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Kaiserreich進捗報告 ドイツのリワークと新しい戦間期設定
原文はこちらから
これから一か月、毎週金曜日と月曜日に新しいゲーム内容と設定についての記事を公開する。対象はドイツ帝国、次回のアップデート「The Empire Strikes Back」でリワークされる国家だ!
これは演習ではない。
待って!? ドイツのリワーク?いつの間に!?
最初にドイツの更新計画に取り組んだのは2年前の2021年8月後半のことだった。当時ドイツリワークを担当していたチームの体制が変わって、メンバーもほとんどが去ったこともあって、リワークは1年近く凍結状態にあった。そこで一から作り直すことにした。
それからコーディングを担当する一方で、設定とテキスト面ではLehmannmoに参加してもらった。私たちは協力して、Kaiserreichの中でも一二を争うほどに詳細かつ徹底したリワーク計画を作り上げた。1917年からのドイツの歴史や各政党、帝国領邦などの設定を細部に至るまで作り上げ、ドキュメントは数百ページも積み重なった。中身もできるだけ既存のkaisereichの設定とすり合わせつつ、新しい展開を盛り込むよう務めた。
こうしてリワーク計画は2022年に開発チームから承認が下りた。それ以来、およそ2年近くの間ノンストップで作業を続けてきた。
実はリワーク計画が始まった数カ月後には、その存在についての情報を出している。ブラックマンデー対策のシステムを先行公開し、リワークのコンテンツについてのヒントを与えた。それ以来、リワーク内容と設定変更について不定期で暗号めいた情報を公開してきた。しかし明確な説明については回答を控えた。これはバルカン地域のリワークで使ったのと同じやり方で、大きな成功を収めたと思っている。だからドイツでも同じように情報を隠してきた。
しかしそろそろ公開すべき時だろう。
何を期待すべきか?
リワークについてはコーディング作業はほぼ完成している。すでにゲーム開始から終了までプレイできるようになっており、現在はテスト中だ。サイズ上は、一個の国家タグとしては最大級のリワークとなる。NFツリー、イベント、ディシジョンのファイルはすべてKR最大のサイズで、どのルートも独自のメカニズムと多数のイベントが用意され、それぞれが異なるプレイ体験を味わえる。
ゲーム内容については来月から順次公開する。それまでは、このドイツのゲーム開始設定をお見せしよう!
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3月から4月へ
軍部支配が終わった1920年、ビスマルク憲法の修正案、通称「3月改革」が承認され、ドイツ帝国はまったく新しい、真の意味での立憲君主制の時代に突入した。戦後の民意を形にしたのが、リベラル諸党と中央党による「3月連立」だ。彼らは3月に勝ち取った成果の堅持を最優先課題とした。ときには左派や右派とも協力し、両派の伸長を抑えながら、外交では世界政策(Weltpolitik)を完成させた。SPDとDVLPが宰相の地位から遠ざけたことで、ヴィルヘルム2世もこの連立を支持した。皇帝は3月連立の候補から、あるいは連立に協力的な人物を宰相を任命した。
この連立はもう終わった。自由人民党の衰退、傲慢と媚びの入り混じったヘルベルト・フォン・ディルクセン宰相の姿勢、「永年野党」の議席数増加などが、3月連立を死に追いやったのだ。1935年中頃、連立は解消され、宰相は議会からの支持をほとんど失った。政権からの排除に抗ってきたSPDとDVLPは、宰相不信任決議案の提出を拒否している。ディルクセンを実権のない玉座に押し込め、今年4月の帝国議会総選挙まで生殺しにするのが狙いだ。3月が終わり、4月を迎えようとしている。
大戦の勝者
1919年11月6日、銃声が鳴りやみ、世界大戦は終戦を迎えた。そしてドイツは5年に及んだ過酷な戦争を耐え抜き、勝者として君臨した。これで国民は確信した、ドイツ軍は無敵だ──フランスを二度も倒し、ロシアを完膚なきまでに粉砕した。ドイツ陸軍の俊英たちは勝利の立役者となった。戦車や諸兵科連合などの新たな兵器・戦術も活躍し、従来の機動戦ドクトリンに組み込まれた。空軍(Luftstreitkräfte)も忘れてはいけない。1927年の政争で、空軍は陸軍から独立した。
しかし常勝無敗であるはずのドイツ軍も、組織としては問題だらけだ。勝利の栄冠の陰で、軍は進むべき方針も定まらず、貴族が要職を独占し、三軍は互いを軽蔑している。陸軍ひとつをとっても派閥化が進んでいる。それぞれ独自のやり方で危機を解消しようとしているが、文民政府内では軍改革の機運は軒並み低い。しかしやがて訪れる二度目の大戦に勝利するためには、これらの問題を解決しなければならない。
ドイツ世界帝国
ドイツ帝国は世界の頂点に君臨している。20年前の仇敵たちは革命に倒れ、帝国を手放し、大きく衰退した。この新世界では、ヨーロッパの経済・文化・政治の心臓ベルリンこそが中心だ。我々の使命は、この新たな世界を全力で守ることだ。敵は無数に存在する。
クリスマス高騰
長年続いた投機的な資金運用、それに高い利回りを誇るドイツ国債が市場にまん延したことで、ベルリン証券取引所は空前の上げ相場となっている。帝国統計局が発表した指数によると、株価は記録的な勢いで高騰している。この影響で市場は乱高下を繰り返しているが、それでも総じて非常に利益が出やすい市況となっている。すさまじい勢いで広がる資金は貯金や堅実な投資、あるいは(そしてほとんどが)さらなる投機に回されている。株価の高騰はこれからも永遠に続く。そうでなくとも皆が儲かるまで続く。という意見が衆目の一致するところだ。
ヘルベルト・フォン・ディルクセンはプロイセンの官吏一家に生まれ、非常に保守的な風土のなかで育った。父は皇帝ヴィルヘルム1世の熱烈な支持者で、1887年にヴィルヘルム1世から貴族に叙され、帝国議会に議席をもつ自由保守党員でもあった。ディルクセンはみずからの「純粋なドイツ的生まれ」を誇りにし、1年後に即位したフリードリヒ3世が叙任した貴族を見下していた。高踏的で強情な「新興貴族」に成長し、何度も本物のユンカーになろうとした。
世界大戦中はドイツ外務省の特使として世界中を飛び回り、戦後も省内で昇進を重ねた。ディルクセン最大の功績は、1926年のヴィリニュス協定締結だ。ロシアと結んだこの取り決めによって、ドイツの東方政策はより平和的な融和路線にシフトした。そして対露関係が悪化した1934年、ロシアへの知見を評価されて、当時の宰相ヨハン・フォン・ベルンシュトルフの後任候補に選ばれた。ディルクセンはこれを快諾し、ドイツ帝国政府で繰り広げられる政治ゲームの仲間入りを果たした。しかし議会の慣習にうとく、忍耐力もないディルクセンはたちまち信任を失い、与党連合は崩壊し、今では形ばかりの玉座に取り残されている。
ジークフリード・フォン・レーデルン(1870~)はシュレジエンに出自をもつ貴族の家に生まれ、その後伝統的なプロイセン官吏の道を歩んだ。法学と政治学を修めたのち、フランクフルトで司法試験に合格。以後20年にわたってプロイセン王国政府で働いた。ニーダーバルニム着任中、レーデルンは数々の改革を実行した。新しい道路や病院を建設し、地区の完全電化を推進。優秀な行政手腕の持ち主との評判を得た。戦時中にこの功績を買われ、レーデルンはキャリアの代名詞ともいえるポスト、帝国財務省長官に任命された。当時の財務状況は逼迫しており、制度の合理化と歳入増加を実現できる優秀な指導者が求められていた。レーデルンはその任を全うした。彼が戦時中に着手した財政改革は、後の税制政策の基礎となった。
戦後もレーデルンは政界に留まった。たびたび宰相候補に名前が挙がったが、レーデルンはプロイセン政界に移動した。戦後の憲法改正によって、宰相に対する議会の権限が強化され、それまで兼職だったプロイセン首相と帝国宰相は分離するようになった。1925年、レーデルンは次期プロイセン首相に任命された。以来、一貫して不党不変の姿勢を崩さず、中道から右派までの大連立政権を指揮し、社会民主党を排除してきた。現在も国民保守主義を追及しつつ、穏健路線を歩んでいる。この方針がいつまで続けられるか、それはまだ分からない。
今回は新しい前史の要点を紹介する。これまでの古いドイツ前史とは全く異なる内容に仕上がっており、次回紹介する最初のゲーム展開に繋がる下地になる。
新しい戦間期の前史について触れる前に、あまり熱心ではない読者のために基本的な前提についておさらいしておこう。これまでの前史の大きな問題点は何だったのか? どのような部分が変更されたのか?
KRの他の地域や国と比べて、ドイツの現行設定とゲーム内容が見劣りするのは、皆も頷くはずだ。今のドイツは、根本的には1917年の政治情勢を1936年にそっくりそのまま引き写したものに過ぎない。古い戦間期設定の一部(ルーデンドルフ独裁、東部援助スキャンダル、ティルピッツ政権)の起源はMOD最初期の00年代中盤にまでさかのぼり、そこにはドイツの歴史や政治に対する著しい誤解が含まれていた。1936年の政党の中身も20年前と変わっておらず、復活祭勅書や連邦参議院の解体がゲーム開始時の大きな争点になっているのも問題だ。
そのため次のような変更を加えた。
ドイツはもはや20年も改革を待たない。その代わり「3月改革」と呼ばれる全国規模の幅広い議会改革と、連邦レベルでの参政権改革が、1920年に実現している。詳細については後述する。これによってゲーム開始時のドイツは(半)立憲君主制ではなくなり、(ほぼ全面的な)議会制が導入される。これはイギリスに似ているが全く同一ではない。そのためリワーク後のドイツは社会保守主義のイデオロギーでスタートする。
ドイツの世界大戦と戦間期の前史を大幅に拡張し、今後予定されているフランス・コミューンやイギリス連合、現在の中国に匹敵するディテールを与えた。ルーデンドルフ独裁は(少なくとも現行設定のような形では)存在せず、第三次OHLは20年初頭には政府中枢から排除されている。ティルピッツは一切の妥協を許さないその性格と、カイザーに疎まれていた事実から、宰相になることはない。これに代わって、20年代から30年までのドイツ前史には政党出身者から無党派まで数々の宰相が登場する。さらも連立や選挙についての詳細な設定も用意した。
政党史も刷新した。ドイツの諸政党は1917年のコピーではなくなる。20年代にダイナミックな離合集散を経験し、新たな政党が誕生したり、解散したり吸収されたりした政党もある。主要政党とその中心人物については、これから毎週月曜日にスポットライトを当てていく。
いちばん大事にした目標は、現行設定のように、ドイツを疑う余地のない世界的覇権国家として描かないことだ。ドイツは戦争に勝利したとしても、低迷する経済の回復、非効率的な農業、国内の政治対立など、解決しなければならない課題が山積みだ。我々はドイツにより深みを与え、ステレオタイプな描写を減らすつもりだ。
ここではKR世界の戦間期ドイツにおける宰相と政権の概略をお見せしよう。
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新しい設定は非常に多岐にわたる。文字数制限のあるこの記事で詳細を網羅することはできない。そのため、ここでは基本的な要素だけを抜粋して掲載する。より詳細な設定はGoogleドキュメント(英語)に掲載し、戦時中から30年代までの重要なできごとを時系列順に並べた。当然この略歴でも全ての要素は解説できないが、リワークが実装された後に、大量の設定を順次wiki(英語)に掲載する。細かい設定に興味がある人はそちらを参照してもらいたい。
ではまずはKRの分岐点となった重要な年、1917年から見ていこう。
運命の1917年
1917年1月、ドイツ帝国は窮地に立たされていた。前年12月末の和平交渉案は連合国に拒絶され、クリスマスに終わるはずだった戦争はいよいよ終わりが見えなくなっていた。
東部戦線は安定していた。ブルシーロフ攻勢を食い止め、ルーマニア全土も占領した。直後にロシア2月革命も発生し、もはやロシアは主要な相手国ではなくなっていく。しかし西部戦線ではソンム攻勢でおびただしい犠牲者を出し、ヴェルダンからフランス軍を追い出すこともできず、ドイツの戦力はほぼ枯渇しきっていた。未来はまったく不透明だったのだ。
明らかに1917年はKRのみならず、史実における帝政ドイツ史を語るうえでもっとも重要な年だ。さまざまな出来事が思いもよらぬ結果に繋がって、ドイツの未来を予想できない方向に動かした。
1)無制限潜水艦作戦についての議論
連合国がドイツとの講和を拒絶したことで、潜水艦作戦強硬派の主張はますます強まり、戦争に勝つためには最終手段に訴えるしかないとの意見が一層強まった。しかしKR世界では穏健派が勝利した。1917年1月、皇帝ヴィルヘルム2世が無制限潜水艦作戦の再開を認めなかったのだ。これはKR世界への転換点となる出来事で、この決断がアメリカの参戦を防ぎ、ひいては2年後のドイツ勝利につながった。
しかしこの現行設定の問題点は、無制限潜水艦作戦についての議論が1917年1月を最後に再燃しなかったことだ。もしも作戦が再開されていなかったとしても、史実で1916年に何度も蒸し返されては否定されたように、その後もホットな議論でなければ不自然だ。
リワーク後の設定では、17年1月のヴィルヘルム2世による決定後も、制限潜水艦作戦(国際的に認められた海上捕獲法に基づく作戦で、史実でも1916年には再開されていた)が継続され、しかも強硬派が予想していた以上の大戦果を挙げた。しかしイギリスもより効率的な対潜作戦を導入したことで、段々と戦果が上がらなくなっていく。さらに現在の設定ではイギリスがクリスマスのプレゼントを載せたアメリカ籍の船舶を撃沈してしまい、結果的に1917年末にイギリスの海上封鎖が緩和されたことになっているが、これも削除される。ドイツは戦争末期まで海上封鎖に苦しめられることになる。その結果1918年に無制限潜水艦作戦問題が再燃し、ドイツの政府中枢でも大きな議論を呼ぶ。これについては後で解説する。
2)軍の影響力増大
1917年は、パウル・フォン・ヒンデンブルク参謀総長とエーリヒ・ルーデンドルフ補給総監率いる第三次OHL(ドイツ陸軍最高司令部)の権勢が頂点に達した年でもある。あらゆる戦線で大戦果を上げる2人の名将を、国民はまるで聖人であるかのように歓迎した。常勝無敗の名声は「ヒンデンブルク神話」と呼ばれるまでに高まり、ルーデンドルフ共々欠かせない、言い換えれば解任できない存在になった。結果を出し続ける限り、ヒンデンブルクとルーデンドルフは法そのものだった。特にルーデンドルフは、この名声の使い道を熟知していた。
1916年、ヴェルダンの戦いでの敗北とルーマニアの連合国参戦の責任を取ってファルケンハイゼンが解任され、ヒンデンブルクとルーデンドルフを頂点とする第三次OHLが発足した。2人は、さっそく自分たちの発言権を大幅に強めた。カイザーと文民政府に口を挟ませず、政敵を一人またひとり排除した。
これはすべて皇帝に圧力を加える形で行われた。2人は、要求が通らなければ辞職すると脅しつけた。2人の能力と名声を踏まえれば、到底受理などできなかった。こうして1917年1月、ヒンデンブルクとルーデンドルフは権謀術数の限りを尽くして、政敵に対して決定的な勝利を収める。国内の政治改革を推し進めようとしたテオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェーク宰相を辞職に追い込んだのだ。この機を境に2人の権力は決定的なものとなり、後続の宰相たちもOHLの意向を汲んだ政策を進めていく。ここに「ルーデンドルフ『独裁』」が始まったのである。
しかし、なぜ括弧付きの「独裁」なのか? 実際には、すべての民主主義的な制度・機関は、法的にはこれまで通り存続していたし、皇帝も最高意思決定権を掌握したままだった。ルーデンドルフとヒンデンブルクが振るった強大な権威の拠りどころは、ひとえに名声と崇拝であり、一切の憲法的根拠を持たなかった。すなわち戦争に勝利して2人を引き留める理由がなくなれば、もはや「独裁体制」はアンタッチャブルな存在ではなく、当初よりもずっと不安定な状況におかれる。そうなればもう、皇帝の指図ひとつでいつでも終止符を打ててしまう。これは後に紹介する前史で重要なポイントとなる。
3)民主的な議会統制の強化
1917年は第三次OHLの年であったが、皮肉にもドイツ民主主義の歴史にとっても重要な転換点だった。1916年末には「城内平和」政策による全党一致の戦争活動支援は終わり、帝国議会の民主派最大勢力の社会民主派(SPD)、社会自由派(FVP)、カトリック保守派(中央党)は、議会改革と早期終戦を声高に訴えはじめた。また1916~17年の「カブラの冬」によって全国でハンガーストライキや反戦デモが頻繁するなど、挙国一致の時代は過ぎ去っていた。1917年2月、SPDは選挙制度改革案をふたたび提出。社会主義者やリベラル派の悲願であったこの改革案を、ベートマン宰相やカイザーも消極的ながら支持した。
こうしてヴィルヘルム2世は「復活祭勅令」を発布。明言は避けたものの、戦争終結後にプロイセンの選挙制度改革を公約した。曖昧な形とはいえ、これは民主派が最初に得た大きな成果となる。1917年のベートマン退任によって、民主派の内政に対する発言権はさらに増大した。この優柔不断な帝国宰相の辞任は、ひとえに議会とOHL(お互い別の思惑があったが)との協力があってこそ実現した。この事件から終戦まで、ドイツの政治状況は軍事的・民主的統制が同時に強化されるという、両極端の転換点を迎える。例えばゲオルグ・フォン・ヘルトリング政権(1917~18)の段階で、すでに数名の政党政治家が閣僚入りしている。
民主的統制はゆっくりとだが確実に強化された。OHLはベートマン以降の宰相を思うままに就任させることができたが、議会民主派政党も、リベラル政党や中央党の協力者を大臣に任命できる力を持っていた。先に挙げた三党は調整組織の「院内会派間委員会(IFA)」を結成。国内の民主改革や和平予備交渉開始についての可能性を検討しはじめた。1917年には帝国議会講和決議が可決。いざという時には戦争継続に反対する姿勢を見せ、これを機に極右派が要求する大規模な領土併合を含めた講和論は勢いを失う。
1917年にはIFAの影響力はまだ比較的限られていたが、戦争が長引くとともにその権力は増大していった。この結果どうなるかは、またしても後に紹介しよう。
議会主義への道のり
史実同様、KR世界でも戦争長期化によって指導的エリート層に対する大衆の不満は高まっていった。大きな政治的要求は不平等なプロイセン三級選挙法、および帝国レベルでのさらなる議会権限の拡大だった。当時の帝国議会は国民による自由投票で選ばれていたが、政府の政策に対する直接的な発言権を有しておらず、もっぱら諮問と予算の追認しかできなかった。
戦争の長期化によってストライキは毎日のように発生していた。KR世界では国内の不満は1918年9月末に頂点に達し、スパルタクス団やブレーメンの左翼過激派による「9月騒乱」事件に繋がる。その背景と詳細については上記のドキュメントを参照されたい。
結論としてこの騒乱は失敗・弾圧され、ふたたび軍事的・民主的統制が強まる結果となった。ヘルトリング政権は全方位から圧力を受けて退陣。ドイツ軍最高司令部はこれをチャンスとみて、軍の総力戦計画を無条件で支持する右翼強硬派の人物を宰相に据え、国内の統制を強めようとした。この目標は保守的右派の構想とも合致していたが、IFAが反発。大衆からの支持拡大をねらって更なる民主改革を求めた。
最終的に関連勢力は妥協案で合意した。その内容もドキュメントで確認できる。ヘルトリングの後任は軍部寄りの強硬派ではなく、無党派の外交官ウルリヒ・フォン・ブロックドルフ=ランツァウが就任した。優秀な調停役で進歩派寄りでもあったブロックドルフの宰相就任は、OHFとIFA双方の利益にかなっていた。まずブロックドルフ内閣はドイツ史上初となる、実際に議会を基礎を置く政府だった。政府を支える全ての政党(中央党、SPD、FVP、さらにはNLP)はそれぞれ独自の長官(訳注:大臣に相当)ポストを獲得し、例えばSPDからはグスタフ・バウアーが労務長官に就任した。ほぼ間違いなく、ドイツ史に残る議会主義の大きな勝利だった。
しかしその一方で外務長官パウル・フォン・ヒンツェやプロイセン陸軍大臣ヘルマン・フォン・ステインなど、OHLの主だった協力者も留任し、ルーデンドルフはブロックドルフ政権の外交政策を実質的にコントロールできた。限定的な改革を認めることで、ドイツは外部に向けて民主的な法治国家としての体裁を維持した。またOHLも権限を強化し、政府への圧力をより間接的に強めることができた。さらにルーデンドルフは、もしもドイツが敗北しても(1918年にはまだ勝敗は分からなかった)敗戦責任を進歩改革派になすりつければ自分の命は助かるだろうとの思惑があった。
1918年にはエルザス・ロードリンゲンにも改革が導入され、プロイセンをはじめとする反動的領邦の旧来の選挙法が僅かながら改革されるなど、大衆への宥和政策が取られた。しかし政府と皇帝は陸軍や海軍、極右勢力にも譲歩を迫られた。検閲が強化され、そして何より、無制限潜水艦作戦の再開が決まった。すでに制限潜水艦作戦は戦果を得られなくなっていたが、多くの国民はむしろ再開を求めていたのだ。海軍省と海軍本部の上層部も再編され、アドルフ・フォン・トローザなどの親ティルピッツ派将校が要職を占めた。また海軍本部長の権限が大幅に拡充・強化され、史実のように海軍本部(SKL)の発足に繋がった。こうして1918年11月1日、無制限潜水艦作戦は正式に再開されることとなった。
この物議を醸すだろう設定変更について、アメリカの対応はどうだったかとの疑問は当然出てくるだろう。予想通り、作戦再開によって最も大きな影響をうけたアメリカとの関係はすぐさま悪化し、米国籍商船の沈没によって米独は国交断絶に至る。しかし史実の1917年初頭と異なり、1918年末のアメリカはとても参戦できる状況ではなかった。アメリカ風邪の大流行で国内死者数が毎月数万人に上っていたうえに、協商陣営も1年半前より劣勢に立たされていた。フランス国内では社会主義運動が勢いを増すなどネガティブな報告が相次ぎ、ロシアも完全な内戦状態に陥っていた。社会主義運動はアメリカでも問題になっており、民兵組織の数を増大させていた。無制限潜水艦作戦の再開は、中央ヨーロッパへの海上封鎖を解除する意味ではほとんど効果がなかったが、何よりも国民の溜飲を下げた。
平和は何処に? 1920年ルーデンドルフ危機
スペースの問題があるので、戦争最後の年と講和条件についてはドキュメントに移す。要約するとドイツは1919年夏に戦争に勝利した。しかしその実態はどうだったのか? 1920年初頭の政治情勢を詳しく見ていこう。
1920年、ドイツ国内にはなおも緊迫した空気が漂っていた。戦争に勝利し封鎖も解除されたとはいえ、不満は高まる一方で、平和などはるか先の出来事だった。OHLによる検閲などの民間統制は未だ解除されておらず、選挙は延期され、動員解除も「国家的安全」を理由に停滞していた。
こうした措置をルーデンドルフが正当化したのは、当時のヨーロッパの極めて不安定な状況だった。ドイツ周辺の国際情勢はまたしても緊張の度合いを高めつつあった。敗戦国フランスでは革命運動が全土に広がり、ロシア内戦は最終局面に突入していた。そしてベルリンは、フランス・コミューンやロシア白軍のどちらとも安定した外交関係を持っていなかった。
ドイツ国民は、報復主義のロシアに東部から、社会主義国家フランスに西部から包囲されるのではないかと恐れた。そうなれば新たな戦争は免れず、OHLの独裁も続き、またしてもドイツ兵の命が大量に失われてしまうのではないか。OHLが動員解除に徹底して反対し、それにルーデンドルフが講和にも権力の移譲にも興味がないことがだんだん明らかになった。彼の目は戦争の継続にのみ向いていた。
大都市では平和と改革を支持するデモが発生したが、現地憲兵隊はこれを強制的に解散させた。この不安定で流動的な情勢を利用したのが、帝国議会内のIFAだった。社会民主党、リベラル諸政党、カトリックからなる改革派統一戦線は、都市部で高まる改革の声を背景に即時動員解除、さらなる民主改革、選挙の実施、そして全面的な議会制導入を求めた。議会民主派は都市部のデモ行進に賛同し、フランス革命や1918年の騒乱事件の再来を防ぐためには改革が必要だと訴えた。
2月には議会で憲法修正案の協議・起草のための超党派委員会が設立され、ドイツは真の議会制君主国家に変わろうとした。この動きはブロックドルフ宰相のみならず、皇帝ヴィルヘルム2世からも支持された。長らく戦争指導の中枢から遠ざけられていたヴィルヘルムは、OHLの専横に対抗する「国民皇帝」として改革路線を支持することで、軍に奪われた内政問題への発言権を取り戻せると考えた。
議会派の一連の動きに激怒したのが右派だった。伝統的な保守政党は改革議論のなかでほとんど麻痺状態に陥り、その衰退ぶりを露呈した。しかし汎ドイツ連盟やドイツ祖国党(DVLP)など院外極右団体は、改革案や検閲の即時廃止に強く抗議した。彼らは「都市を跋扈する過激派」に譲歩すれば、フランスの二の舞になると喧伝した。
ルーデンドルフはもちろん議会の策謀に反対した。皇帝を説き伏せて議会の改革審議を停止させ、必要とあらばブロックドルフ宰相の解任などの強硬手段もやむを得ないと判断した。ルーデンドルフは皇帝に対して、ドイツがふたたび二正面作戦を耐え凌ぐためには、現行の強権的体制があと数か月続かなくてはならないと持論を述べた。そしてもし要求が通らなければ、何度もそうしてきたように、辞任すると迫った。
しかし今度は事情が異なっていた。ルーデンドルフは気付いていなかったが、彼の一番の協力者であったはずのパウル・フォン・ヒンデンブルクは、数か月前から独自の裏工作を進めていた。ヒンデンブルクは、ルーデンドルフの権力欲と誇大妄想が、さながらイカロスの故事のようにドイツを破滅に追い込むのではないかと懸念していた。彼自身は講和条件に満足しており、軍の権威が損なわないならば議会制改革にも文句はなかった。そのため数週間前から複数の仲介役を通じて宰相や議会のリーダーたちと秘密裏に交渉を進めていた。こうして「ブロックドルフ=ヒンデンブルク密約」が結ばれた。ヒンデンブルクは軍部の改革支持を約束し、その代わりに政府から軍の独立性について手を付けないとの保障を得た。
すなわちルーデンドルフはOHL内で孤立無援だった。そして彼が辞表を差し出したとき、いつもなら慰留するはずだった皇帝は、しかしそのハッタリを見抜いていた。パートナーであるはずのヒンデンブルクからも見放された。かくして1920年2月13日、かつて「独裁者」と広く恐れられた男は、考えうる限りもっともつまらない最後を迎えた。駆け引きや引き留める声もなく、ただ皇帝の手で解任された。ドイツ帝国における軍の権力拡大を裏で操った張本人は、あっけなく排除された。ヒンデンブルクは数か月後に参謀総長を退任し、戦争の英雄としてふたたび退役した。
3月憲法と新たな議会制秩序
ルーデンドルフの退任からほどなくして、帝国議会の過半数が共同でビスマルク憲法を根底から覆す修正案を起草した。内容の詳細については、しつこいようだが付属のドキュメントを参照。改革の要点は、完全な議会制が実現した。帝国宰相は議会の多数派によって政府を構成し、議会は不信任決議で宰相を解任できると定められた。帝国議会の議員たちは、政府長官を兼任できるようになった。宣戦布告や講和条約の締結には議会の同意が必要となり、枢密院制度も廃止された。アルザス=ロレーヌでも大幅な改革が実施され、帝国直轄領から領邦国家のひとつ、エルザス=ロートリンゲン大公国に昇格した。
「3月憲法」と呼ばれた一連の改革はSPDを中心に絶賛され、1871年憲法制定に匹敵する成果ともてはやされた。しかし実際に制定された修正憲法は、既得権益層との妥協の産物でもあった。皇帝は帝国宰相の任命権を保持していた。また軍の統帥権も皇帝が握っており、軍は議会への説明責任を持たなかった。いずれにせよ、改革の立役者であるブロックドルフ宰相は3月改革の精神的父として歴史に刻まれた。そして戦後初の帝国議会選挙からほどなくして、ブロックドルフは自ら辞意を表明し、新たな議会主義体制の顔ぶれに後進を譲った。
繰り返しになるが、その後のドイツ戦間期の政治については、この記事では概略にとどめておく。ここでは1920年から31年までの数年間を、重要な事件やできごとについて概説しながら説明していく。
1)黒・赤・金の時代(1920~23)
当時の与党三党(中央党、SPD、FVP)と1848年の民主主義精神を由来とする黒・赤・金の時代は、IFAから続く三党連立の絶頂期だった。元植民地長官で非政党人のヴィルヘルム・ゾルフ政権(1920~22)、それに後続の中央党出身者マティアス・エルツベルガー政権(1922)のもと、三党は1920年選挙で獲得した安定多数を背景に、国内外で進歩的な政策を進めた。中欧経済圏の枠組みが出来上がり、イギリスやフランス・コミューン。ロシアとの関係改善が始まった。しかしその多くが長期的・短期的には失敗した。以来、三党連立は内部で対立し、税制や労働政策をめぐって激しい内紛に揺れた。
ゾルフは旧憲法時代の宰相のように高踏的姿勢を崩さなかった。新たな議会体制下では、すべての政治決定が多数派政党との協力によって実現させなければならない。結局ゾルフは与党連合と衝突し、1922年に退陣した。しかし後継者のエルツベルガーはさらなる窮地に追い込まれた。進歩的なカトリック左派のエルツベルガーは、かつて強硬な併合講和論を支持していたが、1917年に意見を変えて融和的講和の積極推進派に鞍替えした過去があった。こうした経緯から極右の憎悪の的となっていたエルツベルガーは、やがて党内右派のライバルを告訴したのち、逆に汚職と偽証の容疑を着せられた。1922年12月にエルツベルガーは辞任し、中央党は分裂状態に陥った。こうして1923年に改めて選挙が行われた。
ゾルフ、エルツベルガー両政権の業績は賛否両論といえる。両政権はまさにドイツの輝ける新時代を象徴する存在であったが、その内情は決して満足のいくものではなかった。両政権の外交政策は多くの人々に批判され、党利党略にあけくれる議員たちがドイツが苦心の末に勝ち取った成果をもてあそび、敵国の復活を阻止できなかったと糾弾された。与党三党は終わることのない内紛に明け暮れ、3月憲法からさらに進んだ改革を実現することもできず、有力な選挙区でも苦戦を強いられた。その影響は1923年選挙の結果に跳ね返る。
2)保守派の復活(1923~24)
エルツベルガー辞任後の1923年解散総選挙で、SPD、FVP、そして混乱状態の中央党は議席を減少させた。ドイツ保守党(DkP)、国民自由党(NLP)、自由保守党(FKPP)は議席数を増大させ、中央党の分裂に乗じて少数派政権のポサドフスキー=ヴェーナー内閣を成立させた。政権発足直後から、保守派は前政権とは真逆の政策を推し進め、戦前の保護主義的な穀物税を再導入した。その影響は数年後のドイツ農業に深刻な影響をもたらす。また保守派の構想にしたがって中欧経済圏を実現し、ドイツの農業と重工業の利益を最優先する不平等経済ブロックに変貌させた。より攻撃的な外交政策も復活し、1923年後半のリーフ戦争には初期から介入した。
1924年秋、今度はイギリスでウェールズとスコットランドを中心とした社会主義の騒乱が激化、後にイギリス革命と称される事件が始まった。保守エリートたちの総意はハッキリしていた。イギリスで革命が発生すれば前例のない出来事が連鎖し、ヴェルサイユ条約で構築した脆い秩序は一気に瓦解する。フランス・コミューンも外交・政治的孤立から脱し、ドイツ圏にとってまさに災害となる。状況が緊迫の度合いを強めるなか、外務長官兼副宰相グスタフ・シュトレーゼマンがドイツ国内に新たな危機をもたらした。彼は性急な声明を発してしまい、イギリス正統政府に協力して、即時介入を支持すると発言した。シュトレーゼマンとしてはイギリス問題についての個人的見解を述べたつもりだったが、ポサドフスキー=ヴェーナー政権の副宰相という立場から、この発言は政府の公式見解と受け止められた。新聞はシュトレーゼマンを激しく非難し、やがて帝国全土で大規模な反戦ストが起きると、政府は方針転換を余儀なくされた。それからしばらくして再び解散総選挙が実施された。
3)三月連立の初期(1924~31)
総選挙では右派ブロックと黒・赤・金連合とも比較的善戦し、明確な多数派は存在しなかった。大連立政権が不可避となり、皇帝はポサドフスキーの後任となる妥協的候補を指名。ウルリヒ・フォン・ブロックドルフ=ランツァウ元宰相にふたたび大命が下った。こうして1924年から25年にかけて、ブロックドルフはSPDからDkPまでが参加する大連立という、ドイツ史上でもっとも賛否両論を巻き起こした政権を託された。しかしこの連立はまったく機能せずに数か月で崩壊し、かわって社会自由派、国民自由党、中央党、保守派が連立を形成。ここに「3月連立」と呼ばれる連立体制が誕生した。連立の主目的は左右の急進改革派を排除し、3月憲法の成果を守ることだった。当時左派SPDは改革要求を強め、右派も急進化していた。連立は以降10年間存続し、マルクス、ベルンシュトルフ、ディルクセンら後続の政権の母体となった。一方で、SPDは意図的に政権中枢から外され、以後第一野党の地位に置かれた。
第二次ブロックドルフ政権は国内改革に着手。1925年にはバウアー=ギースベルツ改革案を実現し、8時間労働や失業保険、連邦レベルでの職業斡旋制度などを確立した。しかしブロックドルフ政権最大の業績は外交政策だった。いわゆる「ブロックドルフ=マルツァーン・ドクトリン」によってイギリス本国への直接介入計画はすべて放棄され、植民地帝国が重視された。慎重な政治・外交活動と限定的な軍事介入によって、ドイツ派イギリス植民地帝国の大部分を直接あるいは間接の統治下に置くことができた(現在の設定と違って、イギリス領の強制的占領は発生しない)。1926年には対露政策も見直され、後に批判されるヴィリニュス協定を締結。26年後半と28年半ばには中国内戦に直接介入し、国際社会に波乱を巻き起こした。
ブロックドルフ宰相は1928年後半にこの世を去った。後の時代、ブロックドルフ時代は戦後ドイツに訪れた真の黄金期として美化された。後続の宰相にはブロックドルフ政権の副宰相ヴィルヘルム・マルクスが就任した。これによって宰相が在職中に死亡した場合は副宰相が就任するという慣例が生まれ、議会制民主主義プロセスは新たな、ともすれば小さな勝利を飾った。ドイツはふたたび世界で確固たる地位を手に入れたように思われていた。しかし、それは間違いだった。
与党連合のあがき 3月連立の衰退と新たな地政学的包囲網
1931年にオーストリアで起きたクレディト・アンシュタルト銀行危機はドイツ勢力圏に衝撃を与え、黄金時代は突如として終焉を迎えた。経済成長は鈍化し、景気後退の顕在化したが、問題はそれだけではなかった。20年代初頭の保護主義的政策が原因となって、この頃ドイツ農業部門の非効率性が大きな問題となり、東欧諸国の農業と比べて競争力を失っていった。この「ドイツ農業危機」の煽りを受けて、とりわけエルベ川東岸のユンカー層が大きな痛手を被った。
同時期には大きな政界再編の動きもあった。1928年には、長らく協力関係にあった2大保守政党、ドイツ保守党とリベラル寄りの自由保守党が正式に合併した。リベラル政党も大きな動きをみせた。1929年、社会自由派のFVPが国民自由派のNLPの大部分を吸収して自由人民党(LVP)を結成、リベラル派の巻き返しをはかった。NLPそのものは存続したが、実業界と繋がりのある右派議員だけの小政党に転落した。しかしもっとも大きな再編は極右で発生した。DLVPは1929年に指導部を刷新。反動的な弱小政党から脱却し、保守的革命を掲げる大衆政党へと変貌をとげた。
マルクス政権はクレディト・アンシュタルト危機からほどなくして退任し、解散総選挙が行われた。この1931年選挙ではDVLPが躍進し、SPDに次ぐ野党第二位に浮上した。とはいえ3月連立は左右政党の伸長から過半数議席を守り抜き、リベラル派の外交官ヨハン・ハインリヒ・フォン・ベルンシュトルフが新たな宰相に就任。2年前のリベラル派の復活を象徴する瞬間だった。
しかしベルンシュトルフ政権は長続きしなかった。今度の原因は外交政策だった。1934年にロシアでサヴィンコフが当選してからまもなく、ロシアの支援するラトビア人抵抗運動「森の兄弟」とバルト公国軍が、ロシア領ラトガレのルバーン湖付近で衝突。このルバーン湖危機によって、ドイツ陣営とロシアの緊張は戦争目前にまで高まった。正面衝突こそ回避されたが、この事件によって融和的で穏健派のベルンシュトルフは解任され、後続には強硬派のロシア通外交官ヘルベルト・フォン・ディルクセンが就任した。
ディルクセンは帝室のイエスマンで、議会の慣例にほとんど尊重しないことで有名だった。彼の起用は、ホーエンツォレルン家が14年前に取り上げられた内政問題への影響力を取り戻そうとする、必死の抵抗と受け止められた。しかしディルクセンは前任者以上の窮地に陥った。3月連立の亀裂が表面化し、とうとう1935年初頭にLVPが正式に連立を離脱。3月連立の議席数は過半数を割った。議会では新たな解散総選挙か、あるいは不信任決議案が提出され、またしても宰相解任と新政権の発足が続くかに思われた。しかしここに来て「永年野党」のSPDとDVLPが、議会解散と不信任決議案の提出のどちらにも反対した。両党ともディルクセン内閣を機能不全のまま存続させて、自分たちに協力させるほうがずっと有益と考えた。かつてブロックドルフ政権下で国民の支持を集めた3月連立の穏健路線は、10年もの間与党の地位にあったことで、もはや国民から見放されていた。次回選挙ではディルクセン内閣と連立のどちらにも終止符が打たれるものと予測されており、野党はついに宰相の座を射止めるチャンスを掴んだ。
外交情勢も厳しくなる一方だった。サンディカリスト陣営は1925年以来国力を増大させ、1935年のノルウェー革命で勢力圏を広げるに至った。ドイツは国内の停滞と民衆の反戦感情で身動きが取れず、消極的な行動を続けた。さらに反ドイツの流れは東ヨーロッパ各国に広がった。ルーマニアでは1934年に鉄衛団が政権を握り、バルカン地域の均衡は激変期を迎えつつある。あの運命の1914年のように、ドイツは敵性国家から地政学的に包囲網されつつあるとの声が日増しに高まっている。
緊迫した政情の中で、一人の野心家の若手将校が台頭している。権謀術数に長けた冷徹な策謀家クルト・フォン・シュライヒャーは1931年にプロイセン陸軍大臣を拝命。ルバーン湖危機以降は軍事問題への発言権を高めた。参謀本部の高級将校たちの間では、議会システムの弱体ぶりはもはや明白であり、目前に迫った総力戦を遂行するには全体主義的な政府が必要との認識が広まっている。シュライヒャー本人も軍部による国家指導、社会のすべての分野の動員によって総力戦体制を確立させる「国防国家(Wehrstaat)」構想を支持しており、次の世界大戦に備えようとしている。しかしシュライヒャーは他の幕僚たちと違い、この国防国家構想を今までとは違う「議会主義的な」方法で実現しようと計略を練っている。はたして彼はこの計画を実行に移せるだろうか。
1935年末、ヘルベルト・フォン・ディルクセン内閣は少数派政党からしか支持を得られていない。支持率も低迷しつづける一方で、今後も厳しい局面が続くだろう。策略家たちはこのチャンスを見逃さず、ディルクセンの次なる不祥事を利用しようと手ぐすねを引いて待ち構えている。カイザーライヒの黄金時代は終わった。繁栄の裏で分裂する国に、嵐が迫っている。
今日はここまで。最後まで読んでくれてありがとう。次回は金曜日に最初のゲーム内容についてお披露目する! 設定についての小記事は月曜日をお楽しみに!
おまけ:これまで公開されたドイツリワークの予告
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最初に公開されたイベント。選択肢はそれぞれ社会民主党と祖国党が掲げたスローガン。
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次に公開された初期画面。「高い城の男」、「ライヒスラント解決案」、「保守革命」の3つのNFと、「高い城の男」から始まるNFツリー。
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普通選挙制の廃止
議会主義と普通選挙制度は忌々しい腫瘍であり、自由主義やサンディカリスム、反ドイツの陰謀を招き寄せている。しかしどちらも廃止することはできない。そんなことをすれば怒れる群衆が君主制を転覆させてしまうだろう。それならば投票権を制限しよう。複数投票制を導入し、帝国議会が聡明で、愛国的で、忠実な人々によってのみ構成されるようになれば、議会を恐れる必要はなくなる。
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エルンスト・テールマン処刑
社会主義テロリスト集団の一員としての組織的強盗、暴行、殺人未遂複数件。皇帝陛下およびドイツ帝国への反逆。治安騒擾。フランス・コミューン連邦諜報機関との接触。その他余罪の情報提供の拒絶。以上すべての起訴内容を加味し、被告人に死刑を宣告する
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1936年、健康状態が悪化しつつある中、シュライヒャーの権勢は頂点に達した。政界内で次期宰相の「妥協的候補」として白羽の矢が立ったのだ。しかし「赤い将軍」の真意は、まだ誰にも分からない。