【掌編】 猫投げ
ぼくは猫投げを生業としていた。
もう3年めを過ぎ、そろそろ新米という言い訳はつかえなくなってきた頃あいだ。猫投げとは何か。聞き慣れないひともいるかもしれないが、文字どおり猫をぶん投げるのである。ぼくの場合は、切り立った崖のうえから瀬戸内の比較的おだやかな海に猫を放り投げている。高く、それから成るべく遠くへ。投げる瞬間、どの猫もたいてい ニャ と短く声をあげる。よい猫投げができたときほど、猫たちのからだは回転しない。足を下向きにし、吸い込まれるように海面に向かってゆき、どぼん。着水しても飛沫があがらなくなれば一人前というが、ぼくのはまだ崖の下でも白く水が跳ねてしまうのが見える。
なんて残酷な! などと、市井のひとびとは勝手なことを云うが、これは歴(れっき)とした市の委託事業なのだ。だからこそ一層はげしく文句を云うという向きもあるけれど、さらに云えばこれは猫たちの福祉、猫たちのニーズを汲んでの事業なのである。ぼくは一雇われであるから、いちいちクレームめいた意見について反駁したりはしない。でも、そのあたりの事情をよく調べてほしいものだと思う。猫を投げとばすというその見た目のことだけから、感情的に怒りだす市民のじつに多いこと。過去には動画が拡散されて、一時的にストップしてしまった猫投げ場もあるという。猫ファーストで考えないから、そういう身勝手で頓狂な意見をあげるのであろう。
きょうもぼくの前にはたくさんの猫たちが集まってきている。かれらのほうが余程よく事情を知っているというものだ。人間のコトバはわからないにせよ、ここに来る猫たちは並べればちゃんと順番を待ちさえする。長蛇の列、いや長猫の列というべきか。それは脚のたくさん生えた一匹の胴の長い動物のようにも見える。ぼくは一匹、また一匹と猫をつかみ、水面で猫どうしがぶつからないよう充分に時間を置いてから、猫をぶん投げる。高く、それから成るべく遠くへ。夏の炎天である。抛物線のその頂点の、陽射しのなかできらりと猫の毛並みがひかり、やがてちいさな影になる。どぼん。と、水飛沫があがって、もう猫のすがたは見えない。
まだまだだなア。ぼくはじぶんの未熟を思いながら、一投一投を大切にしようと心に決める。が、なにしろ日に百も二百も投げるのだ。やがて機械じみた反復のなかで、ただただ猫を投げているじぶんに気付くことになる。その繰り返しだった。
猫投げは、ほんとうに一朝一夕の仕事ではない。猫持ち3年、投げ8年と教えられるように、うまく猫のからだを持てるようになるだけでも3年かかると云われている。ぼくはこの頃、ようやく納得のいく把持が出来るようになってきた気がする。納得のいく投げには、少なく見積もってあと5年ほどの修練が必要なのだろう。
ニャ。ニャ。ニャ。ニャ。ニャ……。この30分くらいのあいだに11匹もの猫を海に投げることができていた。いいペースだ。放擲のその瞬間、どの猫たちも皆、擽ったそうな或いは眠たそうな表情をする。猫には猫の幸せというものがあるのだろう。かれらは毛並みが風を切るとき、何を想うのだろうか。黝(あおぐろ)いような海面が愈(いよいよ)まぢかに近づくとき、着水のとき、そして陽のひかりも届かない深淵へ石のように沈んでゆくとき、何を想うのだろうか。いけない、こんな邪念が入るから。ぼくは気をとり直し、つぎの猫にとりかかる。どこかの家猫だろうか、フワフワしたその白い長毛猫をやさしく抱きあげ、からだ全体をつかって空へと放り投げた。ニャ と、猫は鳴き、すぐに海のなかのひとつの点になった。どぼん。今度はすこしだけ飛沫が低くあがったみたい。
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