Kaiserreichマイナー・マンデー54 クルト・フォン・シュライヒャー
原文はこちらから
今回は2回目の小記事だ。前回のゲーム内容解説でも大きくフィーチャーされた新しいコンテンツの重要人物、クルト・フォン・シュライヒャーを紹介する。ほかの政党や連立にも独自のルートはあるが、個人レベルでルートを用意したのシュライヒャーだけだ。これは彼の重要性と、史実とKaiserreichの双方で、シュライヒャーが興味深い人物だったからだ。
今日はシュライヒャーについて少し掘り下げて語ろう。シュライヒャーとは何者なのか。彼の思想とは。その経歴は史実とどう違うのか。
なぜシュライヒャー?
KRプレイヤーなら知っているだろうが、シュライヒャーは「古い」ドイツのコンテンツでも大きな役割を果たしている。彼は父権的専制主義ルートで登場し、皇帝が議会政党のパフォーマンスに失望した時、ほとんどいつでも任命できる権威的独裁体制を表現している。
これはうまい表現だが、しかしこれまでのKRドイツのルート同様に最低限の内容しかなく、シュライヒャーを真価を発揮できているとは言い難い。シュライヒャールートを残した理由の一つは、彼をもっと上手く表現するためだ。もう一つが、シュライヒャーの人物像が興味深く、集権的な軍国主義ドイツにとってほぼベストな選択だったからだ。特にKaiserreichドイツの極右は史実とはまったく異なる存在であり(詳細については後日)、彼らが目指すドイツもまったく違ったものになる。
シュライヒャーって誰? どういう人なの?
史実のシュライヒャーは、ワイマール共和国で極めて大きな影響力をもっていた人物だ。軍民に張り巡らせた人脈を駆使して国を裏から操り、パウル・フォン・ヒンデンブルクの側近サークルでも重用され、かの「大統領内閣」制度を立案した張本人でもある。これはワイマール憲法の欠陥を悪用した制度で、ヒンデンブルク大統領は議会の支持を得ずに内閣を指名し、大統領令によって議会をまったく無視して政策を進めた。30年代初頭、シュライヒャーは国の民主的基盤を侵食しながら、同時にナチス運動の伸長を押さえるという危うい綱渡りを続け、最終的には失敗した。彼はヒトラー以前の、ワイマール共和国最後の首相となった。
シュライヒャーは伝統的なプロイセン軍人貴族の家系に出自を持つ。父も、その父も将校で、その起源は連隊指揮官としてリグニーの戦いに参加し、ナポレオン軍に敗北した曾祖父にまでさかのぼる。シュライヒャーが幼少期を過ごした頃のドイツは、貴族支配や軍の優越、宗教保守などの伝統的側面を残しながらも、同時に近代化が進んでいた。かつて軍が独占した栄光は大衆も動員した戦争形体の前に消えつつあり、皇帝の権力も議会が選んだ平民と共有しなければならないという、軍民ともに新しい風潮が生まれた時代だった。この時代に成長し、やがて大戦後に要職を歴任した多くの貴族たちは、後の時代に「新貴族」と評された。彼らは、より現実的で社会の変化を受容し、現代的な枠組みで思考しながら、そのスタンスは非常に貴族的だった。シュライヒャーもこうした「新貴族」の一人だ。
第一次大戦中、シュライヒャーは前線の栄光とは程遠い後方勤務に就いた。特にヴィルヘルム・グレーナー率いる戦時局(Kriegsamt)を中心に勤務し、戦争経済と動員令の編成に携わった。ここで経済管理を担当した経験がテクノクラートとしてのシュライヒャーを育て、そのスタンスは生涯続くことになる。ジェフリー・プレオー・メガートが記したように、シュライヒャーをはじめとする一部のプロイセン将校らの間には「みずからが物事をコントロールできる力を過大評価する考え方が生まれた。時刻表を管理するかのように戦争を管理し、どんな障害も人間の力で乗り越えることができると考えるようになった」
しかしシュライヒャーは同輩たちと違った。彼は、軍産複合体のもっとも効率的な運営は、労働者団体も含めた市民社会との健全な協力を通じてのみ達成できると考えていた。1916年には戦争成金を激しく非難する覚書を作成し、SPDからも一目置かれた。当時、戦争に関わる公的需要が急増しており、グレーナーは国が介入して関連企業の利益を制限すべきと考えていた。シュライヒャーはこの思想に大きな影響を受けた。その後、右派から何の信念もないペテン師と非難されるようになり、侮蔑の意味も込めて「赤い将軍(Roten General)」と呼ばれた。
プラグマティズムはシュライヒャーの重要な特徴だ。ワイマール期の多くの将校は帝政復古や権威主義体制の到来をただ夢想するだけだったが、シュライヒャーはドイツの国力増強と安定化を望んでおり、それを達成するためなら共和派の民主政党とも率先して協力した。シュライヒャーにとって、ドイツの再軍備と国力増大が達成できるなら、共和制でも帝政でもよかった。政党も単なる権力の抽象的な単位のひとつにすぎず、その時々で組み合わせを変えていくものだった。
もう一つの重要な特徴が人脈形成だ。シュライヒャーは聡明で、魅力にあふれ、ウィットに富んでいた。捉えどころのない所はあったが、それでも友人作りに困ったことは一度もなく、長期にわたって交友を保ち、いざという時に利用した。軍部にはクルト・フォン・ハンマーシュタイン=エクヴォルト(OHL最高指揮官)、パウル・フォン・ヒンデンブルクの息子オスカー、ハンス・フォン・ゼークトと親しく、民間レベルではヴィルヘルム皇太子、そしてもっとも有名なフランツ・フォン・パーペンと交友を持っていた。シュライヒャー自身も軍民の指導的人物を中心に派閥を形成し、フェルディナンド・フォン・ブレドウ、オイゲン・オット、ハンス・ツェーラー、ロタール・エルドマン、フリッツ・タルノウらが参加していた。
しかし実際には、個人に対しても政党と同じ程度の未練しか持たなかった。妻のエリザベートにしても、結婚したのは政治的影響力のためだった。彼女はプロイセン将校の娘というのもさることながら、美貌と魅力を備えていた。なにかの催事に出席させれば夫であるシュライヒャーにも注目が集まり、さらに人脈を広げられる。
またテクノクラート、プラグマティズム、社会的・進歩的な経済学に傾倒してはいたが、それでもシュライヒャーは根幹の部分で貴族だった。彼の考える影響力とは「人」を通じて発揮されるもので、必ずしも「政党」や「思想」ではなかった。このことは、史実でのナチスとの政争でシュライヒャーが敗北した大きな要因のひとつとなる。
そしてもう一つ、シュライヒャーについて語るべきは、悪性の貧血だ。彼は長くこの病に悩まされ、30年代には命にかかわる病だった。20年代から34年に命を落とすまでの間、彼は緊張と隣り合わせの生活を送り、病状は悪化し続けていた。一説には「長いナイフの夜」事件がなくとも、あと数か月の寿命だったのではないかとも言われている。KRではシュライヒャーの貧血について、完治はしてないものの史実よりもずっと軽い症状ということにした。革命や反乱が起きず、ナチスと対立せず、命を脅かされることもないため、彼は史実よりも平穏な生涯を送っている。
なぜシュライヒャーは父権的専制主義ではなく、権威的民族主義なの?
前回の記事で気づいた者もいるだろうが、シュライヒャー政権は権威的民主主義のイデオロギーで登場し、全権委任法が制定されてからもそれは変わらない。これは開発の早い段階で決まった。つまるところ、シュライヒャーはプラグマティストであって熱烈な絶対主義者ではないからだ。またドイツで用意される父権的専制ルートと違って、シュライヒャーは大政党を非合法化したり普通選挙を廃止したりしない。彼のドイツは全体主義に近い制度を作るだろうし、打倒することもできないから、決して甘い道ではない。それでも投票はできる! それも野党に! よかった!
しかしシュライヒャー独裁は特定のルートで父権的専制に移行する。
Kaiserreich世界のシュライヒャー
史実とのシュライヒャーの分岐点は、KR世界への分岐点の直後に訪れる。1920年、当時すでにSPDや他の議会政党から嘱望されていたシュライヒャーは、参謀将校として老将ヒンデンブルクと議会改革派の交渉を仲介。ルーデンドルフの孤立化とその屈辱的な辞職、そして三月憲法改革への道筋を開いた。
ヒンデンブルクはSPDや中央党、リベラル派にはさしたる敬意を払わず、議会改革派は反動的支配からの解放を望んでいた。シュライヒャーはこの両者の間を往復し、結果としてヒンデンブルクにほとんどの改革案を呑ませ、交換条件として陸軍の特権を保持するとの約束を引き出した。この一件でシュライヒャーは軍民の双方に有益な味方を得た。
戦後は史実同様、戦時局時代の上官ヴィルヘルム・グレーナー将軍に従い、グレーナーもシュライヒャーを忠実な教え子として扱った(ただグレーナーは史実ほど強大な権力を持っていない)。グレーナーは進歩的政党と良好な関係を築いていたため、プロイセン王国でリベラル政権が発足すると陸軍大臣に任命され、シュライヒャーは次官として師を補佐した。
それと同時期にシュライヒャーが接触したのがハンス・フォン・ゼークトだ。彼は陸軍内の改革派に属しており、1925年に陸軍参謀総長に就任した。ゼークトは航空軍を独立させるなどの改革を推し進め、軍部保守派や文民政府から大きな反感を買った。改革実現には議会・陸軍の反対派と交渉して納得させられるだけの繊細な手腕の持ち主が必要で、シュライヒャーはまさに適任だった。
こうして20年代後半にシュライヒャーの功績は積み重なり、とうとう1931年にプロイセン陸軍大臣に任命された。帝政ドイツでは憲法に抵触するため、中央政府は独自の陸軍大臣を設置できない。そのためプロイセン陸軍省が中央の軍政を担当し、軍の人事と動員、武器装備の調達、給与と恩給の支払いなどを一手に担っていた。伝統的に実際の作戦立案への発言権を有しておらず、戦時中はほとんど無力な地位とみなされがちなポストであったものの、シュライヒャーはここで近年まれに見る強大な権力を振った。軍民双方に大きな影響を与え、両者の架け橋となった。
1934年、シュライヒャーはルバーン湖危機を利用してますます発言力を強める。ロシアでボリス・サヴィンコフが大統領に就任したことで独露関係は悪化、ロシア=バルト連合公国国境での偶発的衝突によって外国危機が勃発した。この最中、シュライヒャーは持ち前のプラグマティズムを発揮。東部の安定維持のため、ロシアとの交渉と独露協定の再締結案を提唱した。これと真っ向から対立したのが軍内保守派の陸軍参謀総長オットー・フォン・ベロウで、彼は強硬な対応を支持した。最終的にシュライヒャーが文民政府と世論を味方につけて、ベロウを退役に追い込んだ。後任の参謀総長にはシュライヒャーの友人クルト・フォン・ハンマーシュタイン=エクォルドが就任した。さらにシュライヒャーは細心の注意を払って皇太子経由で皇帝に接触、当時の帝国宰相ヨハン・フォン・ベルンシュトルフの解任を進言した。
そして予想通り、ベルンシュトルフの後を継いだヘルベルト・フォン・ディルクセンは弱腰で支持基盤も脆かった。ディルクセン政権下で3月連立が失政を重ね、政治的停滞がますます国を覆うにつれ、シュライヒャーに期待の目が集まった。1936年、シュライヒャーは帝国宰相の候補として広く期待されているが、今のところ申し出を固辞している。彼としては4月の選挙を待ち、その結果を踏まえて政権の座を射止めるつもりだ。
最後まで読んでくれてありがとう! 次回は金曜日、第2回目のゲーム内容紹介をお楽しみに!