2024年6月上旬の総括
上旬で総括を加えるとなると、前回からあっという間に訪れるような感覚になる。生活の忙しなさも手伝っているのだろうが、日々を丹念に生きねばならないと何度も言い聞かせたくなるような時間の速さである。内省を一々挟んでいる場合ではないので、する時にたんとしておくが良い。
楽しかった出来事
スマートフォンを買い替える
ついに念願かなってiPhone 15に買い替える。容量は、贅沢にも256GBである。前がiPhone SE(第二世代)だったため、全ての機能が飛躍的に向上した。買い替えてから後の数日は、自分がこんな高性能の代物を持ち扱っていて良いのかとすら思った。
買い替えに踏み切った理由は先月の総括でも触れたように、『学園アイドルマスター』(以下『学マス』)と『Link!Like!ラブライブ!』をプレイするためである。iOSは前のスマホでも問題なかったが、容量の都合でどうしてもダウンロードできなかった。しかし、今回のiPhone 15は破格の256GBである。二つのアプリを悠々と入れることができ、喜色満面の一言に尽きる。
『学マス』を満喫する
ということで、買い替えたその日から『学マス』をやり始める。
自分が石浦Pであることを思い出す。
ゲームシステムをろくに知らないまま——キャラクターのことはTwitter(もう二度と、Xとは呼ばない)のTLから何となく把握していた——始めたが、とにかく育成を周回しなければ話にならないことを体感し、研究を放棄してしまった。初星学園大学大学院の修士課程に在籍する人間としても、アイドルのプロデュースに血道を上げずして、何の人生だろうか。
予想通り、花海咲季を担当することになった。かくまできっぷの良い女性アイドルがかつていたかと自問したくなるほどに、強靭な身体と心とを持つキャラクターである。朝の4時に起きて、夜の8時には寝る厳格な生活ぶりは、今の私とは比べ物にならない。
一方で、妹の佑芽を溺愛する様子や、過剰な自信に起因する可愛らしさなど、アスリートとして活躍してきた側面とは対照的なところも多い。咲季に留まらず、そうした人間臭さを勢いよく掬い取ろうとするのが、『学マス』におけるシナリオの特徴かもしれない。俗言で言い直せば、二次創作で描かれそうな人間味が先取りされているのである。
とりあえず、花海咲季と月木寸手毛求の育成シナリオはTRUE ENDを迎えた。しかし、肝心の親愛度10で解放される話と例の楽曲は未だに解禁できていない。前述のように、周回をしなければ何も始まらないゲーム性であるため、これからも頑張って研究を放棄しなければならない。はい、私は初星学園大学大学院の修士課程に所属する石浦 広志と申します。
良かったね!
因みにツイートするのをすっかり遺却していたが、月木寸手毛求の育成でLunar say maybeをライブ会場で披露するシーンを見て、感動が胸にゆっくりと浸透していったのを思い出した。紆余曲折を経て、面倒な己をあるがままにさらけ出すアイドルが、面倒な己をあるがままにさらけ出す歌詞を大きな箱で壮大に歌い上げるのは、一つの完結としてこれまでの労苦全てを美で報いるような趣があった。なぜ、これほどのことをツイートせずにいたのか。やはり、月木寸手毛求が本当にどうしようもないうつけものだからだろう。
因みに、『Link!Like!ラブライブ!』はダウンロードしたものの、ほとんど触れられていない。あれだけ渇望していた「With×MEETS」も、バイトや学会の打ち上げなどに被っていて思うように視聴できていない。新しい「活動記録」も、どうも溜め勝ちになってしまっている。六月末に金沢へ行こうとしている人間の態度ではない。どこかで腰を据えねばなるまい。
アニメ映画『トラぺジウム』を見る
先月の総括で『トラぺジウム』の名前を出したところ、KBM同期のとがみから「一緒に見に行かないか」との誘いを受けた。一も二もなく快諾し、6月9日に朝一番の回を見に行く。
衝動に任せて4000字近くの所感を書いたので、以下に掲げる。作品の根幹に関わる言及をしているため、それを厭う方は読み飛ばしていただきたい。
『トラぺジウム』という作品について、その物語を全体的に扱おうとすると長大な仕事となってしまうため、以下では三つの点に着目して論を進めておきたい。物語の核心には少なからず触れることとなるが、論点を絞る点からしても網羅的に言及するつもりはないため、この拙論から鑑賞意欲をそそられる人——そのような人がいるならば僥倖この上ないのだが——に対するある一定の配慮にはなると信ずる。
一つ目は、主人公である東ゆうの特異性について。公式ホームページでも「“絶対にアイドルになりたい”という夢を抱く15歳」と紹介されているように、アイドルに対して異常なまでに強い憧憬を抱いている。その異常さは、アイドルという職業が本質的に抱えざるを得ない非-人間性を何の躊躇いもなく内面化している点に最も色濃く表れている。
この内面化を具体的に説明するならば、アイドルが遵守すべきと考えられている事柄——恋愛禁止、他者から求められる姿であり続けること等——を抵抗なく受け入れるだけでなく、自らが所属するアイドルグループ「東西南北」のメンバーにも遵守を厳格に強いることと言えよう。例えば、「東西南北」の北の星・亀井美嘉に彼氏がいるとSNS上で発覚した際、美嘉を冷たく突き放す場面(https://www.youtube.com/watch?v=NmmYIs0czfk)、東以外のメンバーがライブで口パクとなった時に、自分の歌が下手であるために安堵した南の星・華鳥蘭子に対して、下手ならば練習すればいいのにと突き放す場面、アイドルという仕事に耐え切れなくなり決壊した西の星・大河くるみをよそに、人を笑顔にするアイドルという職業の素晴らしさを狂気じみた口調で語る場面(https://www.youtube.com/watch?v=IyPTkl6opBo)などに、ゆうの特異性が滲み出ている。
アイドルという職業の非-人間性については、『推しの子』でも中心的に取り上げられていた。しかし、こちらの作品では非-人間性をまさしく人間性を否定するものとして理解した上で、それでもアイドルとして生き抜くという考えが登場人物を通して前景化している。その一方、『トラぺジウム』の東ゆうは非-人間性を全く感じていない。むしろ、可愛い女の子であれば誰もがアイドルになるべきだと公言して憚らない。
アイドルを扱う作品では、どうしても職業としての非-人間性に押し潰される描写が多くなりがちである。そうした傾向の中で、むしろ非-人間性を自然と内面化し、あまつさえ他者をアイドル的規範に基づいて大いに傷付ける東ゆうという人物が立てられたことは、今までにない試みとして興味深く眺めた。
ゆうはこの内面化ゆえに「東西南北」の解散を招き、アイドルとしての挫折を経験するに至る。その後、小学校時代のクラスメイトであった美嘉から、いじめられていた自分を庇ってくれたゆうに憧れを抱いていたと告げられた——因みに、小学校時代の事をゆうはほとんど覚えていない——ことがきっかけとなり、「東西南北」に頼ることなしに一人でアイドルへの道を、人間的な歩みで再び目指していく。
東ゆうには、アイドルのオーディションにことごとく落とされた過去がある。この過去が、素の自分ではアイドルに届かないという信念を準備し、理想的なアイドルが有するべきとされる非-人間性を自然と内面化するための下支えになったと筆者は考える。こうした観点から眺めていくと、『トラぺジウム』は東ゆうがアイドルへの過度な憧憬によって失われた人間性を回復する物語と言えなくもない。
二つ目は、現代社会に顕著な病について。『トラぺジウム』の前半は、主人公の東ゆうが自らの計画に沿って、自らが住む半島地域「城州」から東西南北の美少女を集め、アイドルグループを結成する様が描かれている。この流れは、公式ホームページ(https://trapezium-movie.com/story/)が丁寧にまとめているため、そちらを一瞥していただきたい。
華鳥蘭子、大河くるみ、亀井美嘉と親睦を深めるまでの流れは、はっきり言えば作り手にとって虫の良い展開の連続である。多少の紆余曲折を経つつも、「東西南北」としてのアイドルデビューが瞬く間に果たされる描写を見て、創作物に保たれるべき現実感が希薄に過ぎるとやや暗い気持にもなった。
しかしながら、先述した東ゆうの暴挙によって「東西南北」は呆気なく解散する。作品内の時間は明確に説明されていないものの、デビューから解散までの間はそう開いていないように思われる。脱兎のごとくにデビューまで至ったかと思えば、次の瞬間には解散しているという目まぐるしさは、現代社会が抱える病を端的に示しているのではないか。
そもそも、「東西南北」デビューのきっかけは、四人が励むボランティア活動にバラエティ番組が注目したことだったが、このボランティア活動への参加はゆうがアイドルデビューのための計画として織り込んでいた一過程であった。瞬間的にでも注目を浴びることで足掛かりを作ろうとするゆうの姿勢は、どこまでも現代的である。また、「東西南北」としてのデビュー前後で一貫して、ゆうがSNS上での数値に極めて敏感である所も、どこか病的な感じを抱かせる。
何が言いたいのかと言えば、作品前半部における創作物じみた理想的な出来事の連続は、現代社会に固有の病的なものとして位置付けられることで、その臭みが抜かれ得るのではないかという話である。ただ、このように述べている自分自身、「東西南北」というアイドルグループ」の結成と解散を主軸に据えるがゆえの限界をも、『トラぺジウム』が抱えている点に物足りなさを覚えている。アイドルの非-人間性に対して焦点が絞りに絞られているからこその面白さがある一方で、東ゆうにどこまでも定位しているために生じる根源的な現実感の希薄さ——これは先ほど触れた「創作物に保たれるべき現実感の希薄さ」とは異なるもので、いわゆる「セカイ系」の作品に生じやすいものと同一視して差し支えない——は否めない。ただし、この希薄さによって作品全体の価値が大々的に傷つけられることはないと、念のために注記しておく。
三つ目は、『トラぺジウム』の題意である。前者二つが割合に捻くれた視座から見えてきた論点だった一方で、最後の論点は作品へ丁寧に寄り添う姿勢から開かれる。
トラぺジウムとは、オリオン座大星雲の中心部に位置する四つの巨大な重星が形作る散開星団につけられた名前である。言うまでもなく、「東西南北」の四人はこの四つの重星と類比的に語られているが、注目すべきはトラぺジウムという名前ではなく、この散開星団がトラぺジウムと名付けられたことそれ自体だろう。
東ゆうは一人ではアイドルになれないと感じていたからこそ、東西南北の美少女を集めてアイドルグループを結成しようと思い立つ。彼女一人——東の星——だけでは輝けなくとも、西・南・北の星と合わされば眩い光で地上を照らせるに違いないという思惑は、見事に当たった。しかし、星たちは宿命づけられたかのように衝突してしまう。その結果、輝きは須臾にして失われてしまう。
輝きを失った東の星だが、北の星との対話を起点として、自らが一人で輝き得る星なのかもしれないという意識を持っていく。そして見事に、東の星は再びアイドルとしての輝きを取り戻す。否、人間的な仕方で新たに手にしたと評さねばなるまい。西・南・北の星もそれぞれ、アイドルとは違う場所で輝きを帯びる。四つの重星は、離れながらもそれぞれの力で光っている。離れているからこそ、彼女たちはトラぺジウムという名で呼ばれる星団として、一つの完成を見たのではないだろうか。
物語の後半部には、「東西南北」の二曲目としてリリースするはずだった曲の歌詞を、四人が持ち寄る場面が挿入される。この二曲目の歌詞はメンバー四人で作る予定となっており、東は他の三人に宿題として歌詞を作るようSNSで連絡を促す。しかし三人はこの宿題を放棄し、二曲目がリリースされる前に「東西南北」は解散してしまう。「東西南北」が解散し、四人がそれぞれの光を抱き始める時に宿題が終わるという描写は、まさに離れてこその星団であることを暗示しているように思われる。
そして、星団がトラぺジウムとして名付けられるためには、名付けることのできる観測者が必要となろう。その観測者とは、工藤真司を措いて他にいない——工藤の人物造形については相当に物足りなさを感じたため、このような位置づけが関の山だろう。物語の最終盤、「東西南北」デビュー前に学校の文化祭で撮った四人の集合写真が「トラぺジウム」という名で掲げられるのは、一つの物語が幕を下ろしたという何よりの象徴ではないだろうか。星団の完成から遡って見直すと、『トラぺジウム』は極めて綺麗な終わり方を迎える作品である。
鑑賞前はあまり期待していなかったが、いざ玩味すると中々に個性的な要素の多い作品だった。友人に誘われなければ見逃したままであったと思うと、奇縁によって出会えて良かったと素朴に感じる。
個人的には、一つ目に上げた東ゆうの特異性に最も惹かれた。創作物でこのような人物が描かれたのをほとんど見たことがなかったため、新しい着眼点はまだまだ眠っているのだろうと学ばされる。アイドルに関する非-人間性の内面化は、最近の創作物でよく取り扱われがちな天才ゆえの孤独ないし無理解とは決定的に違う、登場人物の思想信条に関わる珍しい特徴づけである。欲目を出して付言するならば、その特異性をもう少し多面的に掘ってくれるとより嬉しかった。
東ゆうが人間性を回復する物語という筋で、自分はおおよそこの作品を理解したが、人間性の回復は創作物における既定路線の一種である。よほど細部に拘らないと、鑑賞者は「先が見えてしまう」ことによる無聊を託つことになる。純文学的な——不適切な表現であることを承知であえて使うが——強度を望むのが筋違いであると分かりつつも、セカイ系的な弱さを打破する一工夫があればどうなっていただろうかと考えてしまう。
つまるところ『トラぺジウム』への不満は、自分自身の奇怪な嗜好の産物でしかないのだろう。『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』のように青春の蹉跌を徹底的に劇化するような奇妙な熱を愛してやまない自分だと、物足りなくなってしまうという結論か。何にせよ、鑑賞できて良かった。
劇場版『ウマ娘 プリティーダービー 新時代の扉』をまたまた見る
ついに三回目の鑑賞に突入した。
先に触れた『トラぺジウム』と同じ日に鑑賞している。元気だ。
『ウマ娘』についても、『トラぺジウム』ほどの長さではないが、自分なりの所感を以下に綴ろうと思う。こちらも作品の核心に触れる内容となるため、気にする方は次の項目へ進んでいただきたい。
三回目の鑑賞で特に気になったのは、ジャングルポケットとアグネスタキオンとの間にある相互不理解である。
ここで言う相互不理解とは何か。それは、ターフでの走りに込める思いが全くもって嚙み合っていないことである。この相互不理解に極めて悪しき仕方で苦しめられるのがジャングルポケットで、ウマ娘としての本能を呼び覚まされるのがアグネスタキオンである。
ジャングルポケットは、皐月賞での敗退を重く引き摺ることとなる。世代最強を決めるレースである日本ダービーを勝ったとしても、心を潰す憂鬱は取り払われることがない。それどころか、今まで以上に彼女を苛むようになる。
ジャングルポケットが苦しんでいる原因は、「どんなに強くなろうとも、アグネスタキオンには遠く及ばない」という思いである。彼女が一人で抱えざるを得ないこの苦しみが、映画の中で様々な角度から描かれてきた。その多角的で象徴的な描き方がこの作品をより深いものにしているが、ここではアグネスタキオンが皐月賞の走りに込めた思いに着目していきたい。
アグネスタキオンは弥生賞を走り終わった時点で、自らの脚に限界が近づいていることを感じている。そのような状況を押して皐月賞の出走に踏み切るのは、ジャングルポケットなどの同期に道を示すためである。名前の一部になっている仮想粒子のタキオンについての言及からも暗示されるように、先が途絶えている自分が最大限の走りを見せることで、ウマ娘の限界を探るという目的を同期の走りへ託そうとしている。
そして日本ダービーを一観客として眺めたアグネスタキオンは、自分の計画が着実に進んでいることを確信する(それと同時に、自分の脚で計画を進めていないことへの違和感が、意識上に現れる)。観客のアグネスタキオンにとって、ジャングルポケットは自分を越えてたくましく進んでいるようにしか映っていないように思われる。
しかしながら、ジャングルポケットは皐月賞以後、ひたすらにタキオンの幻影によって苦しみ続けている。その苦しみは、タキオンにとって決して理解し得ないものだったに違いない。だからこそ、あのように同期の成長した走りを一面で無邪気に喜べていたのだろう。
ジャングルポケットを劣等感の沼から救い出したのは、アグネスタキオンと同じような境遇で早々と引退することとなったフジキセキであった。フジキセキによって、ジャングルポケットとアグネスタキオンとの間に生まれていた相互不理解は、相互不理解のままに良い方向へと転換されることとなる。
そして、幻影を乗り越えていこうとする強さを貰ったジャングルポケットは、その走りによってアグネスタキオンの本能を剝き出しにする。モルモットとしてのみ映っていた同期は、彼女を追い越していく確たるライバルに姿を変えていた。追いていかれるという思いに駆られて、アグネスタキオンはレース場を飛び出して走り続ける。自分の脚でなければ意味がないという旨の独白は、彼女の計画が完全に破綻したことをそれとなく告げる。幻影を乗り越えたジャングルポケットの思いは、全く予期せぬ形でアグネスタキオンに届く。相互不理解は横たわり続けるものの、それは互いに研鑽し合うための道を作るための支柱として屹立する。
ウマ娘の思いはターフでの走りに表れるという意味の台詞がタナベトレーナーから発せられていたが、この発言を私はそのまま受け取ることができなかった。反対に、ターフの中でウマ娘はどれほどすれ違っているのかを、映画が雄弁に語っているように捉えられたのである。
思えば、皐月賞の発走直前におけるアグネスタキオン、日本ダービーの発走直前におけるジャングルポケットが誰にともなくつぶやくシーンがあるが、そこでのつぶやきは音が拾われておらず、観客には口が動いている所だけが見て取れるのみとなっている。彼女たちの聞こえない言葉には、確かに聞かせたい相手がいるのかもしれない。しかし、それは決して届かない。走りに滲み出るものも、本人の込めた思いそのままとしては理解されない。あの僅かなシーンは、作品を貫く相互不理解を端的に象徴しているのではないだろうか。
「帰って来た橋本治展」を見に行く
神奈川近代文学館で6月2日まで開催されていた特別展「帰って来た橋本治展」を見に行った。橋本治については名前を何となく知っているくらいの認識だったが、聴講先の演習でタダ券を貰ったので行くことにした。因みに6月1日は、朝に劇場版『ウマ娘』の二回目鑑賞を地元で終えた後、昼に神奈川近代文学館へ行き、夕方は地元に戻って美容院へ行くという充実した一日だった。
特別展についてだが、橋本治の博覧強記ぶりにひたすら吃驚するばかりだった。日本の古典に精通するばかりでなく、所謂サブカルチャーにも目が行き届いている。画家としても多くの作品を残し、またセーターを編むという面白い趣味を持っている。小説家としての作品も多岐にわたり、独特の軽みを帯びた文体のものから、古典の翻案まで、様々である。
展覧会自体は極めて力強いものだったが、作家について知るにはその作品に触れることが最善の方法であるため、まだ満足してはならない。今は手を出す暇が全くないが、7月以降は何か手に取ってみたい。それこそ、『金色夜叉』の翻案である『黄金夜界』から入ってみるのも良いかもしれない。
牡蠣食べ放題のお店に行く
聴講先で知り合った院生の方と一緒に、演習が終わってから神楽坂にある「オイスターバー」なるお店へ足を運んだ。前々から「牡蠣を食べに行きましょう」と誘われていたが、ついに約束を果たす時が来た。
牡蠣は好物の一つで、経済学部時代——今からおよそ9年前に遡る——に手酷くやられたことがあるものの、それでも事あるごとに美味しく食べてきた。そんな好物の食べ放題ということで、欣喜雀躍ここに極まり、いつになく饒舌になってしまった。
生牡蠣への恐れが全くない訳ではなかったが、後は野となれの精神で一心不乱に喰らった。その蛮勇が功を奏したか、無事にあたらず夜を越すことができた。それどころか、帰宅後は栄養満点の牡蠣のお陰なのか、変に力が漲っていた。
牡蠣の食べ放題なので値はそれなりに張ったものの、満足感は並大抵のものではなかった。もし機会があれば、別の知り合いとも再び訪ねたい。
苦しい出来事
一向に暇にならない
重い原稿発表二本を五月中に始末したにも拘わらず、ちっとも羽を伸ばせていない。「ゲームセンターに行けなくて残念だ」という悔しさすら湧かず、『Link!Like!ラブライブ!』の「活動報告」も最新話を追えずに溜めてしまっている。
原因はいまいち掴めていないものの、生活リズムの不純さが少なからず負の影響を及ぼしていると思われる。加えて、6月21日に担当予定の発表が、真綿で首を絞めるようにじわじわと時間を圧迫しているようである。
書きながら思い出したが、最近の土日は学会や人との用事が入りがちで、課題をのんびり消化する時間がつい失せてしまっていたのも、緩やかな忙殺への道を開く要因だったのかもしれない。
とにもかくにも、乗り切らないことには始まらない。睡眠を一時的に勢いよく削ってでも、帳尻を合わせよう。
お気に入りの動画紹介
初星学園 「The Rolling Riceball」Official Music Video (HATSUBOSHI GAKUEN - The Rolling Riceball)
『学マス』に登場する花海佑芽——私が担当する花海咲季の妹である——のソロ曲。ミリオンライブでは「Thank You!」や「Welcome!!」、そして稀代の名曲「Do the IDOL!! ~断崖絶壁チュパカブラ~」の作編曲で知られる佐藤貴文が作詞・作曲を担当しているだけあって、期待を裏切らない良い曲である。佑芽の無邪気さ・快活さがそのまま引き写されているような印象を受ける。
パンティーガール
古き良き音MAD。
【ガールズバンドクライ】第11話挿入歌「空白とカタルシス」
先月の総括で私が怪気炎をあげた『ガールズバンドクライ』第11話の挿入歌である「空白とカタルシス」の動画である。アニメ本編で流れた映像そのままの動画だが、単品でもMVとして楽しむことができる。無論、作品がこれまで積み重ねてきた足跡と共に味わうことによって、曲の熱量は一入満身に染み入る。
曲の凄みもそうだが、映像の完成度も相当に高い。私は公開日から毎日4, 5回は視聴している。それくらい、この曲——ないしこの動画——から生きる上での根本的な力を賦活されている。
『ガールズバンドクライ』をまだ視聴していない方にも、とにかく聴いていただきたい一曲。この曲から興味を持って、アニメを見始めていただければ幸甚である。
排泄物みたいな心の声の寄せ集め
・「一向に暇にならない」けれども理由が定かでないなどと豪語したが、『学マス』のために研究を放棄したのが効いているのではないか。だとしたら、大馬鹿は私である。
・『ルックバック』がそろそろ劇場公開される。鑑賞後は意気阻喪となること間違いないだろうが、それでも見に行かねばならないだろう。
・『ガールズバンドクライ』は第11話で大きな雄飛を見せた。残りは2話だが、ここからどうなるのか。落ち着いて待っていられない
・一刻も早く、夏休みに突入してほしい。
・6月21日の発表準備として、国会図書館で大量に資料を印刷したが、なぜああも高値を吹っ掛けてくるのだろうか。そもそも、国会図書館内のPCでしか閲覧できない資料が存在する事実が、あまりにも馬鹿げている。
・早く「ジャンボ・性器」を大声で歌いたい。
・学費の面で父親には感謝してもし切れない一方、人間としては日に日に尊敬できなくなっている。父親は「祖父のようになりたくなかった」と言っていたが、私も同じ道を辿るのだろうか。
・自炊を始めたものの、トマトパスタしか作っていない。いい加減、ネタを増やしたらどうだ。
・新しいバイトを始めて早くも一ヶ月が経過したらしい。同僚は優しい人ばかりなので、辛さは全くない。広義の接客業だが、信じがたいクレーマーにも未だ遭遇していないので、このままであってほしい。
・嫌な告白だが、この項を書いているのは6月18日 午前5時12分である。進めておきたい研究をやった挙句の時間とはいえ、擁護できない馬鹿さ加減である。
・やっぱり、花海咲季になりたいです。
・月木寸手毛求みたいな人間に、張り手を食らわせたい。
・心は日々、幼くなっている気がする。大学院という場所で好き勝手に生きているからだろうか。この幼さを、私は大事にしていきたい。
上旬だけでこの長大ぶりに鑑みて、総括を二分割したのは正解だった。下旬は、もっと少なくなるはずである。また、少なくするつもりでいる。そうでないと、総括する楽しみを書き記す辛さが上回ってしまう。