【掌編】 子どもの幽霊

 夏の夜のこと。どうも息苦しいな、と思いながら目覚めると胸のあたりに子どもの幽霊が覆いかぶさっていた。小学生くらいの男の子で、青褪めたからだは薄ら透けている。「く、苦しい……」と私が息もたえだえに声を洩らすと「あっ、目が覚めた」と子どもの幽霊は言った。思いのほか朗らかな調子である。「頼むから、退(の)けて……」「いいよ」かれが退けると、すっかり全身は軽くなるのだった。
「……幽霊?」
「そう」
「……どうして私のところに?」
「祟りじゃ」
 冗談ぽくそう言って子どもの幽霊はケラケラ笑った。
「うそうそ。ママ、ぼくを虐めて殺しちゃったでしょ? でも、ぜんぜん恨んでなんかないんだ。それを伝えようと思って」
 今度のは冗談ぽくはなかった。虐待死とはショッキングな話題だ。しかし困ったことに私はこの子のママでもなければ、パパでさえもなさそうなのだった。この先、結婚も考えていないような一介の男だ。どうも間違って化けてでたものらしいが、子どもの幽霊は私をママと信じて疑わない。祟りなんかじゃないよ。と、言ってかれは抱きついてきた。私はそれを何んとも悲しく思った。
「……たいへん言いにくいことなんだけど」と言い淀みながら「私はきみのママじゃない」と真実を伝えた。
「えっ?」
「……よく見て。まず女じゃない。ほら、そこから違うんだ」
「どうしてそんなこと言うの?」
 その台詞は幽霊が言うとすこし怖かった。が、かれはおろおろして泣き出すだけ。ほんとうに害意はなく、幽霊としてただ存在しているだけのようなのだ。
「ママ、そんなこと言わないでよ。いい子にするから。ねえ、ねえ」
 幽霊が腹のあたりに顔をうずめて泣くと、寝巻き代わりのシャツが涙でぬれるようだった。生前は恵まれない子だったに違いなく、だんだん可哀そうになってきて、ちょっとの間ならこの子のママになってもよいかなとも思えた。ごっこ遊びのようなものだ。それで、かれが満足するのなら。よし、よし。と、あたまを撫でようとすると、触れられはしないものの冷気のようなものを掌に感じることができた。いい子、いい子。
「どうしたのママ?」と子どもの幽霊は怯えたように後ずさりした。「もう、ぼくのこと嫌いになっちゃったの?」その声は顫えていた。
 あアこの子はじぶんにも殴らせようとしているのだ。と、私はすぐに理解した。よく見ると、薄ら透けたからだは死んで尚あちこちに傷痕があるのだった。痛々しい。けれど、それを自らのイメージとして死後にまで持っていったのだ。可哀そうに。そう思ったが、さすがに殴ってやることはできなかった。
「……でも、愛してるよ」と私は恋人にも言わないような言葉をかけた。
 子どもの幽霊はちいさな両掌でその顔を覆いながらボロボロとやはり薄ら透けている涙をながした。そのぬぐう掌が、また傷だらけなのである。
「あなたはぼくのママじゃなかったんですね」
「……ごめん。騙すつもりはなかったんだけど」
「いいんです。ぼくが間違ったんですから。ぼくのほうこそごめんなさい」
 そう言ったきり幽霊のすがたは見えなくなってしまった。殴ってやればよかったのだろうか。やがて一睡もできないまま朝になってしまった。夏の夜のことである。それ以来、子どもの幽霊が部屋にでることはない。

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