森を見ずに木を見よう
最近、小さい文字が霞んで見えて、老眼鏡の度数もだんだんと上がってきました。
普段から目には気をつけているのです。
父は緑内障で視力が弱く。
祖父も緑内障で晩年は、殆ど目が見えませんでした。
曽祖母は詳しい経緯は分かりませんが、左目を失明しています。
遺伝的なもので、目の病気になるリスクが高いのかもしれません。
しかし、不思議なことに祖父の兄弟も、父の兄弟も大勢いるのですが、他の兄弟で目を患っている人は誰もいません。祖父と父だけなのです。
天理教の教えの『前生のいんねん』というものだと思っています。
それはさておき、僕は今のところありがたいことに、視力は1.0あります。
老視というだけで生活するには、なんの支障もありません。
先のことは分かりませんが、人生を終えるその時まで、ぼんやりと見えていれば、それでいいと思っています。
人生の中でも、ぼんやり見えていれば、どうにかなることも沢山あります。
以前ある会議に出席して、今の段階は、ぼんやりと全体が分かればいいことを、発表している人は、長々と丁寧な細かい説明をしているのです。
そこはクリアではなくて、ぼんやりでもいいんじゃないの!?
「その長い説明は無駄な時間だよ〜端折ってくれ〜僕の残り少ない命という時間を返してくれ〜」と思ってしまいました。
またぼんやりでいい時と、クリアにしなくてはいけない時もあります。
「木を見て森を見ず」
森を見るには、遠目でぼんやりと見ていればいいのです。
反対のことは「森を見て木を見ず」ということです。
木を見るには、ぼんやりではいけないのです。
近くでクリアに見なくては分からないこともあります。
社長や校長など、トップに立つ人は「ぼんやり」と「クリア」を間違わないように使い分けることが、とても重要だと思うのです。
社長は、社員すべての人が何を考えているかなど、分かるはずがありません。普段は、森を見るように全体をぼんやりと観察していればいいと思うのです。
しかし、クリアにしなくてはいけない時もあります。その時は「木を見る」でなくてはいけません。
校長先生なら遠くから見て、「あれっ?!あの生徒、いつも元気がいいのに、今日は暗い顔をしているな?」と思ったら他の事はほっといて、その子に照準を合わせて、今日はどうしたの?と声をかけなくてはいけないのです。
人の上に立つ人は、メタ意識を持って木を見ることにも、いつも敏感でなくてはいけないと思うのです。
ー了ー
最後までお読み下さり、ありがとうございました🙇
※ 画像はhirokikanayama さまの撮影されたものを使用させて頂きました。
御礼申し上げます。