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シャボテン日記(2019/6/28)

「シ・イ・シュ・ポ・ス」とぼくはサボテンに可愛らしく呼びかけた。
「なんだい、猫撫で声で。きもちわるい」
 黄昏れどき。かれは窓のそとの炎えるような夕日を浴びて、壁や天井なんかに刻々と引き延ばされてゆくじぶんの影をじっと眺めていた。サボテンには影をみる趣味がある。元々ちいさな個体であるから、きっと自身が大きくなったようで愉快なのだろう。
「ぼくはいま影を見ているんだ。邪魔しないでくれ」
「楽しい?」
「まあ、生きていてこんな楽しいことは滅多にないだろうね」
「わからないなあ」
「きみは砂漠生まれじゃないからさ」
 サボテンはたびたび砂漠生まれアッピールをしてくるが、ぼくは眉唾だと思っている。かれはショッピングモールの花屋で買われた鉢なのだ。
「砂漠の植物ってのはみんな影が大好きなんだよ。ほら、からっからに晴れてるだろう? 雲はあったりなかったりするけれど、影はいつだってあるからね。その中でも黄昏れどきの影くらい素晴らしいものはない。きみも砂漠で暮らしてみればわかるよ」
 ぼくは広大な砂漠を想像する。地平線の向こうに焼けた鉄のような太陽が沈んでいく。屹立した無数のサボテンたちの影が一斉に地面を伸びていく。やがて黒い水のような夜がすべてを呑みこんで砂漠の肌理が蒼褪める。
「で、なに? 手短に頼むよ」
 遠くで夕日が泥んでいる。サボテンとぼくの影がゆっくりと室内に染み渡る。
「今日はちょっとしたサプライズがあって」
「えー! えー! それを早く言いなよ。ぼくは影の次くらいにびっくりすることが好きさ!」
 何かの記念日だったけなあ。それとも誕生日だったけなあ。と、サボテンは嬉しそうに燥いでいた。かれはじぶんの生まれた日を知らない。そもそも誕生日というのは、あくまで暦法を発明したヒトの制度なのだ。
「うふふ、この部屋をみて何か気づかないかい?」
「もー! 勿体ぶらずに教えてよー!」
「電気を停められちゃって」
「どうりで真っ暗なわけだ」
 仕事から帰ると部屋の電気がぜんぶ停まっていた。どうやら料金を支払い忘れてしまっていたらしい。
 燐寸をすり、キャンドルに火を点す。ぱッ と明るくなるが、それは隅々まで照らすという明るさではない。サボテンとぼくの影がぼんやりと天井で揺らいでいる。
「吃驚というか、呆れたよね」とサボテンは悲しそうに云った。
「うう。ぼくはなんてダメな奴なんだ。1ぺん死んだほうがいいかもしれない」
「やめときなよ。莫迦は死んでも治らないっていうから」
「……そうだね」
「それにしても、べつにお金がないってわけじゃないだろう? 今月はボーナスも出たらしいじゃないか。きみってやつは、全く」
 ぼくは本当にこれまで何度も電気を停められているのだった。きっと両手の指では足らないだろう。たぶん全然足りない。
「つい支払い忘れてしまうんだよ。この”つい”ってやつは、ぼくの呪いのようなものなんだ。いいかい、シーシュポス。電気を停められることに関しちゃ、ぼくはもうちょっとしたプロだ」
「……そりゃまた、嫌なプロだね」
「電気を停められるってことは1ヶ月お金を払ってないってことじゃないんだ。2、3ヶ月未払いがつづき、督促状がきてるのにも拘わらず電気料金を支払ってないってことなんだ。最終通告がきて、それで電気が停まる。でもね、シーシュポス。ぼくはじぶんでも信じられないくらいそれに気づかない。いや、気づいているのかもしれないけど忘れちゃうんだ。払わなきゃというきもちはある。お金だって支払うぶんくらいはあるよ。でも、”つい”忘れちゃうんだ。電気が停まってやっと事の深刻さに気づく。それで未払いぶんをいっきに支払って電気が点く。次はちゃんと忘れずに振り込みをするぞ! と毎回つよく思う。……でも、何ヶ月か経つとまた電気を停められちゃうんだ。それをもうずっと繰り返してる」
「人間は学習する生き物だって聞いてたけど」
「ぼくは電気を停められても動じないという学習をしてしまったらしいね。あっ」
 ブーン。と、冷蔵庫の音がして、部屋中の電気が点く。まばゆいくらい。
「電気を停められたあとの対応ってのは迅速にできるんだよ。ほら、この通り」
「どうしてそれを停められる前に実行できないかなア。仕事ではもっと複雑な手続きや書類をこなしてるらしいじゃないか」
「あれは仕事だからね」
「難儀なことで」
「ぼくはたぶんずっとこんなふうだろうね。何かがほんとうに終わってしまったあとじゃないと後悔することができない。電気が点っているうちは電気の有難さを享受することができない」
 ぼくはすこしセンチになっていた。誰かが生きているうちは誰かの有難さを享受することもできないのかもしれなかった。
「おいおい、あまり難しく考えるなって。ただきみの生活能力がいちぢるしく低いってだけなんだから」
 サボテンが ふッ とキャンドルの火をふき消す。
 電灯の下で、黒くなった窓ガラスにじぶんの姿が映っていた。
「まあ、コーヒーでも飲みなよ。電気があると夜はずいぶん長くなっちゃうからね」
 砂漠じゃこうはいかない。と、サボテンは云いたいみたいだった。夜の砂漠をぼくは想った。

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