「炭火のにおい」
僕は「炭火のにおい」がきらいだ。
夜になると街には「炭火のにおい」が立ち上がる。華やかで楽しい夜の始まりを知らせる。
仕事終わりに同僚とビールを交わしながら肉をつまむ。
好きな人と七輪1つを挟みながら幸せなときを過ごす。
七輪の熱が気持ちの高まりを押し上げてくれる。
そこから立ち上がる「炭火のにおい」が余計に食欲をそそるのだ。
どこのお店にしようか迷ってる会社終わりのサラリーマン。愛し合うカップル。彼らをお店の中に誘い込むのもこの「炭火のにおい」だ。
「炭火のにおい」は絶大な力を持つ。
多くの人に幸せを届ける。
楽しい気分にさせる。
ワクワクさせる。
だが僕にとっては違う。
僕は「炭火のにおい」がきらいだ。
僕は焼き肉が大好きだ。
ただただまかないで肉を食べたいという理由だけで焼肉屋でバイトを始めた。それは僕にとって初めて働くという経験だった。初めての社会経験だった。
バイトの面談なんか初めてだった僕は何も分からず、とりあえず筆記用具と、何か言われたことをメモしようといつも通りルーズリーフを30枚分くらいまとめて持って行った。
そしてまず始めに店長に言われた。
「履歴書をもらってもいいかな?」
その瞬間、僕の汗という汗をせき止めているダムが崩壊した。やらかしたというショックと緊張のせいで。
ここで僕の面談をした店長の特徴を少し話したい。
まずは金髪。しかもそれを全部後ろに持ち上げたヘアスタイル。おそらく大阪の街を10個くらいは支配下に入れたことがあると思う。絶対にそうである。
さらに元ゴリゴリの体育会系。だから妥協という言葉はその人の中にはない。おまけに言葉もきつい。その人と一緒に話してると僕の意識が高校時代の部活に戻る。
そして関西弁。僕の父親も関西出身なので、関西弁には抵抗はないつもりだった。でもその人が発する関西弁はなんか違う。よくあるだろう。同じ言葉なのに発する人によって伝わり方が違うということが。そんな感じ。もはや関西弁というよりヤクザ弁だと思った。
こんな人の元で働くことになった。
実際に働くとどうだったか。
見た目や話し方が怖いけど、意外とおちゃめでバイト中もワイワイ楽しくやれた!
店長の事をすぐに尊敬するようになったし、大好きになった!
そう言って欲しいのだろう。
だが現実は違った。
僕が最初に抱いたイメージと寸分変わらない人だった。いや、それ以上に恐ろしい人だった。当時の僕はこの人が世の中に恐怖という産物を生み出したに違いないと本気で信じ込んでいた。
僕はとてもどんくさい人間だ。1つのことを考えると、もう一方のことを忘れる。2つ同時に違うことができない。
手際も悪い。物を取りに何度も同じ道を往復してた。「もっと考えて効率良くやれよ!脳みそあんだろ!」と店長から叱れるのが常。もうそのときの僕には、脳みそなんかなかったんじゃないかな。
おまけにひじの関節が生まれつき硬いため、お皿を運ぶためのおぼんを平らに持てない。バイト参加2回目の時に一度挑戦したが、お客さんに渡せる直前で盛大にぶちまけた。昭和のドラマの中で頑固親父がちゃぶ台をひっくり返すシーンがあるだろう。まさにそれだ。サラダの中身は全部テーブルの上に広がり、日本酒の瓶は地面にたたきつけられて大音量をあげて粉々に粉砕した。僕の心も粉砕した。
こんなどんくさい僕に店長はこう言った。
「お前、ほんとに使えないな。帰っていいぞ。」
僕は初めて人に必要とされなくなった。無駄な存在だと知らされた。いかに自分が仕事の出来ない人間だと知った。
それから毎回シフトに入る度に怒鳴られまくった。
「おい!皿はこっちだろうが!いい加減覚えろよ。」
「お前、何ぐずぐずしてんだよ!頭使えないんだから身体使えよ!」
「お前、ほんとにポンコツだな。仕事できねーな。」
この10倍くらいことを毎日言われ続けた。
だんだんと自己肯定感が下がった。
自分が社会不適合者だと思った。絶対にそうだと思った。
ここまで仕事が出来ないポンコツだとは全く思ってもいなかった。
自分の将来を本格的に不安になり始めたのもこのときからだ。
とにかくしんどかった。つらかった。怖かった。辞めたかった。
シフトの前日に夜なると必ずお腹を崩していた。
バイトに行くのが嫌すぎて夜も眠れなかった。
大学で授業を受けていても考えたくもないバイトもことばかり考えてしまう。
バイトがある日の気分はもうこの世の終わりの時と一緒だった。
炭や灰、たばこのにおい、肉の生臭いにおい。
全てが嫌いになった。
僕にあのときのことを思い出させるから。
あの最悪の日々を。
なぜそのバイトを辞めなかったのか疑問に思う人もいるだろう。
友達から「それ絶対にブラックだから辞めなよ!」と言われた。親からも「無理しなくて良いよ」と言われた。
それでも辞めずに1年半続けた。
それはなぜか?
今の弱い自分を変えるために、絶対に負けないために続けた。
そう言いたいところだが、そんなことは一切無い。
ただただ余計な責任感があっただけ。辞めてしまうとお店に迷惑をかけてしまうと思ったから。まあ、こんなポンコツだからいると逆に迷惑なのだが。
だから辞めなかったというより、辞めるタイミングを徐々に失ったのがこの結果である。--
だがこんなポンコツな僕でもさすがに続ければ成長するもの。
少しずつ仕事も覚えて他のことを考える余裕も出てきた。
新しく入った新人の子には頻繁に話しかけて不安な心を取り除いてあげた。以前の僕みたいにならないように。
するとだんだんとあの店長から怒鳴られる数が減った。最終的には何も言われず、責任あるポジションも任せてもらえるようになった。
やっと仕事の出来ないポンコツ野郎から抜け出せることが出来た。
そしてバイトを辞めた後に、バイトでの日々を思い返した。店長に怒鳴られる日々。
バイトの前日から体調を崩し最悪な気分になる日々。
仕事が出来ないという弱い自分と向き合う日々。
嫌な思い出ばかり思い出す。
でもどれもこれも僕の財産になった。
これらの経験が今の僕を作り出している。
人からどんなにきつい事を言われてもめげない心。
どんなに辛くても乗り越える粘り強さ。
そしてそういう人たちの気持ちを理解出来ること。
同じような辛い経験をしてて、今の日常から逃げ出したいと思ってる人。この辛い日々を終えたいと思っている人。自己肯定感が低くて自分に自信を持てない人。将来に不安で今どうしたらいいのか分からない人。こうした人たちに寄り添う事が僕には出来ます。
ここでのバイト経験と店長には、社会の厳しさ、働いてお金をもらうことの厳しさを教わった。
僕は社会を舐めていた。なんとなく働けば、なんとなくお金もらえて、なんとなく生きていけるんじゃないかと。でも実際には社会というものはそんなに甘い物ではなかった。まともに社会経験をしていない僕にもそれに気づかせてくれた。
自分の弱さにも気づかせてくれた。自分がどれだけ仕事が出来ないのかを知った。大学受験でも挫折をしたが、このバイト先でも挫折をして一度自分を見失った。でも一度自分を見失ったからこそ、もう一度白紙の状態で自分を見つめ直すことができた。
もし店長と出会っていなかったら。
もしこのバイト先と出会っていなかったら。
もしあのとき友達にバイト先を紹介してもらわなかったら。
全ては偶然のようで必然だと思う。
僕はここでバイトさせていただいて感謝している。これほど苦しみ、たくさんのことを学べたのはここのおかげである。
そして店長。
正直に言うと、最初はあなたと出会わなければ良かったと思っていました。あなたをうざいを思っていました。あなたが心の底から嫌いでした。
でもあなたと出会えて良かった。あなたから社会の厳しさを教わりました。もっと仕事の能力を上げるために必要なことを学びました。バイト終わりに一緒にまかないを食べながら、あなたが好きな将棋の話を聞くのが好きでした。あなたが好きでした。
全ての機会に感謝します。全ての出会いに感謝します。
店長、あなたと出会えて良かったです。お世話になりました。今度は客として遊びに行きますね。
そして読者の皆様、最後まで読んで頂きありがとうございました。