![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/119350081/rectangle_large_type_2_ab7f92647c36c053a90af8011e13dbcc.jpg?width=1200)
義父と沈みゆく夕陽
お義父さんが急逝した。
米寿の祝、88年で人生の幕を下ろした。
6日後には89歳となる筈だった。
お義父さんは、胆嚢炎で入院していた。
また心臓にも持病があった。
亡くなる3日前。見舞いにいくと、
「そろそろ退院できるみてえだ。退院したら、またみんなでうちに来てくれよ」
と、孫たちに囲まれて嬉しそうに語っていたのに、、、。
亡くなった日も看護師さんと元気に話をしていたそうだ。
しかし夕方、心拍の異常を知らせるアラームが鳴り、看護師さんが駆けつけた時にはもう遅かった。
心筋梗塞だった。
周囲に気づかれることなく、あっという間にお義父さんは、逝ってしまい帰らぬ人となった。
本人もまさか急逝するとは、思いも寄らなかっただろう。
命とはとても儚いものだ。
残されたものには残酷でもある。
哀しみもまだ癒えぬ中、冷静さを装い、こうしてベラベラと綴るのは、少し不謹慎で無神経のような気がする。
しかし、僕もいつ死ぬかは分からない。
妻には内緒にして、忘れないうちに記しておこうと思う。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
突然の訃報にびっくりしたが、妻が心配であった。
娘というのは、息子と違って父親への想いが強いように思う。
生まれ持っている『母性』の違いなのかもしれない。
僕は父が亡くなったら、あんなにも泣けないだろう。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
義理の父というのは、何となく気を遣うものだと思う。
妻の実家へ帰ると、いつも自然と僕の存在が薄くなるような気がする。
逆に妻は生き生きとして、存在感が増している。
そんな僕をみて、いつも気遣ってくれたのが、お義父さんだった。
「ご苦労さん。足くずして、こっちきて一杯やんべえよ〜」
と口癖のように言っていた。
もうその声に触れることもないと思うと、とても寂しくて切ない。
お義父さんは、静かな漁村の網元の家に生まれた。
根っからの海の男だ。
海岸から徒歩1分の波音が聞こえてきそうなところにその家がある。
6人兄弟の長男で、人間関係が希薄化した現代には珍しく、親族の結束がとても固い。
細田守監督『サマーウォーズ』の陣内家みたいな感じだ。
お義父さんは、いつも声がでかい。
声の大きい人に悪いひとはいないという。
そして人情に厚い。
早くから父を亡くして家業を継ぎ、母と共に苦労をしてきた。だから人の痛みがよく分かるのだろう。
また歳の離れた妹たちの父親代わりでもあったようだ。
最期のお別れで、その叔母たちが冷たくなった義父の頬に両手をあてて、泣きくずれる姿をみて、胸が痛み自然と涙が溢れた。
家族のとても深い絆を感じた。
いつも自分のことよりも、家族のことを一番に考えているひとだった。
減船政策によって自分の代で家業を畳み、けっして裕福ではなかった。
遺産などはなにもない。
しかし子どもや孫たちに、人として大切なものを教え遺していってくれたように思う。
肉体はいつか滅びるが、その精神までも滅びることはない。
姿はもう見えないが、心の中にはいつもいる。
目を閉じれば、僕に優しく声をかけるお義父さんの姿が、いつでも脳裏に浮かぶ。
お義父さん、ありがとう。
そして安らかに。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
葬儀のあとの帰り路。
茜色に沈んでゆく夕陽がとても綺麗だった。
すぐに車を路肩に寄せて、ハザードランプを点けた。
娘たちはこの情景を、まだ赤みの残る眼差しで見つめ、iPhoneに収めていた。
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/119348161/picture_pc_629601f69aec0d581949bbb825909154.png?width=1200)
沈みゆくこの夕陽と共に、海に生きたお義父さんが、旅立っていくような気がした。
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/119347991/picture_pc_5e49c54d8614001cc1768a0d912ddca0.png?width=1200)
相模湾の遥か向こうに、雲の上から頭を覗かせている霊峰が、旅立つお義父さんを最後まで見送っていた。
そして僕たちは、お義父さんのいない新たな日常の世界へと戻ってゆく。
ー了ー
最後までお読み下さり、ありがとうございました🙇