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作家芹沢光治良著『教祖様』を読み始めて…①(追記)


作家芹沢光治良著『教祖様』を読み始めて…」
に加筆しました。

「教祖様(おやさま)」とは天理教の教祖中山みき様(1798年〜1887年)のことです。

今は『教祖様』ではなく、『教祖』と書いて『おやさま』と読みます。

人類の母親なる魂の御方なので、天理教信徒は『おやさま』とお慕い申し上げています。

おやさまは、明治20年陰暦1月26日に90歳でお姿をお隠しになられました。

それ以降は、お姿を拝することはできませんが、魂は存命のまま今も天理教本部の教祖殿に住まわれ、いつも私たちをお見守り下されています。

また3年後の2026年1月26日に、本部では教祖140年祭が執行されます。

天理教本部神殿


教 祖 殿


教祖殿では御婦人の方が、四六時中おやさまのお側で仕えています。
食事の時間になれば、心のこもった料理をお出しして、またお風呂の時間になれば、支度ができましたとお伝えし、ご入浴なされます。

布団も真心を込めて丁寧に敷き、今日一日の御礼を申し上げて、おやすみ頂くのです。

そして夜が明けると、教祖殿では『おやさまのお出まし』があり、早朝から大勢の方々が、おやさまの御前へご挨拶を申し上げに来られます。

教祖殿内


天理教を知らない方には異様に映るかもしれませんね。


天理教教会本部が刊行する『稿本天理教教祖伝』という書籍があります。



その最後のくだりを読むと、僕はいつも教祖のやさしい親心に触れたような気持ちになるのです。

『稿本天理教教祖伝』 最終章 最終ページ

さあさあこれまで住んで居る。何処へもてはせんで、何処へもてはせんで。日々の道を見て思やんしてくれねばならん。

 (明治23年3月17日※おさしづ


 一列子供を救けたいとの親心一條に、あらゆる艱難苦労かんなんくろうの中を勇んで通り抜け、萬人たすけの道をひらかれた教祖おやさまは、尚その上に、一列子供の成人を急込む上から、今こゝに二十五年の壽命じゅみょうを縮めて現身うつしみを、かくされたが、月日の心は今も尚、そしていついつまでも存命のまゝ、元のやしきに留まり、一列子供の成人を守護されて居る。日々に現われて来るふしぎなたすけこそ、教祖おやさまが生きて働いて居られる證據しょうこである。

月日にハせかいぢううハみなわが子
かハいいゝばいこれが一ちよ

   (おふでさき17号16番)

稿本天理教教祖伝 第十章 扉ひらいて


姿が見えないだけです。

信じるものにしか感じられない世界もあるのです。


◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

作家芹沢光治良著『教祖様』を読み始めて…

作家芹沢光治良氏の『教祖様(おやさま)』は昭和24年から昭和32年にかけて当時の養徳社社長岡島善次氏が、光治良氏に依頼し天理教機関誌『天理時報』に8年間連載されていた。まだ『稿本天理教教祖伝』が刊行されていなかった頃のため、朝夕に読んでいた教会も多かったようである。

最近その本を兄からお借りした。本当は昭和34年に角川書店から出版された初版本が面白いということを聞いていたので、そちらを読みたかったのだが、手に入りそうにもないので、善本社の再版本で我慢することにした。

僕がX(Twitter)をやっていた頃、芹沢光治良氏の愛読者が、長編『人間の運命』を読み、私はこの本に救われたとツイートしていた。
僕は文学には疎いのだが、文学というのは人を救う力があるのかと感心した。

救われたというその『人間の運命』も20数年前に読んでいた時期があったが、思うところがあり本を閉じていた。しかし、この『教祖様』を読んでまた読み始めてみようと思った。

さて『教祖様』を読み始めて、序章の『再版のいきさつ  −中山正善・真柱の友情に応えて−』で祖父のことについて、ふれていることに気がついた。


『……その四月十九日の暁のことだったが、私は
−  喜ばなければいけないという声で呼びさまされた。ベットの枕もとにおいてある椅子に、赤の和服を着た優しい老女がかけていた。数年かかって書いた、赤衣をお召しの教祖様ではなかろうかと、気がついたが……(中略)
−  神様が褒美を下さるのならば、私は希望がありますが……
−  申してごらん。
−  喘息を根治してもらいたいのです。
−   喘息は神様のお慈悲でしたが……、偉い先生方は、教祖伝を書けという神のせきこみだとか、先祖が胎児を中絶した因縁だとか、いろいろ理を話して苦しめたようですが、神様のお慈悲でしたよ……(中略)……長い間苦労をかけたが、よくたんのうをして、神のこころに従って生きなさった。これからは好きなように自由に生きてよろしいと、神様は仰しゃっているで……、まだ頼みがあるのだろうか。
−  ではお願いします(と言って、私は三つ年下の弟で、父の信仰をついで岳東大教会で役員をしているのが、この十数年固形物が喉に通らず一日卵の黄身一ケと牛乳一本で生きている上に、この一ヶ月ばかりは、光があたると目が痛んで開いていられないとて、昼でも雨戸をしめて苦しんでいるが、医者にかかるぐらいなら信心はしなかったと頑固に言って、家人を心配させているからと、話しかけると、
弟さんに、心に喜べないことがあるとおやさんが言って心配していると伝えて下さい、それで弟さんの心が助かるから……と言って、なお促すので、私は永く留学して帰国した二人の娘のことと、家庭的に苦しんでいる問題とを述べたが)……(中略)…… 最後の問題も今年中に解決します、神様はちゃんと証拠を見せると、仰しゃるで……、文学館のこと、なあ、建てて下さるお友達は、真のまことで建てて下さるのや。それを、神様も喜んでいなさるもの、どんなことがあろうとも、喜ばなければいけません……
−  わかりました。
そう答えたとたん、はっとしたが、その瞬間、赤衣の女人は消えていた。』   

善本社出版『教祖様』P6〜P8


 祖父は芹沢光治良氏のすぐ下の弟で三男だが、家の信仰を継いだ。祖父からは本にあるようなことは聞いたことがなかった。

光治良氏が実名を記載している本を出版するにあたり、それに反対した教団と兄との狭間で祖父は苦しみ、本部に行けば批判の矢面に立たされていたということを、昔ある人から聞かされたことがある。だから光治良氏の書籍のことにはあまり、触れたくなかったのだろう。

光治良氏は、何度か自宅に訪れた時があったが、まだ僕が幼かった頃である。
今に思えば生前中に、いろいろな話を伺っておけば良かったと、残念でならない。

作中にもあるように祖父は病弱な身体だったが、神様のご守護を頂戴し、97歳の天寿を全うすることができた。
光治良氏が教祖のお姿を何度か拝し、語りあったことは、僕には少し信じ難いところもあるが、胃の重病と緑内障に苦しんでいた祖父が助かったことは、まぎれもない事実である。

この本を読み、弟のことを想う光治良氏の優しさに触れ、嬉しい気持ちになった。

光治良氏は天理教の信徒ではない。しかし、この作中の
自由人とは何を意味するか、信仰者よりも厳しく真理を求めることだ
という言葉には深く感銘するところがある。

真理は一つだが、真実は見る側によって違うこともあるだろう。しかし真実を知ろうとするならば、信念をもって、とことん探し追い求めなくては、掴むことは出来ない。

当時資料も乏しい中で、上梓した『教祖様』は、著者の脚色もあるが、いろいろな事柄が細部にわたり描かれており、それが感じ入るところでもある。
そもそもご存命の教祖は、姿が見えないので、教団が刊行する『稿本天理教教祖伝』や『天理教教祖伝逸話篇』などの書籍を読み、自分の想像で思い浮かべるしかない。だから信ずる者、それぞれに感じる『おやさま』が皆の心にあるように思う。

今まで稿本天理教教祖伝や教祖伝逸話篇は何百回も読んできたが、この『教祖様』も自身の教祖を想い浮かべながら読んでいこうと思う。

−了−


最後までお読み下さり、ありがとうございました🙇

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