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『或るエッセイ』(改訂版)

2019/5/19に発売した電子書籍である『或るエッセイ』を、ここで読める形式にして、尚且つ改訂版として改めて執筆してみることにした。

この本を執筆した当時は、特にネットワーク上での発表を行っていた訳ではなくて、時が経った現在の目線で見ると、拙いことが多い。なので書き直すような気持ちで、再び取り掛かることにしたのである。幸いにして、noteでの執筆と発表が、私を磨いてくれたようで、今のその気持ちが、この作品を新しい目線で再構成してくれる気がするのだ。

加筆修正しながら、新しい本を書くような心持ちで書き上げるので、読者もこちらから入って頂く方が、きっと有益になったり、読むことを楽しんで貰えると思う。折角のプラットフォームを活かすという形で、noteによって、この作品は新しい命を吹き込まれることになるのである。

【字数:1万9136文字】

【序文】

書き始めることについて、まず言わなければならないことがある。それは、この文章は、私の雑感の詰め合わせであるということだ。何か重大な意味のあることを述べるというよりは、思ったことを、そのまま書き連ねているという方が正しい。

そのことを承知で読んで頂けるのならば、大変に嬉しく思う。喜ばしいこともである。関心を持って頂けることは僥倖である。感心して頂ければ、幸いである。

書きたいことは山ほどある。しかし、それにどれ程の価値があることか。これを考えていくとキリがない。なので、まずは余計なことを考えないようにして、筆を進めていこうと思う。その方が、中々言い出せない「正直」が出るのではないだろうか。そうであることを願う。

書くことの喜びとは、誰かが読むことの楽しさにアクセスできるように務めることだ。読者という、他者の満足が、自己の喜びとなる。この連鎖反応から、更なる文章を生み出す契機が訪れる「連環」に入ることが、自身を高めてくれると考えている。

皆さんにも、その一端を感じて頂けるよう、真摯に執筆することを誓います。

さて、書き出しとしては、これは上々ではないだろうか。正直に書けたと思うのだ。

【或る生活について】

「生活」するという言葉がある。これは正確には、何を意味するのだろうか。食い扶持を稼ぐことであろうか。それとも家事をすることだろうか。そのどちらでも、片手落ちな気がするのである。では趣味に生きることか。それは、生活の一部にはなるだろうが、生活自体ではないだろう。生活のために仕方なく、という言い方もある。この「生活」の意味が知りたいのである。仕事一辺倒では、生活しているという感がない。一方で、家事に追われているという状態は、生活感に溢れているという感がある。優雅な生活、という言い方には、どこか羨ましさがある。それは「生き方」なのだろうか。

日々を営むと言えば、しっくり来るかもしれない。ルーティーン化することが第一に「生活」するということなのではないかと思う。仕事に忙しい生活、家事にてんてこまいな生活、優雅な生活、又はカツカツな生活、といった類に。

そうした言葉としてはよく使われるが、意味としては、何となくの「感覚」で捉えてしまっている気がする。ライフスタイルと言い換えれば、それは能動的であり、自分で選んでいる感があって良い。しかし生活という言い方には、どこか切羽詰まった感があると思うのは私だけだろうか。先に述べた「生活のために仕方なく」という物言いは、まさにそれの代表格であろう。

つまりは、それは自分で選べるものではないということだ。例えば、「好きでこんな生活をしているんじゃないんだ」とでも言えば、実にぴったりな意味となる。生活感のある家、と言われると、整頓されていないイメージが付き纏うことでも、それは感じられ、それに拍車を掛けている気がするのである。

優雅な生活という言い方には、「(生活というものなのに)優雅なものですね」という、そんな言い分を感じるのだ。やはり「生活」≠「ライフスタイル」なのであろう。みじめな生活というものはあるとしても、みじめなライフスタイルというものは、存在しない。

どのような人生を送りたいか、という問いがある。どういう生活をしているのですか、という問いも成り立つ。しかしこの両者はイコールでは結べないものだ。どんな人生を歩みたいかということと、どんな生活をしたいのかということは、別物だからである。当たり前のことを述べているのだけれど正確にこれらを区別している人は、案外に少ないのではないだろうかと思う。

生活が積み重なり、人生となる。こういうことなら、話は簡単である。だが「人生」という言葉は、生活よりも更に大きなものだ。人生というものは全てを包括する意味を有するが、生活というものはその人を規定する一面に過ぎない。どんな生活をしているかで、その人を決めつけるようなことを、してはいけないという言説もあるだろう。やはり生活それ自体は人生とは別物として扱うべきなのである。生活とは、手段に過ぎないのだ。「どういう生活をしているのかで、その人が幸福かどうかを判断できる」という言い分は、早急な判断に過ぎない。少なくとも、私はそう考えているのである。

生活には困っていないが、何かが物足りない等、不自由はないが、満ち足りていないということは、よく耳にする話だからである。つまり私達は、「生活するために生きている」のではないのである。

これはよく考えると、驚くべきことである。手段を目的化してはいけないという、実に為になる話と同じことだ。あらゆる生活は一手段に過ぎず、実現するべきこととは、別にあるということである。ではそれは何か?

理想の生活を仮に実現したとして、次に求めるべきことは、それを基盤として生じる「夢」である。なんと生活という事柄から「離れる」のである。ここからも、人生と生活が、合致しないということが容易に分かる。生活に追われない人生は、夢心地である。生活が目的化していない人は、夢を持つことのできる人の条件なのである。

生活をすることで手一杯な状況である限りは、夢は抱くことすら難しいものだ。どうしても、生活というものから(空想の中だけであっても)一時的にでも離れることが、夢の実現には不可欠だからである。生活というものは、どうしても、地に足が付き過ぎているのだ。空想の羽は、実生活から乖離するものなのである。

生活感のない家というものがある。これは実に良いものではないかとつくづく思える。生活感がないということが、余計な緊張感をもたらすという側面はあるかもしれない。しかし家は休憩所なのではない。その一面があれども、どちらかといえば、人生の「拠点」である。故に緊張感が無ければ良いというものでもない。生活が見え隠れすることは、来客への失礼に当たることである。誰かを家へと招く際は、その生活感を「隠す」のが常識である。時間のない多忙な生活をしているという事情でもない限りは、生活している感は見せない。他人に対し、見せるべきことは、又は魅せるべきことは、そこではないのだから。

となれば「生活さえ出来ればそれでいい」という考え方が、いかに窮屈なものかも分かる。そこには延長線が無い。どこにも行き着かないのである。拠点が終点になってしまう考え方なのだ。人生へと望むことは、どこまでも生活の先にある。これは、実に面白いことだと思う。

<衣食足りて礼節を知る>という諺がある。これも「衣食よりも礼節が重要である」と読めないこともない。「衣食(生活)<礼節」なのである。これに合わせて言えば、衣食足りてこそ夢を持てる。

夢で飯が食えるのか、という言説があるが、これは大いなる勘違いである。先の夢があるからこそ、生活を引き締めるということもあるし、夢が無いが故に、生活が安定するというものでもないからである。夢を叶えるとは、夢のような生活をしたいという側面もあれど、正確な所を言えば、生活的なことを二次的にできる人生を歩めるようになる、ということである。つまりは生活できるかどうかを優先的に考える要素に含まないことが、それが「夢」を叶えるということの所以たる事なのである。

むしろ夢が叶い、それに伴う生活が送れるようになると、それはもはや夢ではない。夢のような生活を送れるようになった場合は、その人には、次の別の夢が生じるのであって、そこには生活できるかどうかという懸念や判断基準は(実際問題としても)不要である。生活の心配は無用となっているが故に、生活が荒れるということは論理矛盾でしかない。生活の心配をしている限り、夢は萎むだけである。まずは夢ありきであって、そこからそれを実現化するための、(現実的な)手筈が必要となるという手順が正しいのである。

生活の狭義な意味に縛られている限りは、どこまでも夢は夢であり、生活は生活となる。その距離の開きは、とても大きいものだ。夢を抱く者に、それで生活できるかどうかを問うことは、ナンセンス極まりない。生活の心配をする者に、夢を抱く資格は無い。そして理想の生活を送ること自体が夢となっている者に、それを実現できる理由も見当たらない。生活の地平から見上げる視点は、夢を追うには「低すぎる」のである。たとえ真っ直ぐな目線で物事を捉えようとも、その視座の低さのせいでそこからは望みの「見え方」は生じない。せめて斜め上の目線が無ければ、夢と目が合うことは無いのである。生活と素直さは相性が良いのかもしれないが、夢の実現には、多様な目線が必要なのだ。この様々な視点にも、(様々な感情を含め)生活というものから離れる必要がある。子供が、突飛とされる夢を抱けるのは、生活の心配を離れているからである。子供を生活に縛り付けてはいけない。夢の喪失は、結果としての生活の喪失にもなりかねない。生活が荒れる原因ともなるということだ。生活に括り付けられるが故に、生活が破綻するということは、残念ながら矛盾していない。夢の諦めとは、生活というものへの「比重」の偏りである。それは「生活」というものへの偏愛なのである。

生きていければ、それでいいという事には「夢がない」ように、生活という事情を目的化することはあってはならない。そして他人の夢を否定するということは(実現の可能不可能の話というよりは)実際はそれに対する感情的な、要は生活への「偏愛」の反動なのである。自分の生活というものへとしっかりとした成立を実現している人に、他人の夢を否定する者は居ないだろう。それは、生活することへ偏ることがないということも一因であろうが、他人を肯定する余裕が、むしろ他人の夢というものが自分の気付かない目線となって有効活用できることを知っているからなのだ。そう思える人物こそが、「理想の生活の体現者」なのである。

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