、「症状とともに作り(faire avec)症状を作品にすることであり、それは芸術・技であって、技量(savoir-faire)を持つこと」であると定義している。そして、このような症状の作品化によって分析主体は享楽しており、「ある意味で幸せであることから、そこから目覚める必要はなくなる」という(赤坂和哉(2011)『ラカン派精神分析の治療論—理論と実践の交点』、東京:誠信書房、190頁)。

(*26)Miller, J.A.(2016). 《Habeas Corpus》. Cause Du Désir, 94.

(*27)Lacan, J.(2001). 《AutresÉcrits》. Paris: Seuil.,p.511.

(*28)ラカンと同様に、ミレールも、「無意識とは話存在について知がつくり上げた駄作にほかならない」とまで語っている(Miller,J.A.(2014).《L'inconscient et le corps parlant》. 山﨑雅広・松山航平訳「無意識と語る身体」、『表象』、第 11 号、2017 年、93頁。)。

(*29)詳細については、あとで詳細に議論する。

(*30)Miller,J.A.(2014).《L'inconscient et le corps parlant》. 山﨑雅広・松山航平訳「無意識と語る身体」、『表象』、第 11 号、2017 年、88頁。

(*31)ここでの「実践」とは、「脚立理論の実践」を指す。(この実践に関しては後で詳細に議論するが、)精神分析は、分析主体の特異性を認め、個人がその特異性と共に自己の生を貫徹することの支援を第一としている。そのため、精神分析の臨床では分析主体の個別の生の価値観を探求していくことが為されるが、その探究の営みを分析家と分析主体の間のみに留めていては、その外部の人々と繋がることはできない。すなわち、精神分析において課題とされてきたのは、個人の特異性を、いかにして普遍性へとつなげるか、その方法論を導き出すことであった。「脚立」という術語は、特異的な〈一者〉の享楽を基にして分析主体が他者と繋がるための道標としての機能を担っているとして、近年のラカン派では注目されてはいるものの、その実践としていかなる活動が行えるのかという点についてはいまだに明確には議論されていない。本稿では、このような意味での脚立理論の実践、すなわちいかにして個人の特異的な〈一者〉の享楽を普遍性へとつなげることができるのか、その具体的な方法論を提示することを目的としている。また、それだけにとどまらず、先のリオタールのポスト・モダンの議論を引き受け、「連帯」ができない時代に、我々はどうしたら「連帯」が実現できるかという問題について考察することも本論の考察の対象になっている。

(*32)上尾真道(2018)「サントームについて ―ラカンとジョイスの出会いは何をもたらしたか」、『ラカンの剰余享楽/サントーム (Library iichiko 140)』所収、東京:文化科学高等研究院出版局、35 頁。

(*33)松本卓也(2018)は、「サントームへと至る症状概念の再検討のなかで、精神分析における芸術創造のパラダイムもまた一新された。フロイトの時代から、芸術創造は『昇華sublimation』という概念によって理解されてきたが、ミレールは、ラカンが『症状ジョイス』のなかでもちいた新作言語である『脚立escabeau』という語を昇華の新しいパラダイムに据えている」(松本卓也(2018)『享楽社会論:現代ラカン派の展開』、京都:人文書院、64頁)と述べている。


【参考】
⚫︎Soler, C.(2009). Lacan, l'inconscient réinventé. Presses Universitaires de France.
⚫︎Castanet, H.(2011). S.K. beau. Editions de La Différence.
⚫︎河野一紀(2018)「ボロメオ的身体と他者たちとの紐帯」、『ラカンの剰余享楽/サントーム(Library iichiko 140)』所収、東京:文化科学高等研究院出版局。

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