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冬の寂しさを含んでいる夏の音を聴いた。
"のたりのたり" 、海岸線沿いから15mくらい離れて、その音を。
晩成した人間が人生という海を平泳ぎで泳ぐような音に感じた。
彼女の泳ぐフォームは、美しいがちょっとずつ常軌から、ズレている。

その、"微妙なズレ" に不安を感じた。
不安というよりは、彼女に対しての心配だろう。なぜなら、私も平泳ぎのフォームを変えながらこの場所に来たのだから。

***

『Dimhide』に通い始めて六ヶ月になる頃だ。
わたしは二十一になった時から、落ち着くバーにひっそりと通いつめてみたかったのだ。だから、ここにくるといつも安心する。予約していた映画を無事に、見ることができたように。

本を読めるくらいの照明とアナログレコードから、伝わるジャズみたいな音楽が好きだった。私は音楽に対してあまり詳しくはない。
だから、このバーを誰かに伝える時に上手く表現できないことを二十八になったいまでも悔やんでいる。

カウンターは七席あり、店主はマスターと一十五個くらい歳の離れている女性。

マスターの指は、十本ともよく手入れされていた。彼女が纏う匂いも心地の良いものだった。

店員はその二人だけだ。
テーブルは、二つ。どれも、二人用の席だった。

八月。店の内側は寒いのに、外側は熱気で覆われていて、人が人を求めるときのような苦しい夜だった。

店の入り口に、店名が描かれているマッチ箱が置いてある。
その箱を使って、煙草を喫うことが一つの楽しみだった。
"同棲" というものをしだしてから、この場所でしか煙草を喫えなくなっていた。
 
いつものように、テーブルに腰を掛けギムレットを頼み、マッチに火をつけてラーク(LARK)を喫う。店内にはザ・ビーチ・ボーイズの『Good Vibrations』が流れていた。

カクテルが運ばれてきた。「また来てくださったんですね」と気さくに声を掛ける彼女の首元に分厚い跡のような物が見えた。

だれかに乱暴に扱われたのか、それとも ーーー 考えれば、考えるだけ私が彼に。抱かれた夜の記憶が薄くなっていくような気がした。

その日は、珍しく若いカップルが来ていた。
語尾に、"君"と "ちゃん" を丁寧につける 二人だった。

このあと、二人は激しく名前を呼び合うのだろうか。その時は、ちゃんと丁寧に"君" と "ちゃん" をつけられるだろうかと思った。

***

火種が少しづつ、口に近付く光景を見ながら。
慎也はなにをしてるんだろう。と、考えた。
"夜に電車の音が聴こえる部屋がいいよね、一人でいても寂しくないからさ"
そんな一言で決まった、狭くて暗いアパートで。

「結婚する前に、同棲しようよ」と大学を卒業するときに言われて始まった。私たちは、すでに一年付き合っていてふたりとも二十三になる年だった。

それから、六年。
二十代の半分を彼に捧げた時間は、とても長いものだった。
わたしは、デザインや美術を学ぶ専門学校で、慎也と出会った。
慎也はデザインの学校に通いつつ、洋服を作っていた。
小柄でシンプルに洋服を着こなし、"嬉しいこと" "楽しいこと" 私にしか伝えないことをたくさん伝えてくれた。

お互いに働き始め、毎晩料理を作り。毎晩抱き合った。
"求める時に見せる、切ない瞳が好きだ"と呼ぶ彼のものになっていた。
体をうねるたびに、彼のものが入っていく。
私の身体が、私のものではないみたいと感じることさえもあった。

やがて、慎也は服飾の知識を活かせるデザイナーの仕事を一年足らずで辞めてしまった。それから、職は見つかるだろうと思っていたが見つかることはなかった。私は、夜に居酒屋で働き始めた。

慎也はオシャレではなくなってしまった。
気付いたら、ーーー 気付きたくなかったけど毎晩一緒のベットで寝るだけの関係になっていた。それから、私たちはセックスをしない関係になっていった。

***

ある日、私は名前の知らない男の家に泊まった。

そのような行為を行動に移してしまったのは、"温もりが欲しい" そんな言い訳程度の理由だった。家に着いたら服を脱がされ、貪るようにキスをされ、雑に愛撫された。

知らない男に激しく突かれ、私はその度に慎也を思った。
そこそこ手入れされているユニットバスを借りて、シャワーを浴びながら泣いた。

泣きながら、汗をかいて名前の知らない男が知らないうちに家に帰った。
朝から、蒸し蒸しする梅雨明けを感じさせる日だった。

始発で帰り、慎也を起こさないように布団に入って寝た。
頭を撫でられることに気付いて、私は起きた。
「おはよう」と嗄れた声に対して、どこに行っていたのかと聞かれた。

私は正直に答えることができなくて、友達の家にいたと言った。
私の友達は数える程度しか、いないことも慎也は知っていた。

慎也は私の髪から、手を退けて「そうか」とだけ、答えた。私はクモの糸のように、細くつながっている一本の線が切れるような音が聞こえた。

その頃から私には、いやその前から。ずっと前から、私はどのように物事を進めばいいのかわからなくなっていた。

***

潮の満ち引きの音はどこか落ち着く。
海の近くに、灯台があれば少しは気持ちが楽になれたのかもと私は思った。
この世界に私しかいないのではないかと思うように、月だけがひっそりとスポットライトみたいな役割を果たし私を照らしているかのように感じた。

私は寝そべり、慎也が私に作ってくれたワンピースが砂まみれになる。
目を閉じながら、深く息を吐いた。

   

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Sho Kasama|【短編小説を作ってます / 2024.11.17 シェア型書店OPEN】
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