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創作大賞2024応募作 銀色の指輪

あらすじ
アンバランスに背伸びした中学生の恋愛。中学生の上村祐子と楢橋慎也が初めての恋をする物語。二人は付き合うことになるが、受験勉強や部活動の忙しさから、小さなすれ違いを重ねて疎遠になっていく。ある日、慎也が祐子に渡した誕生日プレゼント。その真意に気づかないまま祐子の心は離れていく。届かない気持ちと噛み合わない思いやり。この物語は、十代の恋愛ならではの複雑さや感情の微妙な変化を描いています。



 ここは広大な空き地が広がっている。地面もでこぼこで、人の背丈ほどもある雑草も茂っていた。ごみもそこらかしこに散らばって、ずっと手つかずの状態だった。
 それが、最近はすっかり綺麗になっていた。といっても広いのでまだ奥の方は随分散らかっている。近い内に開発されて、大きなマンションになるらしい。もう少しすれば地面も均されてしまい、立入禁止になってしまうだろう。
 この辺りは海が近いせいもあって、潮風が強い。長い間いるだけで、髪の毛がパサパサになってしまいそうだ。そして、今日は寒い。
 急がなくてはいけない。上村祐子はそう思った。何せこの大地は広すぎる。
 ふと、振り返り周りを見渡した。見える限り、誰もいない。
(やっぱいるはずなんてないな。それもそうよね。二年も前のことだもの)
 期待してたわけでもないし、これでいいのだと思う。私は置き忘れた過去を拾いに来ただけ。

 二年五ヶ月前、祐子は中学生だった。今思い出すと、全て子供じみて思えるが、その時はそうだった。過去のことである。
 春も終わりを告げそうな、五月下旬の暑い日だった。祐子はあの日を生涯忘れないだろう。祐子には、長く憧れていた人がいた。同じクラスで野球部の楢橋慎也というあまり目立たない生徒だった。あまり仲がいい方じゃないけど、たまに何かの拍子にあいさつするだけで胸が高鳴るのだった。次第に毎日慎也を思うようになった。そんな自分に困惑し、友人の朝子に相談したのだが、「じゃあ告白したら?」なんて言うのだ。そんなこととんでもない! 初めはそう思ったが、しかしそれしかない。朝子が応援すると言うし、祐子はついに決意した。
 太陽が窓からじりじりと照りつけていた。何とも眩しく、明るい日だった。私は秘めた決意が鈍らぬよう、一日中頭の中で言葉を反芻していた。
 放課後、下校時間になるとクラスメートは皆帰り出す。慎也は大体部活の時間ぎりぎりまで、廊下で石村清人や山崎弘道と話している。三人は親友なのだが、部活がバラバラらしい。だから、部活の始まる前の僅かな時間に、こうしてよく話していたのだった。他のクラスメートは、もうほとんどいなくなっていた。告白するには、この時間がチャンスだった。祐子が近づくと、清人は弘道を連れて、どこかへ行った。朝子を通じて協力の根回しがあるらしい。祐子は、この清人はあまり好きにはなれない。あまりにおしゃべりで、無神経だからだ。とにかく、一人きりになった慎也に話しかけたのだった。
 そして告白した。何て言ったのか、はっきりとは覚えていない。あれほど緊張したのもあの時だけだろう。多分、かなりぎこちなかったに違いない。その後は心臓があまりのドキドキに、壊れてしまうかと思った。本当に驚いた。
 両想いだったのだ。ここは覚えている。祐子の告白に「俺も…」と控えめに答えたのだ。この時の衝撃も計り知れない。電撃が脳天から全身をめぐり隅々へ走り抜けてから、その後は地球を割ってしまったのではないか。呆然と真っ白になった祐子は何も感じることができなかった。戻った感覚が最初に捉えたのは喜びであったと思う。
 失恋の覚悟もあった祐子には、この上ない幸運であった、と今でも思う。実際その後の二人の思い出は、とても素晴らしいものだった気がする。と言っても他人から見たら、何もかも他愛もないことばかりなのだろう。
 ある日、祐子は委員会の仕事があって少し遅くなった。辺りはもう暗い。校舎から出ると、まだ野球部がいた。祐子はそっと近づいてみた。もう後かたづけをしているようだった。慎也の姿を探してみたが、暗くてよく見えないし、皆同じユニフォームでなお分からない。祐子は諦めて帰ろうとした。
「あの上村さん?」
 後ろから呼び止める声がして、振り向くとなんと慎也だった。彼の方から見つけてくれたのだ。そして不意のことなのに、祐子は落ち着いていた。当然驚きはしたのだけど、不思議な心地よさがあった。慎也の姿を見つけて安心したのだ。これが安らぎなのだろうかと、初めて思ったのはこの時だった。
「あの、もう部活は終わったんですか?」
 祐子はそう切り出した。クラスメートなのについ敬語になってしまう。これは良くないのに。
「ああ、片づけるのは一年だから」
 なるほど、と思った。
「私、委員会で遅くなってしまったの。そしたら野球部はまだいて。びっくりした」
「ああ、そうだったのか。これから、帰るの?」
「うん」
 それから慎也は自然に会話してくれた。自分は随分緊張していたのに。凄く頼もしかった。そしてその明るさは、意外でもあった。ただ今思えば、部活の後は気分が高揚するものじゃないかと思う。つまり、素のままに近い部分だったと思うのだ。でも、それ自体が優しさであったかどうかなど、どうでもいいことだ。
 二人は、帰路を共にした。それはこの日が初めてだった。しかも、普段より遅い時間というだけでエキゾチックな感じまでする。どうかこの懐かしい思い出を笑わないで欲しい。まだ幼かったのだ。淡い恋いでも深く酔えるような、子供だったのだ。とにかく、その時はそれだけで、まるで異世界にいるような心地だった。
 だんだん、祐子の家が近くなってくる。
「慎也君も家こっちなの?」
 気になっていたことを聞いた。あわよくば家の場所まで知りたかった。
「うん、この辺かな」
 曖昧にそう言う。でも意外に家が近いことに驚いた。そして嬉しかった。でも、それも今思えば慎也の優しさでそう言ったのだろう。もしかしたら、遠回りしたのかもしれない。十五年間生きてきて、外ですれ違ったこともない。でもいいのだ。それでも嬉しいのだから。
 結局、家の前まで送ってくれた。この日は嬉しくて、ずっと舞い上がってた。弟を訳もなく突き飛ばしたりふらふらしたり、家族はさぞ困惑したろう。

 以後の細かいいきさつは全て省くことにする。とにかく重要なのはここなのだ。
 十月の末のある日、二人は四度目のデートだった。慎也は野球部を引退し、二人は受験生だった。志望校は違った。慎也はバカではないが成績はあまり良くない。祐子は、比較的成績が良かった。だが慎也は同じ高校を目指すという。それについて喧嘩したこともあったが、慎也は譲らなかった。でも、結局は叶わなかった。二人は別れてしまったのだから。
 やはり少し順を追うことにしよう。まず半年弱で四度のデートは少ないと思われるかもしれない。だが、野球部がトーナメントを勝ち進んだために、夏休みも時間がなかった。でも、応援などにはこまめに足を運んだ。練習が終わってから、僅かな時間会うこともあった。そして、何よりクラスメートでもある。だから何も不満がなかった。それに、改まってデートとなると変に緊張してしまう。遊び慣れていないというか、慎也は遊ぶことに不器用な男だった。もっと遊びたいとかも思ったけど、慎也は部活も勉強も必死だったから、邪魔になりたくはなかった。それに、私はそんな慎也が好きだったのだから。
 思えば幸せだった。自分に湧いてくる不思議と優しくなれる気持ち、初めて幸せと感じたこと、全ては、慎也と出逢って知ることができたのだ。慎也が教えてくれた。他の誰かじゃ、こんな気持ちにはなれなかったに違いない。ずっとこのままでいたかった。毎日、切にそう願った。だが、思いと裏腹に、それは続かなかった。
 この日、二人は別れてしまうのだ。四度目のデートは昼に、駅前に待ち合わせだった。慎也は遅刻した。大した遅れではない。十分か二十分くらいだ。普段は時間通りなのに。だが、何故か悪びれる様子はなかった。責めるつもりはなかったが、その態度に少しむかついた。
「遅刻だよ?」
 そう言ってみた。
「ごめん、ごめん」
 少し笑ってる。何がおかしいのだろうか。
「じゃあ、行こうか」
 そう言うので、あっさり許した。祐子はあまり口うるさい女にはなりたくなかった。
 お決まりのデートコースを一回りした後、慎也は祐子に渡すものがあると言った。そう言うと、鞄から綺麗に包装された何かを取り出した。
「何? これ」
「祐子の、誕生日プレゼント」
 祐子は先週、誕生日だった。そのことを慎也が忘れていたので、怒ったことがあった。でもそれは、誕生日を忘れたことを怒ったのだ。慎也はそれを、プレゼントがないせいだと勘違いしたらしい。少し不快になった。でも、態度には出さない。
「でも、私何もあげてないよ?」
 慎也の誕生日は四月だった。付き合う前に過ぎている。だから今年はプレゼントは要らないと、前に話したはずだった。忘れたのだろうか。
「いいから、受け取ってよ」
 慎也にすれば、純粋に何かを贈りたい心理だったに違いない。それに自分の部活の忙しさの引け目みたいなものもあったのだろう。ただ喜んで欲しい。極めて単純な駆け引きであったはずだ。
 でも、祐子はそうは受け取らなかった。モノを欲したわけではない。怒ったことに何の反省もなく、それに対してこの行為がただの機嫌取りだとすれば許せなかった。自分の言いたかったことが、全く伝わっていなかったことになる。時々思うことがあったが、祐子は慎也の無神経さが気になっていた。自分はこんなに慎也を想い、好かれようと今でもいつも必死なのに。私はこんなに慎也を見ているのに。慎也の気持ちや趣味を、もっと深く理解したいと思う。しかし、慎也の方はそんな私の気持ちを察しようとする努力が欠けている気がするのだ。もしかしたら慎也はそれほど私を好きではないのか。
「開けてみてよ」
 そんな心情をつゆも知らない慎也は笑顔だった。
 祐子は言われるままに包装をほどいた。中から現れたのは、小綺麗なオルゴールだった。祐子は素直に感動した。随分と可愛らしいもので、外蓋にもガラス玉がきらきらと散りばめられていて、かなり少女趣味なものだった。慎也が買うには、決断が要ったかもしれない。そして、不思議と強く興味を引くような魅力があった。私はそのオルゴールをすぐに気に入った。
「ありがとう」
 鬱憤が嘘のように晴れる。こんな時、私はこの人が好きなんだなあと思う。
 だが、次にとんでもない事実が知らされる。
「これ、どうしたの」
「さっき、買ってきたんだ」
 その言葉は聞いてはならなかった。
「さっき……」
 慎也は午前に買い物をした。だから待ち合わせは昼だったのだ。遅刻してもどこかうわついていたのもそのせいだ。瞬時に怒りがこみ上げる。こんなことで私が喜ぶと思ったのか!
「ねえ、慎也。私のこと好き?」
 さっき不安になったことを尋ねた。
「うん」
 慎也らしい癖で控えめでそう答える。だがこの時は、それが激しく不安にさせる。
「はっきり言って。本当に好き?」
「うん」
 好きだよ、と言葉には絶対してくれないのだ。はにかんだ曖昧な笑顔は、ただ照れているようにも見えなくもないが、はっきりしないその態度は、祐子の心をひどく沈鬱にさせた。
 祐子は苛立った。自分は慎也が好きだから、素直に何度もそう言ってきた。しかし、考えてみれば、慎也から好きだと口にしてくれことは一度たりともなかった。それが不安だった。実はずっと不安だった。そして、この期に及んでそれでも言ってくれはしないのだ。それはつまり、慎也は私を好きではないのだ。だから決して好きとは言えないのだ。
 正直に言うと、これまでだって不安を感じたことはあった。今までデートの誘いも慎也から言ったことは一度もなかった。優しいのは分かるけど慎也は誰にでもそうだったから、もっと特別扱いして欲しいのに。今だってそう。私は慌てて取り乱しそうなのに、慎也はいつも平然としている。
「バカ!」
 祐子は走って逃げ出した。全速力だ。本当はもっと言いたいことはあったのだが、涙があふれてきた。惨めな顔をさらしたくはなかった。視界はかすむが、構わずただ走った。
 悲しかった。祐子は泣き虫だった。ずっと自分でも弱い人間だと思ってた。最近は変わったと思ってたが全部、錯覚だったのだ。
 薄々は思ってた。付き合ってるはずなのに、あまり相手にされないのも、会いに行くのはいつも自分からだったのも、好きなのは自分だけだったからなのだ。目の前が真っ暗になる感じとは正にこういうことかもしれない。腕も力は抜け、体は熱くなっているのに内側はとても冷たく感じた。血液が凍っているような感じだった。
「祐子ー」
 声がした。追いかけてくれたんだ。慎也は叫ぶ時まで控えめな感じだった。おかしくなった。
 祐子が逃げ込んだのは、例の広大な空き地だった。
「待てよ」
 腕を引っ張られて、祐子は振り向いた。その顔を見て慎也は驚いたようだった。
「どうして、好きだって言ってくれないの!」
 悲鳴のようにわめいた。
「好きだよ」
「もう、遅いの」
 既に傷ついた心は癒えなかった。
「プレゼントだって今日選んだんでしょ。信じられない。そんな適当に選べるのが」
「ごめんよ」
 二人とも大声だった。初めて本気で向かい合った気がした。それが、別れになるのだから皮肉なものだ。
「謝ればいいって問題じゃないよ」
 その理由も考えずに謝るのも気に入らなかった。プレゼントだって選ぶとすれば、普通はあれこれ考えて、慎重に選ぶだろう。最初からデートの日に買おうという考えも、最低だ。所詮自分はその程度の存在なのだ。それも仕方ない。誕生日も覚えてもらってない。 これでは付き合っていたかどうかも疑わしくなってくる。
「俺の何が悪いんだよ」
 慎也は言い直った。本音なのだろう。こんなに考えがすれ違っていたのでは、もう付き合えない。我ながら思考が稚拙だったが、この時の私は本当に傷ついていた。
「慎也ぁ、別れよう」
 いつの間にか、また涙があふれていた。言葉を発しながらも、何故自分はこんなことを言えるのか分からなかった。
「うん」
 その瞬間、もう視界はゼロだった。祐子はオルゴールを乱暴に箱にしまうと慎也に投げ返した。慎也にぶつかって、地面に落ちる音がした。その時、慎也がどんな顔をしたかは知らない。悲しんでいたのか。私を憎んだか。どちらでも構わなかったが、そんな慎也を最後まで見なかったことは幸いだった。
「祐子はもう俺のこと好きじゃないのか」
 慎也はまだ納得できていないのだろう。当然かもしれないが、これは仕方ない。
「好きよ」
 力なく答えた。好きだけど、もう付き合えない。そんな意味がこもっている。
「俺も」
 どうやら伝わったようだ。こんなに好きな男と、簡単に別れられる自分が不思議だった。でも、もう理想の人ではないのだ。別れの理由はそれだけで十分だった。
 祐子はまた逃げ出した。慎也はもう、追いかけては来なかった。
 破局は一瞬のことだった。

 正直、それから後悔したことはある。ただあのままの二人だったら、どうしても幸せなまま関係が続いたとは考えられない。しばらくは慎也を好きだったのは確かだ。でも、無理矢理気持ちを切り替えた。私は自分勝手な女だと思う。私はいつまでも同じところに留まれない女なのだ。慎也はその意味で逆だと思う。付き合ってから私は変わった。慎也はそれほどでもなかった。このままでいたいなんて思っても、最初から私には無理な相談だったのかもしれない。
 それから二人は、残り少ない中学生活を他人のようにして過ごした。多少慎也には釈然としてない態度が見受けられたが、受験がすぐ始まったので、お互いそのまま卒業式を迎えてしまった。朝子にはごく簡単にいきさつを説明したきりなので、最後まで状況を飲み込めずにいたようだ。その朝子は慎也と同じ高校に進学した。それで、慎也も無事に合格したことは朝子から聞いた。そのことについては、何の感慨も感じなかった。

 祐子は何故今になって自分がここにいるのか、不思議に思った。
 空き地は相変わらず雑草が茂り、ごみが散らかっている。こんなに何もない場所がマンションになるなんて少し寂しい気がする。そうか。こんな自分でも思い出は大切なんだ。祐子は自嘲じみた笑みを浮かべた。
 丈の低い木の下に、ぼろぼろになった見覚えのある箱を見つけた。あの時、地面に落ちたままだ。実はあの後、慎也がオルゴールを拾ったのか確認しに、一度ここに来たことがあった。その時も同じようにここに落ちていた。それを祐子は、慎也も別れを享受したのだと受け取った。別に根拠はないのだが、ここで朽ちていくであろうそのオルゴールは、二人の未来そのものを暗示しているように思えたからだ。その時はそのまま立ち去った。あるいは、気が迷うのを怖れたのかもしれない。
 それを探して今また来たのだ。箱を拾うと、脆くなった紙の箱は、簡単に崩れた。中のオルゴールは丁寧にビニールに包まれていた。そのため、驚くほど綺麗なままだった。あの時、無意識にそこまで丁寧に扱ったのか。セロハンテープまでしっかり留めてある。テープを剥がしてオルゴールを取り出すと、蓋を開けた。ねじは巻いていないので音は鳴らず、沈黙のままだ。開けたら、ふっと懐かしくなった。
 しばらくそのまま感傷に浸った。秋の風は冷たくて、手はかじかんでいたが、気にならなかった。あの時も、こんな季節だったのだから。
 呆然と眺めてる内に、オルゴールの中の一角が小さな小物入れになってることに気づいた。細かい取っ手がついている。祐子はオルゴールを持ち替えて、爪の先で取っ手を引っ張った。予想通り、それは開いた。
「あ」
 思わず声がもれた。中には銀色の指輪が入っていた。飾り気のないシンプルな指輪。細かい模様も精緻に細工されているが、あまり目立たない感じに仕上がっている。しかし美しかった。これは慎也からの、もう一つの贈り物だったに違いない。祐子は指輪を取り出して、蓋を閉めた。そっと薬指にはめてみると、ピタリと指にはまっていく。
 祐子は涙を流した。最初からこれは入っていたものなのだろうか。だからあの時の慎也は、自信や余裕のようなものがあったのか。だとしたら、私は慎也の愛情を理解することもできずに、裏切っていたことになる。しかし、あの時確かに包装は新品そのものだったし、その前に入れてたとは考えにくいのではないか。だったら、その後で入れたのか。わざわざ、投げ返されて捨てられたプレゼントの中に。一方的に振って消えた、愚かな女のために。そんなこと、普通なら絶対考えられない。だが、その方が慎也らしい。こんな、誰にも分からないような無駄な優しさを持つ男なのだ。そう言えば、やはりこの丁寧に包んでいた透明なビニールも、慎也の仕業だ。祐子は咄嗟に繊細になれる女ではないと自覚している。ということは、慎也も再びこの空き地に来たのだ。祐子自身がそうしたように。
 すると、疑問が一つ残る。慎也は何故祐子の指のサイズまで知り得たのか。付き合った時は、そんな話をしたことはなかったと思う。例え言っていても、あの慎也がいちいち記憶に留めるだろうか。いや、やはり言っていない。当時は祐子自身知らなかった。
 ならば、偶然なのか。祐子は自分の薬指にはめた指輪を見ながら考えた。だけど、いくら考えてもそれだけは謎のままだった。
 祐子はこのまま指輪を持って帰っていいものか考えた。オルゴールは初めから持って帰るつもりだったが、指輪は違う。贈り物の中でも、少し特別な意味合いを持つだろう。恋人の証のようなものだ。特に、祐子はアクセサリーはあまりつけないので強くそう感じる。
 今となっては慎也を許してるし、何の怒りもない。それは愛も消えたから当然だが、大切な人だという感覚だけは漠然と残っていた。少し、複雑な心持ちになった。
 私は、過去と決別するために、ここに来たのだから。
 祐子は指輪をはずした。

 楢橋慎也は緑公園にいた。広い公園で人気もない。はずれの地域なせいか、舗道しか整備のない公園だ。たまに、散歩やジョギングなんかで人が通り過ぎるだけで、秋の寂しさも手伝いいっそう閑散としている。今は、二人の高校生の姿があるのみだった。
「それは、愛憎と言うのよ。彼女は誰よりあなたを愛することができた。そのバランスが何かの拍子でひっくり返ると、深い憎しみにもなれるの」
 一緒にいるのは杉本あやみだった。慎也はベンチに浅く腰掛け、あやみは正面に立って向かい合う格好だった。
 慎也は少し考えた。
「俺が、足りなかったのかな」
 思い出しながらそう問いかける。
「いいえ、バランスはとても繊細なもの。あなたに非はないわ」
「だけど、反省することはたくさんあるんだ」
「その時のあなたはそれが精一杯だったはずよ」
 木枯らしがひゅーっと足下を駆け抜けていく。慎也は寒そうに背を丸めたが、あやみは微動だにしない。
「そうかもな。もう過去だということか」
 納得した。今ならしないミスでも、二年前なら仕方なかった。中学生の自分には限界があった。それは祐子も同じだろう。今では二人出逢っても、昔とは別人同士なのだ。それが、過去だという意味だ。
 沈黙が続いた。慎也は、あやみが一切の無駄な質問を嫌うのを知っているから何も聞かないことにした。全てを決めるのも自分自身だし、それは当然だ。だが、あやみの正体については計りかねている。あやみがこうして現れるのは、身の回りの変動の予感を感じさせる。こうしていながらもそのことを不審に思うのだが、口にはしない。
「俺、もう行くよ」
 慎也は立ち上がった。そして、一人駐輪場へ歩いた。
「空き地にはもう誰もいないのに」
 あやみは小さな声で慎也の背中に呟いた。慎也にはそれが聞こえたが、そのまま聞こえない振りした。そして、あやみも、そのまま押し黙った。

 慎也は空き地にやってきた。大きな看板があり、立派なマンションの建設予定図が描かれている。慎也も、ここに来るのはかなり久しかった。
 迷わず例の場所を探す。大体の場所は分かるのだが、目印のようなものはない上に、辺りは既に暗くなっていた。二十分も歩いてようやくその場所を探し当てた。だが、そこにあるべきものはなくなっていた。よく探すと、ぼろぼろになった紙切れが落ちている。これが、例の外箱だとは想像に難くない。裏付けるように側のすすきに、ビニールが引っかかっている。それが他のごみとは違って新しいから、より確かに思える。ということは、何者かが少し前にあのオルゴールを持ち去ったのだ。
 間違いない。祐子だ。根拠はないが、確信した。他の誰かが見つけた可能性もあるはずなのだが、慎也はそう思った。だが、それがほんの数十分前のニアミスだとは知る由もない。
 慎也は突然地面を丁寧に調べ始めた。指輪の行方だ。もし、本当にオルゴールを拾ったのが祐子で、あの指輪に気づいたとしたら、その場でそれを捨てたかもしれない。
 だが、いくら探しても見つからなかった。そのうち、完全に陽が沈んでしまったので、辺りは完全に真っ暗になった。慎也は諦めて帰ることにした。

 その日の夜、祐子はオルゴールを机の奥へしまうと、別の男のことを考えていた。今、同じクラスの園田翔のことだった。実は少し前に告白されたばかりだった。祐子は突然の出来事に戸惑った。翔は、返事は後でいいからゆっくり考えてくれと言う。翔は目立つ方でもなく、部活もやってない。別にハンサムでもない。たまたま席が近かったから、何となく仲良くなっていった。突然の告白は予想外のことだった。祐子は、翔に対して好意に似た感情はあるが、決してそれ以上ではない。
 だが、祐子は迷っていた。翔はいい人だ。おおらかだし、気を遣うことなくいつも自然でいられる。みんながしてるような、普通の恋人の付き合いには申し分なく思えた。
 きっと、慎也とは違う毎日になる。過剰に愛することもなく、振り回さず振り回されず、ちょうどいい距離で。前々から思っていたが、次に恋をするなら、絶対慎也とは違うタイプが良かった。でなければ、自分は比べてしまうだろうし、また上手くいかない。それに、あそこまでひたむきにはなれないだろうから、どうせなら全く違う恋をしよう。そう考えていた。ここらで、慎也を完全に過去にする必要があった。翔のことはそのきっかけだと考えた。そのために、さっきあの場所へ出かけたのだ。祐子の中であの空き地は、未完結の思い出だった。
 だが、意外に祐子の心は完結を下さなかった。古い思い出に成り下がったはずのオルゴールが、あまりに綺麗なままだったからだ。もしそれが見つからなかったら、それで良かった。過ぎ去った過去として、終わっていただろうから。それがぼろぼろの状態で見つかっても同じだったろう。これだけの時間が過ぎてしまったのだと納得できる。
 でも違った。慎也はオルゴールの状態を、つまりは自分の想いをも、保存しようとしたのだ。結果、それは見事だった。無論今の慎也の気持ちなど分からないし、慎也にとっても既に過去のことだと思う。だが、素敵ではないか。あの贈り物には慎也の愛が詰まっているのだろう。だからあんなに綺麗なままなのだ。そうでも考えなければ、あんな包装で持ちこたえるなんて納得がいかない。二年前、自分が疑った愛が証明されたようなものだ。それが、今更だということが、祐子にとってこの上ない皮肉に感じられるのだが。
 そして、問題はやはり指輪だ。この意味だけは、ロマンチストな祐子にも考えが及ばない。
「はあ」
 祐子はため息をついた。時計を見ると零時を回っていた。考えるのに疲れた。続きは明日にしよう。明日も翔に返事を出せそうにない。すっきりしない霧がかったような感情が、祐子の中でいつまでも晴れなかった。
 ベッドに潜ると、そのまま深い眠りに落ちた。

 祐子は次の日は朝から憂鬱だった。相変わらず、翔からは何も言わない。ただ、祐子の決断を待っているようだった。それが祐子には落ち着かない。祐子は物事を溜め込まないタイプなので、一度に二つのことを同時に考えるのがひどく苦手だ。翔のことは一度断ってしまった方がいいかもしれない。すぐには答えを出せそうにもないからだ。
 休み時間になると、友達の朝岡沙由理が話しかけてきた。
「どうしたの?」
 持ち前のきょとんとした顔で、沈んでいる祐子をのぞき込むようにしている。
「元気ないね。例のこと?」
「うん、まあね」
 沙由理は高校に入ってできた友達で、今は一番仲がいい。翔のことは相談したのだが、慎也のことは何も言ってない。言うかどうか迷っていた。
「まだ、答え出ないの?」
「うん、考えてはいるんだけどね」
「ふーん」
 こんな風に何か異変があれば、すぐに心配してくれる。だが、言うほど敏感ではない。恋愛に疎いと言うか、アドバイスは何もくれない。
「元気出してね」
「ありがとう」
 こんな感じだ。励ましてくれるが、解決のヒントも与えてくれない。とてもありがたいのだが、今の祐子にはもどかしかった。
 こんな時、前は朝子に相談したものだ。朝子はせっかちなのですぐ決断を迫る。ちょうど沙由理と逆のタイプだと気づくと、少しおかしかった。そう言えば朝子は慎也と同じ高校だった。それとなく相談してみようか。朝子は、こういうことにひどく興味を示し、協力的だ。慎也の噂を集めてもらう程度でいい。慎也に新しい彼女がいるなら、朝子ならすぐ嗅ぎつけているだろう。そういった話が一つでもあれば、慎也のことはもう忘れよう。
 そう決めると少し気が楽になった。祐子には忘れるためのきっかけが必要だった。

 夜に朝子に電話をした。朝子が前に電話をくれたこともあったので、久しぶりというほどでもなかったが、最近は、あまり会ってないのでやや疎遠気味だった。しかし、お互いに気さくな性格だから実際の時間ほどの空白は感じられない。
 しばらく近況報告をし合った後、話を切り出した。
「あのさ、楢橋慎也って覚えてる?」
「そりゃ、覚えてるよー。あんたの元カレでしょ。どうしたの」
 元カレという言葉に、小さく傷ついた。
「まあ……別に。どうしてるのかなあって思っただけ」
「どうったって、私は知らないわよ。相変わらず目立たないよ、あいつ。野球もやめちゃったし、もう、クラスも離れてるんだから」
「そうだよね」
 一切を打ち明けるべきか悩んだ。朝子なら事情の理解も早いだろうし。でもそうなれば、空き地での出来事も話さなければならなくなるかもしれない。それは何となく嫌だった。大切な思い出だし、幼かった自分の行動まで言いたくはなかった。
「もしもし、祐子?」
「あ、何?」
「楢橋のことを聞きたかったわけ?」
 朝子の好奇心は当てずっぽうなのだが、よく冴えてる。
「んー、そうでもないけど、ついでに聞いてみただけ」
 嘘をついた。本当はさっきまでの話の方がついでだったのだ。
「そう? まあそうよね。もう昔のことなんだし」
「分かった。もうこの話はいいよ」
 その後は、適当なところで電話を切った。

 次の朝はとても冷え込んだ。冬も近いということなのだろう。
「最近寒いな」
「ああ」
 会話しているのは清人と慎也だった。この二人はよく早い時間から登校しては、こうやって廊下でおしゃべりをしている。
「こんな寒いと、何か面白いことが起こりそうなんだよな」
「なんだ、そりゃ」
「だって空気がぴりぴりしているような気がするだろ?」
「わかんねーよ」
 相変わらず、清人はよく分からないことを言う。でもその嗅覚は大したものだから、侮れないのである。
「慎也は最近何かないのか」
「知ってるだろ。何もないよ」
 慎也はめんどくさそうに答えた。
「そうか。だよなあ」
「おっと、そろそろチャイム鳴るぜ」
「じゃあな」
 清人は自分の教室へと走り出した。
 慎也も何となく空気がそわそわしているような気がしていた。清人と同様の何かを感じているのかもしれない。
 一時間目は自習だった。急な職員会議が長引いているらしいが、そんなことはどうでもよかった。ふと祐子のことを考えた。有名な進学校に進んだことは聞いていたが、それ以上のことは何も知らない。知ろうとも思わない。どうあっても、二人がこうなるのは必然だったと思う。昔は燃えた祐子への想いも、今はただこうやってたまに思い出すに留まっていた。
 そう言えば、祐子とのことを清人はよく知っていた。何も言わなかったはずなのに。ああ、そうか。朝子とかいう祐子の友達がいて、よく情報を交換していたのだ。確か同じ高校だった。もしかしたら、今も清人と同じ教室ではなかったか。

 放課後、清人の様子が違っていた。ひどく無口だ。考え込んでるようにも見える。
「どうしたんだよ」
「待って、考えてる」
「はあ? 何を」
「ちょっと」
「だから、それは何を?」
「……」
 こんな具合だ。でもほっといて帰ろうとすると、きちんとついてくる。様子からして、自分のことについて何か聞いてきたのかもしれないと思った。だが、何も言わないのであれば用もない。慎也は無理に聞くこともしない。いずれにせよ、今日は会話になりそうもないのでこのまま帰ろうと思った。
 慎也は自転車に乗ると、清人を待たずに走り出した。後れて清人がついてきているのは分かっていたが、会話はなかった。
 結局、清人は家までついてきた。まだ怪訝そうな顔をしている。
「考えがまとまらないのか?」
「いや、話すよ。聞いてくれ」
 どうやらまとまっていないようだ。
「じゃ、部屋に寄ってけよ」
「うん」
 清人を部屋に通すと、早速口を開いた。
「本当はお前に話しちゃいけないんだけどなぁ」
 そう前置きしてから続けた。
「あいつが悪いんだ。半端なこと言いやがるから」
「待てよ。それは一体何の話だ」
 清人は少し興奮しているようだ。
「お前の話だよ。だけど、それがどうもよく分からない。何て言うか上手く説明できないけどな。とにかく俺にはよく分からない。大した話じゃないんだ。でもどこか引っかかるんだ」
「落ち着け。順番に最初から言ってくれたらいい」
「ああ、そうだな。お前のことを聞かれたんだ。それが最初だ。最近どんな調子なのか、変わったことがないか、とか。当然、心当たりは何もない。」
「俺もないよ」
「そうだろ。あったら隠してても見破る自信くらいあるしな。というより……」
 突然言葉が止まった。どうやら言うべきか否か思考しているようだ。すっと目が合うと観念したように話を続けた。
「分かった。言うよ。ここからは俺の推測なんだがな、さっきの質問はお前に女ができたかを探りたかったんだと思う。そいつの性格からしてそうに違いない。だが、すると何故そんなことを聞くのかどうしても説明がつかない。そこがさっきから考えているんだが分からないんだ。だって、話に根拠がないだろ?」
 慎也はあきれた。要するに清人は少し意味深に聞かれたことに、ここまで大袈裟に疑問を持てるのだ。しかも失礼な邪推だ。
「そんなこと、誰に聞かれたのさ」
「ああ、同じクラスの山田朝子」
 瞬間、慎也の内側に戦慄が走った。心当たりはある。
 慎也が僅かに動揺したことを清人は見逃したようだ。
「俺そろそろ帰るわ」
 清人は自分が無口なのが自分で落ち着かないらしく、そそくさと帰ってしまった。
 その後で慎也は考えた。清人の推理の続きをである。朝子のことはもちろん慎也も知っている。祐子の親友だったからだ。清人はそうでもなかったようだが、慎也は朝子と親しく話したことは一度もない。慎也と朝子は直接の接点はないに等しかったが、朝子自身は恋愛に疎い存在なのはよく分かる。清人が他人の恋愛にしか興味ないのと同種だろう。つまり、朝子が慎也に興味を持つはずもないから、質問の意味の裏に第三者の存在があることは疑いようがない。ここまでは九分九厘間違いはないと思う。しかし、清人にはその第三者が何者なのか分からなかった。あの様子からして調べ尽くしても見つからなかったのだろう。
(その第三者は上村祐子ではないか)
 これは慎也の直感でしかない。だが、それなら説明がつく。他に全く心当たりがないし、大体そういうのは清人の方が先に気づいてしまうから、他校とか清人の情報が及ばない範囲の話とする方が自然だ。つまり、他校で自分と関係する恋愛の話があったのだ。他校の女子に全く接点はないのだから、祐子しか思いつかない。
 それに、なくなったオルゴールのことだ。何より、それがずっと気になっていた。やはり祐子が拾ったのだ。おそらくそのまま持ち帰ったのだろう。そして指輪に気づいた。その後、朝子に電話した。動揺していたに違いない。だが、一切を打ち明けはしなかった。だから、朝子や清人はその方面の嗅覚が鋭いから何かを嗅ぎ取るまではできたが、それ以上は知りようもなかった。

 だが、全ては推測に過ぎない。確かな根拠もない。しかもそれを確認する方法は思い浮かばない。
(でもまさかな。今更そんなはずもないよな)
 あの祐子が、あの頃のままのはずがない。慎也は考えを打ち消した。

 数日して、ついに翔がしびれを切らした。
「なあ、上村。そろそろ返事を聞かせてくれないか」
「あ、ごめん。悪いと思ってるんだけど、まだ迷ってて」
「俺とは付き合えないの?」
「そうじゃなくて」
 祐子は自分でも煮え切らない自分は少し嫌だった。
「じゃあ、こうしようぜ。試しに少しの間付き合うんだ。それで駄目だと思ったらその時振ってくれよ」
「分かった」
 翔には悪いが、結論はもう少し答えを先延ばししたかったところだ。それなら気分転換にもなるし、祐子にとって悪くない提案だった。
「やった。マジで? じゃ、今度の日曜とか遊びに行こうか」
「うん」
 それから私と翔の擬似恋人関係が始まった。それはつまらないものだと思っていた。実際、初めは違和感があったのは確かだ。
 でも意外につまらなくはなかった。翔は神経質ではないが無神経さは感じさせなかった。大雑把な人物だと思っていただけに、余計に好印象に変わっていった。意外に、細かい気配りなんかができる男だったのだ。それは、よく祐子を理解していることの証明でもあった。それがとても嬉しかった。祐子も時間が経つにつれ、この関係を受け入れていられるようになった。翔は主張もはっきりしていて快活だし話もよく聞いてくれる。祐子が戸惑わないように、やや不器用ではあったがよくリードしてくれた。最初は伏し目がちな祐子だったが、いつの間にか自分がよく笑うことができてることに気づくのだ。
 だが、翔はいつまで経っても祐子に「俺とちゃんと付き合ってくれ」とは言わない。デートの度にそのセリフを覚悟するのだが言わないのだ。待ってるのかもしれないし、時期尚早だと思ってるのかもしれない。祐子はまだ言われた時の答えは用意していない。ただ、雰囲気によってはそのまま流されてしまうかもしれない。それならそれでいいと、最近は思えるようになってきた。
 このままでも悪くない。むしろ、今の自分が気負わず自然でいられているのではないか。何も気を遣わず、空回りすることなく、素直になれる。翔は思ったよりずっといい男だった。無感動で少し無骨だが、それがちょうど良かった。自身、本当に落ち着いてこうしていることが不思議だった。時間の経過と共に、最初に感じた違和感は薄れていった。
 何度目かのデートで、初めて手を繋いで歩いた。慎也ともしたことはないことだ。友達に見られたらどうしようかと思ったが、それも今更のことなので平気だった。そう思えるほどに、いつの間にかなっていたのだ。気持ちは翔に傾き始めていた。
 ある時、アクセサリーショップでのことである。
「指輪買ってあげようか」
「え?」
 一瞬空気が浮くほど、不意の言葉だった。翔は祐子の表情を窺っている。
「あ、どうしようかな」
「祐子はこういうの欲しくないの?」
「買ったことがないだけよ」
 だけど貰ったことはある。もっと正確には「拾った」だったが。このことはまだ誰にも言っていないことだ。翔にも言うまい。
「じゃあ、少し見てみるか? 遠慮しなくていいからさ」
「うん」
 言われて、祐子はガラスケースの中に陳列されているアクセサリーをのぞき込んだ。小さな宝石しか付いていなくても、驚くほど高価だった。
「これ、高いよ? こんな凄いの、貰えないよ」
「そうか? おもちゃじゃないんだからこんなものじゃないか? 俺バイトで貯めた金使わないからさ、ちょっとくらい平気だよ」
 確かに、安いメッキの物はすぐに駄目になってしまうらしい。友達が色が剥げたネックレスが使えなくなったと嘆いていたことがあった。
「ま、興味がないならいいよ」
「うん……」

 清人は悩んでいた。といっても自身とは全くの無関係のことであるが。
 あれから、慎也を気にしたのは上村祐子だと言うことは分かった。その理由は分からない。二人が付き合っていたのは知っているが、随分前に別れて以来何の接触もなかったはずだ。どう考えても自然な流れではない。しかも、最新情報によると祐子には新しい恋人もいるようだ。その相手も調べたが慎也と接点はなさそうだ。慎也が関係ない話になるなら、これ以上は興味のない話だ。
 あとは本人に確認してみることにした。関係あればリアクションで分かるはずだ。
「慎也、最近上村祐子と連絡取った?」
「はあ? 何でだよ。まさか」
 慎也は驚いた。
「説明するとややこしいんだけど。まあ関係ないならいいや」
「関係ないって?」
「いや、別に」
 清人は苦笑した。ごまかしが利かなくなった時の顔だ。
「上村が俺のクラスの山田朝子に、大した用事なく電話してきて慎也のことを聞いたらしいんだ。俺はてっきり面白いネタになると踏んでたが、はずしたようだ」
 相変わらず清人の説明はどこかずれている。面白いネタの意味が分からない。
「あとな、最新情報なんだけど、上村祐子には彼氏がいるようだ」
「え? マジか」
「目撃者がいるから多分間違いない」
 毎度、よく目撃者が見つかるものだ。得意気な清人に対して、慎也の方は浮かない様子だ。
「そうか。あいつも……。いや、まあ二年も経ったしな」
「意外か?」
 清人は慎也の様子を窺った。慎也は動揺はしている。
「ん、少しは意外かな。」
 実際、慎也にはショッキングだったが冷静だった。こうなることも何となく予想できないことではなかったし、それに過去と違ってもう、祐子を好きなわけではない。
 清人はその思いを知ってか知らずか、それ以上は何も言わなかった。

 昼休み、慎也は図書室に来た。そして、一番奥の一角へと歩み寄った。ぽつんと少女が一人読書をしていた。
「迷ってるのね」
 先に話しかけたのはあやみだった。何やら分厚い本を開いている。
「ああ」
 慎也は曖昧にそう答えた。何を迷ってるのは慎也自身よく分からないが、心の中は憂鬱な雲が晴れなかった。それを「迷い」と表現できるだろう。
「あなたはどう感じたの?」
「俺はただ、真実が知りたい。清人は、多分、正確に伝えてないから」
 先の清人との会話のことだ。
「そう、じゃ今回は助けてあげる。明後日、土曜日よ。午後一時に駅前の福楼デパート三階。必ず行きなさい」
 そう言うと本を閉じ、立ち上がろうとした。
「待て、何故君は俺が何も言わなくても全て知っている?」
 慎也は数々の疑問の中からその問いを選んだ。
「答える必要はないわ」

 その指定の日に、祐子は翔と会っていた。今日は買い物をして昼食して遊ぶ約束だったのだ。
 慎也は福楼デパートに先回りしていた。そして一つずつ、祐子との思い出を顧みていた。古い記憶。贈った二つのプレゼント。一つは祐子が目の前で投げ捨て、もう一つはずっと後で自分で捨てた。
 銀色の指輪。渡すことも、捨てることもできなかったあの指輪。中学を卒業した時、ここで何もせずに別れたらそれは永久の別れとなる、そう感じてそれは嫌だと思った。高まった感傷が未練を激しく呼び覚まして急に焦燥した。そんな時、たまたま通りかかったデパートのアクセサリーショップで、並べられた指輪を見つけた。まだ中学生だったけれど、付き合った恋人達が指輪を贈ったりするのは、ちらほら周りから聞こえてくることで、一種の遠い憧れでもあった。
 その中で慎也が見つけたのは、飾り気のない一番シンプルなものだった。控えめな装飾の中にも細かい模様が描かれている謙虚さが気に入った。これを持って祐子と仲直りしに行こう。そう思って後はよく見もせずに買った。
 しかし、なんと愚かなことをしたことか。学校を卒業してから祐子に会う機会などないのだし、それをつくる度胸も口実もなかった。それに、いきなりこんな贈り物をするのも我ながら気障が過ぎないかと思う。しかも、指にもサイズがあるということを、後になって知ったのだ。今頃返品も買い直すこともためらわれるし、もう贈るしかないのだ。冷静になればなるほど消沈し、そして時間は流れていくのだから、慎也はついに機会を失った。
 落ち着いた慎也が迷った挙げ句に最後に出した結論は、祐子を諦めることと、指輪は捨てることだった。しかし、なかなか簡単には割り切れるものではなかった。どうしても捨てる決意がつかない。その時思い出したのは、捨てられたオルゴールだった。あの中に隠そうと思った。探しに行くと果たしてそれは見つかった。もう四ヶ月も経っているのに、意外に思ったほど汚れてはなかった。慎也はオルゴールの中に指輪を隠すと、丁寧に包装し直してまたそこに捨てた。
 あの日、もっと続くかと思われていた二人の時間は止まってしまった。だけど、祐子がもう一度ねじを巻きに戻ってくるなら、あるいはそのオルゴールはまた音を鳴らすかもしれない。希望と呼ぶにはやや極微かもしれないが、諦念するにはまだ早いだろう。現にチャンスは今これから訪れるのだ。
 時間を確認すると、午後十二時五十三分。
 祐子と翔はデパートへ入っていた。一階のフロアを見て回っていた。まだ慎也とは会っていない。慎也は三階にいるのだから。今は五十七分。二人はエレベーターに乗り、三階まで来た。そこで降りると祐子は翔の手を引っ張って歩き出す。欲しいものは決めてあったので一直線だった。
 慎也の時計が一時を刻んだ。そして、その瞬間、慎也が周辺視野の端に祐子を捉えた。視点を合わせると男と歩いていることが見てとれた。何かに打ち付けられたように鼓動が荒くなる。慎也の全ての感覚が緊張した。
 そして、ほんの少し遅れて祐子も慎也に気づいた。力が抜け、無意識に繋いだ手が離れた。そして、一瞬前まで喜びに満ちていた表情が色を失った。
 まだ、二人の距離は十メートル近くも離れていた。雑然としたこの空間で、一瞬の内でお互いに認識し合ったのが不思議なほどだ。だが、はっきりと認識している。二年ぶりの再会だった。今この瞬間は、二人だけの時間と世界が支配していた。戸惑ったことにもまだ自覚できないほど、無心に見つめ合っていた。祐子は直視できずに反らそうとするのだが、それでもまた視線は戻ってくるのだ。まだ、隣にいる翔は何も気づいていない。
 慎也はいつの間にか手に汗をかいていた。頭も熱くなっている。祐子は細かく目を反らしながらも、そのままこちらに向かって歩いてくる。やがて、二人ははっきりとお互いを捉えるだけの距離に近づく。その時間の流れの、なんと緩やかなことだろう。まだ翔は異変に気づいていない。間に人の流れがあるので、何度も視界が遮られたが、何度も視線は交じり合うのだった。意図せず、ただ自然に惹かれ合うように。
 そして、二人はすぐ目の前まで近づいて、そのまま通り過ぎていった。
「待て」
 その言葉を聞く前に祐子は振り返っていた。
 つられて翔も振り返り、ようやく慎也の姿を認めた。
「慎也」
 祐子は確認するようにそう呟いた。過去に何度も呼んだ、今じゃ呼ばなくなった言葉。
「友達?」
 気のいい翔はまさか祐子の元カレだと知る由もない。中学時代に祐子に彼氏がいたことすら夢にも思っていないのだ。
「うん」
「彼氏できたって本当だったんだな」
「いや、俺はそんなじゃないよ」
 否定しながらまんざらでもない様子は明瞭だ。気持ち的にも余裕が見てとれる。一朝一夕の関係ではないことを匂わせていた。慎也はその態度に少しだけ嫉妬した。もちろんそれを態度には出さないが。
「祐子、友達と話あるなら俺時間潰してよっか」
「いいの?」
「いいよ。上の本屋にでもいるし」
 なるほど、翔は見た目よりずっといい男だ。こうして、いつも祐子の気持ちを優先しているのだろう。明朗でさわやかだし、気が利きそうだ。しかし、この決断は翔にとっては痛恨のミスになるに違いない。
 翔がいなくなると二人だけが取り残された。
「久しぶりだな」
 一人になった祐子に対しての第一声はそれだった。懐かしさと、変わってしまったことへの皮肉の意味もこもっていた。
「どうしてここにいるの」
「買い物だよ」
 そう答えたが少し言い訳には難い。このフロアはレディースだ。慎也が一人でいるにはいささか疑問だ。かといってあやみのことを説明する気はない。
「少し場所を変えようか。落ち着いて話がしたい」
 二人はフロアの端の非常口の前まで来た。若干だが喧騒がおだやかに感じられる。
「慎也は変わったんだね」
 前よりも落ち着いた慎也を見てそう感じたのだろう。実際は大して変わってない。むしろ、ほとんど昔のままで、二年を自分を変えないことへ費やしてきていた。
「同じじゃいられないさ」
 これは今の二人の関係を暗喩している。
「じゃあ、やっぱ昔と違うんだ」
「祐子だってそうだろ」
「そう思うなら呼び捨てにしないで!」
 相変わらず短気な女だ。
「怒るなよ」
 そう、自分が怒る立場などではないことを祐子自身よく自覚はしている。ただ、慎也相手だとつい感情的になってしまうのは昔のままだった。
「私は変わってないよ」
 慎也にはそうは映らなかったが、主張したいことはよく分かる。
「あれ、新しい彼氏?」
「園田君は別に付き合ってるわけじゃないもん」
 少し卑怯な言い分だった。実質は付き合っているようなものだ。
「どうして付き合わないんだ」
 祐子は慎也に全て見抜かれたような気がして落ち着かなかった。慎也は冷静だ。最も、その落ち着きは会うことを予期したか否かだけのアドヴァンテージなのだが。
「それは……」
 途端に言葉に詰まる。
「じゃあ、慎也は彼女いないの」
「いないよ」
「仲のいい女の子とかいるでしょ」
 言われて慎也の脳裏に一瞬あやみが浮かんだが、すぐ消えた。
「いないな」
「どうして」
 ここで互いが同じやりとりを投げかけていることに慎也が気づいた。
「祐子は感情的になりすぎる。二年前もそうだ。あの時何故振られたのか考えてみたが分からない。俺にも反省はあるが、あの時点では別れるべきじゃなかったはずだ」
 祐子の表情は険しい。今度は呼び捨てにされたからではない。
「何が言いたいの」
「まだ、決着ついてないだろ俺ら」
「どうして。別れたんだよ、あの時」
 さっきまで、翔といたことが祐子にとって罪悪感となりあまり慎也と親しげに話すことが憚られた。本当は祐子も慎也と話したいことはあったはずだ。そして、今少しだけ慎也に惹かれていることにも戸惑っていた。
「あの後……オルゴール拾ったろ?」
「えっ」
 どうして知っているのだろうか。祐子は確かに最近拾った。本当に最近のことだ。だから慎也はその後にあの場所を確認したことになる。つまり、プレゼントを受け取ってもらえないことを最近まで気にしていたことになるのだ。
「なあ、あれ拾ったの祐子だろ」
「どうして知ってるの?」
「知ってるわけじゃない。なくなっていたから、そう思っただけだ」
「じゃあ、あれはやっぱり……」
 あれとは、もちろん指輪のことだ。祐子はそれについてずっと考え朝子にも電話し、なお解せない疑問だった。慎也もそうだ。その指輪がどうなったのか、ひどく気になっていた。いわば、この二人の核心の部分である。
「指輪は俺が入れた。あの後でだ。卒業してすぐだったかな」
「何で?」
「それより、それ、拾ってからどうした? まだ持ってるのか」
「あ」
 祐子は慎也の後ろの方に、翔の姿を見つけた。話し込んでしまった二人が気になって、探しに来たのかもしれない。
「こんなところにいたのか」
「ごめん、園田君。探した?」
「それはいいけど……」
 翔は慎也の方をちらっと見やった。
「一体何を話してたの?」
「昔話だよ。長く話すつもりはなかった」
「そうか、それならいいんだ。もう、話は済んだのかな」
 割り込んでおいてよく言う、と思ったが慎也はかろうじて飲み込んだ。祐子は静かにうろたえている。
「別に。まあ、きりがない話だったからな。邪魔したな」
 これ以上祐子と二人きりで話すことは不可能だと、慎也は判断した。言い捨てるとそのまま、どこかへ行ってしまった。
 祐子は咄嗟に慎也を引き止めようと思ったが、その隙もなかった。
「まだ、話の途中だったんだよ」
 完全に慎也が見えなくなってから、そう投げかけた。翔は話の内容を知りたがったが、最後まで祐子は何も言わなかった。今日はもう、買い物をする気にもなれなかった。ただ、アクセサリーショップで中学生の慎也が指輪を選んでいる姿を想像すると、たまらなく滑稽に思えて笑みがこぼれた。

 慎也は帰り道、遠回りをして帰った。途中で町のはずれの緑公園に寄り道をしたかったのだ。
 相変わらず昼間なのに鬱蒼として人が少ない。だが、そこに一人、あやみが待っていた。白いベンチに腰掛け、本を読んでいる。慎也の気配に振り向き、姿を確認すると、一言で問いかけた。
「どうだったの?」
「見りゃ分かるだろ。どうもこうもないさ」
 慎也はうなだれていた。でも少し考え、付け足した。
「まだ、半分しか話、してない」
「悔やんでいるの?」
 今度も考え込んだ。考えながらベンチに座った。あやみのすぐ隣に座った。
「さあ……。全部話してもきっと、手応えないだろうなあ」
「そう。残念だったわね」
 あやみは読みかけの厚い本を閉じ、鞄にしまった。
「今日は何も言ってくれないの?」
 慎也はまたあやみが、驚くような言葉や謎めいた何かを言い、翻弄してくれるのかと期待していた。
「あなたはどちらに決断してもいいのよ。あなたは途中で逃げてきた。それがあなたの決断よ。もう覆せないわ」
「どういうことだ。俺自身の決意が半分だったと言いたいのか?」
 その問いには何も答えなかった。代わりにほんの微かに、口元が緩んだ気がした。
「どちらにしろ、しばらくは何も動かない日々が続くわ。あなたに機会があるとしたら、もう少し先よ」
 そう言うと、あやみは無地のトートバッグに本をしまい、歩いてどこかへ行ってしまった。その後ろ姿を慎也は黙って見送った。
 慎也はあのまま帰ってきたことを、今更ながらにわかに後悔した。せっかく与えられた千載一遇のチャンスを、むざむざ無に帰してしまったのだから。

#創作大賞2024 #恋愛小説部門


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