私とプロレス①少年期
プロレスとの出会い
プロレスに本格的にハマったきっかけは1999年、
当時視聴していたWWE(当時はWWF)だったのだが、気がついたら近い感覚で新日本プロレスを見ていた。
全日本プロレスもプロレスリング・ノアもハードヒットも好きだが他の団体よりもほんの少しだけ新日本の事が好きだ。
今では会場に足を運ぶほどプロレスに熱意を持っているが、そもそも何故ここまでハマったのか理由が自分でも良く解らない。そこで精神衛生上少しでも健全でありたいと思い至り、幾つかの時期ごとにきっかけめいた物事がなかったを思い出してみることにした。
新日本プロレスへの誘い〜 "師匠"が恋した橋本真也
私にはケンゴ君という幼馴染がいた。彼との交流は30年以上前に無くなったものの、10歳である1990年頃、漫画といえばドラゴンボールや少年ジャンプといった私にAKIRAや恐らくアメコミのウォッチメンを教えてくれた罪作りで敬愛すべき師匠である。
そんな彼の家にお邪魔したとある土曜の夕方、なんとなく二人でワールドプロレスリングを見ていた時だった。
「橋本カッコいいし強いよね!!」
1990年当時の私はプロレスに興味はなかったが、『獣神ライガー』というアニメのキャラがプロレスラーになったことは勿論知っていたしサブカル&プロレスマンガの大傑作である『THE MOMOTARO』にはドハマリしていた為、アントニオ猪木の団体で『闘魂三銃士』と呼ばれる若い強者が活躍しているという知識を既に入手していた。
今となってはググれば秒で終わる話なのかもしれないが、当時の子供にとってはデータベースなんて気の利いた存在にアクセスは出来なかったし、少しでも興味のあるジャンルについては頭の片隅に書き込むしかなかった為、新日本プロレスに対して何かしらの思いを感じていたのだろう。
しかしながらその時に誰のどんな試合を見たのか一切覚えていない。何故かと言えば普段はややシニカルとも呼べる大人びたケンゴ君が橋本が戦う姿に目を輝かせて熱中し声を荒げている姿が印象的だったからだ。普段は大人びて斜に構えたクールな師匠が年相応の少年として何かに対して熱中する姿はとにかく印象的であった。
一人全日本プロレスを完遂する男
近い時期に私は学習塾にも通っていたのだが、そこには『アラケン』というアダ名のプロレスマニアがおり、休み時間に私を含めた4〜5人程度の男子で『スト2』ごっこかアラケンプロデュースのプロレスごっこをするのが定番だった。
特にアラケン君は千両役者で、我々プロレスに疎い級友に様々な配役を振り分けつつ、エルボーを放つ時は「三沢のエルボー!!エルボー!!」とセルフ実況をし、ジャンピングニーをする時は勿論「ジャンボ鶴田!!」と叫ぶ。気心の知れた我々が全員で取っ組み合う時にはスタン・ハンセンの「サンライズ」を口ずさみながら実況を挟みつつ、怪我をさせないラフファイトでバトルロイヤルを主導する素晴らしい劇場をたった一人で展開する手腕を発揮していた。
ちなみにアラケン君プロデュースのプロレスごっこにおける私の役割だが、一番背が高くてモッサリしていた為に「田上明」が割り振られていた。この辺りの他人を見る目も中々のものであった。
二人の師匠とプロレスの引力
当時多感な思春期の始まりに二人の超エリートから洗礼を受けている私が、今現在プロレスにハマってサブスクはおろか会場に足を運ぶようになった事も必然なのかも知れない。
奇しくも『アラケン』に『ケンゴ』という活躍中の現役選手を想起させる名前の人物と知遇を得ていた。ついでに言えばその数年後に佐々木健介が大好きで教室で週プロを愛読していた『ケンスケ』君ともクラスメイトとなったり、文化祭に一度だけ藤原組長率いる藤原組が来てくれていたりと、私の周囲には抗えぬプロレスの引力とでも言うべきモノが常に存在していたのかもしれない。
とはいえこの頃の私といえば格闘ゲームに熱中しており、プロレスといえばザンギエフやビッグベア、或いはアーケードゲームの『ファイヤースープレックス』や『マッスルボマーシリーズ』を多少プレイしていた位のもので、数年後にプロレスの泥濘に落ちることになるとは想像もしていなかった。