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書いていたブログの話

数年前に、誰に読まれる為でもなしに、ブログを書いていたことがある。

アクセス数や誰に読まれるか等の分析などお構いなしに、自分にしか分からないような一文を書いて満足していた時期があるのだ。気分的には、実に有意義だったと思う。

今は纏まった文章を書くことに意義を見出しているが、あの頃は、ただ「書きたいように書く」ということが重要だったのではないかと考えている。いわば、表現するという行為への抵抗を無くす為の発表だったのではないか。自分ではあの頃を、そう分析している。

ブログは消した訳では無い。ただ、ふと思い出して見てみたりするのだが、更新しようとする気は起きない。グーグル経営系譜のブログだったので、広告を貼り付ける必要がゼロなので見るストレスを無くしてあるのは良い配所だった。今でも他のブログを見る時のストレスは感じない。やはり自分にとっての記録である意味合いが強く、他人に見てもらおうと思う気も起きないが、それは書いてある内容に自信がないと言っている訳では無い。多分、意味が分からないと思うからだ。

世の中には人によっては何を描いてあるのか分からない絵画などがあるが、それは文章にもきっとあって、私のブログ執筆時期の一文というものは、僭越ながら、そんな分類ができてしまうのではないか。書くこと自体が目的で、それは誰かに何かを伝えたい手段ではなかった。

しかし、ブログにはどの記事がよく読まれたかというアクセス分析がある。全く人が来ていなかったかというと、そうでもないらしく、その記事のアクセスランキングには変動が見られた。面白いことは、自分が出来に自信が強くあるものには人気があり、普通に書いたものはそうでもないということだ。当たり前に感じるかもしれない事柄だが、自分にとっては驚きのことなのである。それは、先程も言った通り、私は自分が書いたものは書きたいように書いているだけなのであって、それが他人にどう伝達されるかは全く考慮していない(少なくとも自意識的には)。でもそれが他人の評価と合致するということは、やはり文章の特性というか、どうしても、伝達手段たる文章というものは、他人にも意図を伝えてくれるものらしい。どこかの誰かの興味と、自分の自信ある一文への興味が一致となることはありがたいことで、表現の不思議さを味わう結果ともなった。

結論としては、自分のブログ執筆は成功であった。アクセス数としては取るに足らない、それを考慮すれば大失敗であるが、考慮しなければ、表現行為への練習としての最高の舞台であった。自分の、書くことへの意図と、他人の評価というものが、一致することがあり得るという事実は、自分の中での大きな自信となった。もしアクセスランキングが自分に理解できない結果を弾き出していたら、私は自信を失って、書くことを放棄していたと思う。

勿論、意図通りのことばかりではない。「ああ、これはそんなによく出来ていたのか」と思わせられる結果が出たこともある。人の眼にはそんなにこれはよく写るのかと勉強になったこともあるのだ。自分としては凡庸な出来だと思っていたのだが。これぞ他人へ表現しないと分からないことの代表格でもあるが、自分としては副次的にブログ執筆から得られる利益となった事柄でもある。

私が気づいたことは、私は大量の読者を得たいという欲求よりも、誰かに少数でも正確に意図が理解されることに喜びを強く感じる人間なのだということである。無論、大勢に読まれることで嫌な気分になるようなことはない。それも嬉しいが、一番自分として気分が上がることは、やはり意図が伝わる、という現象の方のようである。何を書いているのか分からないと言われると気分が落ち込むのは万人共通の思いであろうが、自分が難解に書き過ぎたと思ったことを正確に読み取ってくれる他者という存在は、その正反対に喜びを強くもたらしてくれる存在である。読み手あっての作者なのだという当たり前を実感させてもらえることは、やはり貴重な経験であった。

今は執筆の息抜き程度にnoteでこうして書かせて頂いている身である私ですが、ここでの執筆時間も、また未来の私を勇気づけてくれることを願って、こうして執筆を続けていきたい次第である。

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