47回目 「Amitav Ghosh にとって V S Naipaul はこのような存在です」と明かしています。見事な文章、「出会いの表現」として最高級のエッセイです。
Noteのサイトにて、Kailash 氏になる「アミタヴ・ゴーシュ『飢えた潮』の翻訳」と題された記事に出くわし、この一週間余り、ゴーシュ(私はこれまでゴッシュと発音していた。)のことばかりが頭に浮かび続けています。氏の記事を機会に Amitav Ghosh のホーム・ページを彷徨っていたのですが、この記事を見つけました。ゴッシュが 2001 年(Naipaul がノーベル賞を受賞した年)に著わしたエッセイ「Naipaul and the Nobel」が公開されていたのです。
4 か月程以前に読了したNaipaul の本「Beyond Belief」のこと、そして 60 才を前に仕事ではなく自分の関心事をと、当時に高い評価を得ていたと私は思ったのですが東京大学の英語教科書を買い求め、そこに見つけた "The Imam and the Indian" written by Amitav Ghosh のことが併せて頭に浮かびます。
Ghosh のエッセイ "Naipaul and the Nobel" はA4の紙にプリントすると1ページで納まる長さです。中身のぎっしり詰まった冗長さが皆無の文章です。
A. エッセイの一か所をここに示します。
この例示部分のはじめに現れる in those years は Ghosh が 十代であった何年間を意味しています。
また後段にこのエッセイを読むにあたり私が作成した Study Notes を無償公開いたします。ぜひ原文で味わわれることをお勧めいたします。
B. 私の感慨、楽しみの在りか
私の感慨、楽しみの在りかはこの短いエッセイのいたるところに埋まっています。10代のころにNaipaul の作品(Miguel Street 他の小説が中心でしょうが)には、「それが現実だと思うのが恐ろしいほどの現実が文章・小説として著わされていた」というゴッシュの捉え方は、そう言われてみれば当にその通りと、ミグエル通りに住んでいた少年(主人公)が毎日ほどに目にする大人たちの暮らし、その様、を思い出しました。この辺りについて私は「これら大人たちの暮らしはこの少年にとっての反面教師だ」と捉えていたのですが、ゴッシュのように捉えられるのはそれまでに沢山の書物を読んでいたという素地があってこそだったのでしょうね。
第4段落にはナイポールの前期の作品の具体的名前があげられ、その後、作品のテーマがこれら前期のものから、ヨーロッパ礼賛の方に変わっていく旨が書かれています。具体的に作品名が挙げられてはいませんが、ヨーロッパの人々から高く評価された作品として ”Beyond Belief” がその念頭にあるのだろうと思えます。小説 "Half a Life" や "Magic Seeds" もこのヨーロッパ礼賛のグループに属する作品ですね。非ヨーロッパの人々にとってヨーロッパを礼賛してもヨーロッパの人々に追いつけないとの落胆を、民族主義や国家主義で乗り越えようとしてはならないことだけは肝に銘じてこの辺の議論を楽しみたいと思っています。
ここで論議されるイスラム(教、社会)は、私にとっては仏教・神道・宗教全般であり、洋風・西洋近代思想に対置される東洋思想でもあるのです。
C. Study Notes の無償公開
Amitav Ghosh のエッセイ「Naipaul and the Nobel」に関するStudy Notes を以下に無償公開します。ご自由にご利用ください。