エッセイ:パブロフの思い出

海辺にある田舎の大学に通っていた。必修の科目を除けば一年次は授業もすくなく、まあまあ暇で、歯抜けのように空いた時間が多くあった。私の下宿していたアパートはキャンパスのすぐ下にあり、じっさい歩いて五分くらいの距離で、そんな好立地であったから、空き時間にはよく友だちと連れだって帰り、夏などは茣蓙をひいてみんなで昼寝していた。平和なスクールライフである。
2005年の夏の日のこと。あの日も、一限目が終わり、二限目のドイツ語を選択していなければ次は午後からというのんびりした予定で、第二外国語は中国語(出席さえしていれば単位がとれるという噂で選んだ)を選択していた私と友人のヒーロは他のみんなと分かれて帰宅し、はやばやと茣蓙に寝転がっていた。窓も、ドアも開けはなち、夏の風が爽やかな午前であった。当時、私が住んでいたのは学生向けのちいさなアパートの一階で、間取りは1K。玄関を開けると外からはまる見えになる。表の道路を、先生に引率されてブルーの帽子をかぶった園児たちがトコトコと列になって歩いている。家のなかから手をふると、子供たちも手をふり返してくれる。そんな筒抜けの家であった。
暇だねえ。などと会話しながら私はうたたねをしていた。ヒーロは大学の売店で買ったポテチとわらび餅をちゃぶ台にひろげ、退屈そうにテレビを観ていた。じつに長閑であった。しかし、私がコトンと眠りに落ちかけたそのとき。「ちょいちょいちょいちょい!」とヒーロが慌てたように叫んだ。「エディプスちゃん、犬が入って来よるんじゃけど!」「ええ?」まさかそんな筈は。と、廊下のほうを見るとずんずん犬が迫ってくる。熊のようなゴールデンレトリバーであった。はっ、はっ、はっ、はっ、と舌を垂らし、涎をだらだらまき散らし、こっちに向かってくる。「わー!」でかい。その犬の迫力に、私とヒーロは追いやられ、窓際に張りつくような形になった。闖入してきたゴールデンレトリバーといえば悠々としており、余裕たっぷりに私とヒーロのにおいを嗅ぐと、のそのそと部屋中を動き回り、挙句にはちゃぶ台の上のポテチとわらび餅を食べはじめた。「喰われよるよ、おれの」とヒーロは笑った。「いやあ、犬もわらび餅とか食べるんだねえ」と、われわれはすこし愉快な気持ちになってはいたが、情けないことにぴたりと壁に張りついたままの姿勢であった。手も足もでない。兎に角、バカでかい犬なのである。犬は食事のマナーもあまりよくなかった。ポテチの袋とわらび餅はひっくり返され、ちゃぶ台と茣蓙のうえに散らばったポテチの滓や黄な粉をべろべろと舐めていた。なかなかの惨状であり、部屋は食べ滓と犬の涎にまみれた。やがて満足したのか、喰うだけ喰うと、犬は悪びれたふうもなく堂々と玄関から出て行った。「でかかったね」「びっくりした、まさか犬が這入ってくるとは」
われわれは犬をパブロフと名付けた。部屋を涎まみれにされたからである。パブロフは、私のいたアパートの二軒隣りにある家の飼い犬で、ときどき柵を抜けて脱走するらしかった。通学の途中にもガレージに繋がれているのを見かけることがあり、「あっ、今日はパブロフいるね」などと友だちとよく話したものである。ゴールデンレトリバーという名に恥じないうつくしいゴールデンの毛並みで、たぶん大人しくて賢い犬だったのだろうと思う。通りがかると犬小屋から出てきて親しげに寄ってきてくれることもあった。ポテチとわらび餅による条件付けが行われたのであろう。学習である。傍から見ているぶんには愛嬌のある犬であった。ずんずん部屋に押し入ってくるのでなければ善い犬である。
パブロフ襲撃事件から時は流れ、今度は2007年の夏の夜。たしか夏休み直前の7月で、その月はキングがうちに泊まりに来ていた。彼は学科の同期で、当時、私とおなじくダメな人間の類いであった。遠方の実家から電車で通っているという事情もあったが、来るべき講義に来なかったり遅刻したりし、進級の単位が危うくなっていた。周囲から愛される人柄ではあり、学科の同級生や後輩たち、また教員らからの絶大なる心配を受けて、期末試験を前にしたその月は大学にちかい私のアパートに居候することになった次第だった。しかしわれわれは学科のダメのツー・トップであり、揃ったところで相乗的にダメになるだけである。試験勉強もほどほどに、彼が持ちこんだ64でスマブラに興じ、学力よりは戦闘力をひた向上させる夏となった。そんなある夜の、午前0時を過ぎた頃。「キング、やっぱし夏には必要なんじゃないか?」「何がだい?」「暑気払いってやつがさ」「ふむ、一理あるな」毎晩、われわれには一理があるのだった。そして、ビールを求めた。当時は金がなかったので発泡酒であったが、夜な夜なコンビニに行っては缶ビールを買い、帰りに公園で飲んだり遊具で遊んだりしていた。だが、その夜はいつもと違った。パブロフの二度目の襲来である。
お気に入りの夏のアロハを羽織っていざコンビニへ。私がガチャリとドアを開けるとパブロフはすでに玄関先でお行儀よく待機していた。「うわっ、キング! パブロフがおるんじゃけど!」「えー、まさか」人生には3つの坂があるという。「マジだ!」キングは部屋で笑い転げていた。パブロフは数センチ開いたドアの隙間から鼻を挿しこみ、くんくんとにおいを嗅いでいた。卑しいやつめ、またわらび餅を食べにきたのか。「どうしよう?」「やっぱ、家に帰してあげんといけんかねえ」恐る恐るドアを開けるとパブロフは全力でじゃれついてきて、私のお気に入りのアロハは犬の涎まみれとなった。「ほら。帰るよ、パブロフ」私とキングが歩くと、パブロフは服やズボンをべろべろ舐めながらも、ちゃんとついてきてくれた。賢い犬なのである。「こんな時間にどちらさまですか?」午前0時過ぎである。インターホンを鳴らすと、隣の隣の家のおばさんは怪訝そうな声で言った。「あの、お宅のワンちゃんがうちに来たので、連れてきたんですが……」「あっら、やっだぁ、もぅ、あの子ったら!」おばさんの声のトーンが何オクターブも跳ね上がる。ぺこぺこ謝るおばさんにこちらもぺこぺこ頭を下げ、その夜、パブロフは無事にじぶんの犬小屋に戻った。一件落着。われわれは帰りにコンビニに寄ってビール(発泡酒)を買った。「うわっ、犬くさ!」「ほんとだ、犬くさ! クリーニング代とか請求すればよかったかな。まあ、今更か」服がめちゃくちゃ犬くさくて、それだけでずっと笑い転げていられた。
それから更に数年後の2011年。やはり夏の、雨の降りそうな天気の日であった。私は大学院も無事に卒業し、市内で会社勤めをしていた。そんな折、大学の恩師に頼まれ、母校で学部生に向けて職業紹介をすることになった。普段どんな仕事をしているかとか、じっさい働いてみてどうかとか、そんな退屈な内容で90分ほど喋らされるらしかった。最悪だ。安請けあいしたことをすぐに後悔した。資料作りがなかなか大変で、直前まで発表の準備に追われた。当日は有給をとり、予定の時間よりも早く大学のちかくまで行き、懐かしい町並みを歩いてみることにした。けれど町の景色はすこし変わっていて、新しいチェーン店や小洒落たキャッフェができていたりした。私が暮らしていた頃とは時代がちがうのだ。昔住んでいたアパートも外壁が塗りかえられていて雰囲気が変わり(当然だが)もう別の人が住んでいるみたいだった。そして、パブロフもいなくなっていた。パブロフ、お前もか。二軒隣の家のガレージには、もう犬小屋さえ置いていなかった。確かに、6年前の時点ですでに熊のような図体の犬なのだ。きっともう死んでしまったのだろう、と思った。あるいは、また脱走したのか。飼い主のおばさんが犬小屋を捨てて諦めてしまうくらい、完璧な脱走をしたのかもしれない。そんなバカげた想像をしながら大学までの道をすこし寂しいような気持ちで歩いた。そんなパブロフの思い出。なお、発表はさんざんな結果であった模様。


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