【掌編】 悪質なカニ
自宅に帰ると1ぴきの巨大なカニがいた。その巨大さといったら常識はずれで、体長も、幅も、ぼくの背丈をゆうに超えており、カニは台所にいたが、そもそも出入口をくぐれそうにない大きさ。一体どこから這入りこんだのか。虚をつかれ、ぼくが廊下でもじもじしていると「おう、帰ったんか」等とカニは馴れなれしく声をかけてくるので、いよいよ常識はずれというか、じぶんの正気を疑う。「おかえり」と云って、カニは両のはさみで万歳をする恰好になった。「えっ?」とこちらが思わず声を漏らすと相手も「えっ?」と返し、そのまましばらく膠着したが、カニのほうが「いや、おかえり云われたら、ただいまやろ」とすこし怒ったふうになったので、ぼくはしぶしぶカニに向かって「ただいま」と云うのであった。「うん。おかえり」とカニは満足げな顔になって。「まあ、上がりや」と、ずいぶん横柄な態度である。
どういうことなのか? その疑問をストレートにぶつけてみると、カニは如何にも心外というふうに片方のはさみをカチカチと鳴らし、ハア、と溜息までつき「いや、フツーわかるやろ」とこちらの理解力がないと謂わんばかり。依然としてぼくが首を傾げていると「ほら、カニって脱皮するやん。な? 早い話、そういうことや」とそれだけで全てを説明し尽くしたように振るまうのであった。「あのう、もうすこし詳しく教えていただけないでしょうか?」そもそも、ここはぼくの自宅なのだ。何故あるじのぼくがこんなにも謙らないといけないのか。だんだん腹がたってきた。けれど努めて温和に、しぶとくしぶとくカニの話を聞いていくと、言い分はつぎのよう。つまりカニは脱皮したぼく自身の本体であり、一方のぼくは脱ぎすてられた皮なのだという。まさか。「要するにそういうこっちゃ」と云ってカニは何本かの脚を上げたり下げたりした。そういうことってあるのだろうか。「えっ、ほんまに気付いとらんかったんか。ボヤボヤしとんなぁ、皮だけに」そう云って一頻りカニは笑って「いまの笑うとこやで」と付け加えた。
しかしぼくは騙されなかった。きっとこれはカニ詐欺にちがいない。脱皮した記憶もないし、そもそも人間からカニになるだなんて馬鹿げた話なのだ。「あのう、赤の他人ですよね?」こちらは真剣に訊いたつもりだったが「カニだけに赤いってか」と件(くだん)のカニは茶化して笑う。「そもそも、ぼく関西弁じゃないんですけど」と追求するとこれはバツが悪かったのかぶくぶく泡をふいて黙るのみ。巨大なカニであるから、ちょっと泡をふくだけでも台所は泡だらけ、空中にはシャボン玉がとんでいるような状況であった。「警察呼びますよ」「なんや、物騒やな。おれはおまえ自身やで」「そんなはずありません」「阿保ぬかせ。皮のぶんざいで」「出ていってください、本当に警察呼びますよ!」埒があかず、ちかくの交番に電話をかけていると「この、パチもんが!」と云い捨て、ぼくを騙るカニは壁を這うようにして素早く外へ出ていった。ぼくはもう肩くらいまで泡に浸かっていて、なんだかひどく疲れたきぶんであった。はい、もしもし△△交番ですが。あの、すみません、おかしなことを云うようなんですが、巨大なカニが……。カニ? ええ、悪質なカニです。
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