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【掌編】 ゲヘナの扇風機

「……なあ、後生だから。もう許してくれ。うわ」
 いやいやをする扇風機に、水で溶いたどろどろの小麦粉をかける。ここは扇風機の地獄なのだ。ハネの回転によって小麦粉がとび散る。
「悪く思わないで。こっちも仕事なんだ」
「……頼むから。なあ、頼むから。このままじゃハネが駄目になっちまうよ」
 もう1度どろどろの小麦粉を浴びせる。扇風機は泣いていたが、容赦してはいけないという地獄の不文律がある。ぼくは地獄の雇われ小鬼だった。
 岬のへりに1台だけ立たされた扇風機は、遠目には古びた灯台のように見えなくもない。季節は春。その海も、空も、草原も、どこまでも果てしなく廣がり、すべて雨上がりのようにきらきらしていた。あまり地獄らしくない穏やかな風景ではある。辺りでは波のうつ音、風のふく音、それから時おり鳥の啼く声がするだけ。
 ハネの回転がだんだん悪くなってくると、ぼくはポリタンクに貯めた水をどぼどぼかけて扇風機を洗った。ぷは。と、かれは息を吹き返したように生き生きと回転しはじめるが、すぐにまた粘っこい小麦粉でそのハネを重くしてゆく。苦しそうになって、また水をかける。ずっとその繰り返しだ。刑罰は、水平線の向こうに夕陽が沈みきるまでつづき、また曙光とともに再開しなければならない。
「……こんなのあんまりだよ。おれが何をしたっていうんだ」
 扇風機はたびたび弱音を吐いた。家電のなかでも扇風機はとりわけ責め苦にすぐ根をあげる。
「罪状は読みあげられたはずだ。おまえはじぶんが台風になる夢をみただろう? 大きな台風になって海を時化させたり、山の樹々を夜どおし揺さぶったり……」
 ぼくはバケツのなかで次の小麦粉を水で溶きながら云った。じっさい大型台風になった扇風機は、民家を何棟もふき飛ばしたり、川を氾濫させて子供たちを溺れさせたりさえしていた。夢のなかではあるけれど。
「……何故それがいけないのさ。ぜんぶ眠っているあいだのことじゃないか! うわ」
 扇風機は小麦粉をはね散らかしながら叫んだ。かれの周りの地面だけ草は灰いろに汚れていた。
「何故ってことはないんだよ、地獄の法なのだから。夏がくるまでは大人しく受刑してもらわないと。そら」
 やがてニジマスの鱗みたいな夕焼けがくると、ぼくは扇風機のあたまを黒布で包んだ。夜のあいだは風を受けられないように幌をかけるのだ。酷いとは思う。でも、こうしないとかれはまた夢をみてしまうかもしれないから。
「……扇風機に生まれたらずっと扇風機のままなんだ。おれにはそれがあまり倖せじゃないと思ったんだよ」
「わかるよ」
 と、ぼくは同情するフリをした。小鬼だから、ほんとうは扇風機の云いぶんなんてよく理解できない。あたまのなかでは明日のぶんの小麦粉とポリタンクの水のことばかり考えていた。黒布の下でかれはまた泣いているようだった。潮風が布をばたばたふるわせたが、そのハネは1粍も動くことがない。

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