人間でありたい
多くの人の中での人間の概念は様々である
思考することが人間
自分で判断するのが人間
機械仕掛けでないもの
社会を築き上げられるもの
そう、私たちはもはや人間ではない
人間という定義そのものが曖昧だけれど、僕たちは過去先人たちが定義したヒューマンとは執拗に異なっている
上記の問いに自信を持って答えられるものはいるか?
僕は出来ない。もしかしたらあなたならできるかもしれない。だとしたらとても羨ましい、妬ましい。
何人たりとも真似事の上の思考を繰り返し、正しいと思うものを押しつけ、機械化情報科されたこの世界に気づかず、過去の先人(これが人間なのかも定かではない)の恩恵に預かりただ茫然と日々を過ごしている。
楽しいか?
腹が立って仕方ない。
言葉という発明を軽々と盗み、ネットワークという情報を使用し、あたかも自分の発明であるかのように詭弁する。
かくいう自分もその一つだ
だから、自分にムカついてしょうがない
難しい言葉を用いてビジネスを語るのも、雄弁に自分の生き様を語るのも、僕はそんな奴が大嫌いだ。
だけど、そんな僕のことも多くの人は嫌いだ。
取り繕いだと思わせる笑顔を振りまき、誰かのモノを自分のモノのように平然と悪用し、目の前の事に精一杯。
そんなことをしてなきゃ社会から外されてしまう。
きっとこんな考えは無駄だ、目の前を必死に生きろ、と唱える戯けがいるんだろう。被害妄想が過ぎると、なぜそんなにもネガティブなのかと。
だが、情報社会ってそういう事じゃないか?
自分が自ら得もしない、ただキーボードを打つだけで取得してしまう、実体験もない情報を自分ごとの様に扱ってしまう、それが今の社会ではないか?
若者と括られる僕だが、今の若者が嫌いだ。かと言って思考を押しつけてくる老害も嫌いだ。
なんて自分勝手なのだろう。だから全てを含めて、自分が嫌いだ。
だからみな、自分を好きになるための旅をしている、それが人生なのか?
だとしたらこんな人生は定められたプログラミングの世界で、みんなロボットの様に生き、ロボットの様に死んでいくんだろう。
人間なんてもうどこにもいないのかもしれない
大学休学中。海外飛び回って今はポルトガルにいます。 世界中の人と死生観を語りながらバイトでアイスクリーム作ってます。