しげちゃんストーリー
はじめまして!
「一緒に寄り添ってくれるので、遠慮なく相談できます」と言われる、気さくなノーストレス営業の専門家、小松茂則(こまつ しげのり)です。
「心がきれいになる!という気持ちの持ち方ができるようになったことが一番うれしいです」と、
“笑顔”になっていただくことが、私のよろこびです。
そのために、「一人一人を大事にする姿勢を学びました」と言われるように、心がけていきます。
なぜ、私が【正直】を使命と宣言しているのか、そのわけを聴いていただけますか?
お父さんに早く会いたい~父の思い出
父親は、新見市郊外の野馳(のち)の出身です。8人兄弟の末っ子。高校卒業後、鉄工所で働いていました。定年までその会社一筋。精密機器の加工で、職人のような仕事でした。
父は川釣りが好きで、よく行っていました。山に行くと、山芋を掘ってきました。また、木の根っこなど変わったものを持ってきては、ピカピカに磨いてました。一つのことを、コツコツやる人でした。
父は、毎日夜7時くらいに仕事から帰ってきます。小学1・2年生のころ、父が駅から自転車で帰ってくるのを待ちきれず、私は途中まで迎えに行くときがありました。
両親は、小児マヒの兄に付きっ切りでした。そのため、父には、あまり遊んでもらったことはありません。父が帰ってくるのが楽しみでした。早く会いたい気持ちが強かったので、自分の方から歩み寄って行ったのです。
小学生のころ、「お父さんがケガをした」と母から連絡がありました。病院から戻ってきた時、父は包帯でグルグル。「自分が気を付けてなかったから仕方ない」と言ってました。ネガティブなことは言わず、なったものは治せないからという素振りでした。私の前では、痛そうにもしてなかったです。指先がなくなったことも、隠そうともしませんでした。
電気代についても、節約するために消しまくるという事をしないで、「電気ついてた方が、明るくていい」という考えでした。なにごとも前向きに考えていました。
父は、普段はあまりしゃべらないです。ところが、お酒を飲むと、すごくしゃべります。焼酎とビールを飲んでいました。すごくでっかい焼酎のペットボトル、「大五郎」が置いてありました。
お酒を飲むと、母親や親戚に、人生や仕事のことを、あーだこーだと語るんです。その姿を見て、嫌だなぁと思っていました。
父は「将来、インスタントラーメンのお店を出したら、おもしろいだろうなぁ」ということを話していました。普段、口数の少ない父ですが、心の奥底で、なにか秘めたものがあったのかもしれません。
子供が飛び出してびっくりされたじゃろう?~母の想い
兄は、昭和34年生まれ。私と3歳ちがいます。小児マヒで、今も施設に入っています。
たまたま、兄が生まれた時の同級生が、はやり風邪で亡くなりました。兄も赤ちゃんの時に高熱が出て、1週間くらい熱が下がらないという高熱が原因で、小児マヒになったようです。
私が物心ついたときから、自分の意志でしゃべっているのかもわからない。歩いていたら躓いて転んだり、ずっと座ったまま1日動かなかったりしています。3歳児くらいの状態で大人になっています。
親子4人で川の字で寝ていると、朝、兄が急に全身けいれんを起こすので、母が「大丈夫か、大丈夫か」と言って、兄の体をさすっていました。
兄は支援学級にも行かないで、家で母が兄の面倒を見ていました。私が小学3年生の時に、電車で2時間かかる岡山の施設に入りました。
小学3年生の時、近くの河原で花火をしようと、私と母で横断歩道がない所の道路を渡ろうとしました。その時、車が来て、車の車輪に私の足を踏まれました。
私は転んで「足が痛い!痛い!」と言ってた時に、母が運転手の方に行ったんです。怒るのかなと思っていたら、「子供が飛び出しちゃってびっくりされたじゃろう?」と言うのです。さらに、「迷惑になっちゃいけんから行ってくだせぇ」と言いました。
運転手は「大丈夫ですか?」と聞いてくれました。母は「飛び出したうちの子が悪いんじゃけぇ」、「けがしてる感じもないから大丈夫だから」と言うだけ。
その後、母からは「大けがしても困るし、運転手さんも困るし、人に迷惑かけるもんじゃない。飛び出したあんたが悪りんじゃ」と言われました。
私は大げさに痛がっていたわけではありません。ただ、なんとなく腑に落ちなかったのです。
すごい悪いことしてたんだなぁ~兄への想い
母はいつも「兄が、兄が」と言っていました。兄は面倒見てもらわないと生きていけないけど、もっと自分の方を向いてほしいという気持ちが強かったのです。
そのため、小学3年生のとき、運転手さんへ気づかいをして、私のことを心配してくれなかった出来事が、ずっと記憶に残っているのだと思います。
母は、小児マヒの兄のことを隠さず、正々堂々と生きてるように見えていました。ところが、どこかに、人に迷惑をかけているんじゃないか、これから人のお世話にならないといけないと、ずっと思っていたんだと思います。
そういう環境だったから、「人に迷惑かけてはいけない」と、ずっと負い目を持っていたんだと思います。息子がそういう状況なのを、母として責任を感じていたんじゃないかと。
小学4年生くらいまでは、私は、兄のことが恥ずかしかったです。夏休みに、兄が施設から家に帰ってきます。兄と一緒に外を歩くのがいやでした。
小学5年生のとき、家族4人で外を歩いていると、兄から手をつないできたのです。私も自然と手をつないでいました。
兄と私が前を歩いていたので、ちょっと止まって振り返りました。すると、母は泣いてたんです。何も言葉はないです。
子供ながらに「俺、すごく悪いことしてたんだなぁ」と思いました。兄を避けてたという事に対して、母の涙を見て、「俺って、お母さんにすごい迷惑かけてたんだろうなぁ…」と強く思いました。
それからは、自然と、兄がいることを恥ずかしいと感じなくなりました。世の中に、兄のような人はいるんだと思えるようになったのです。
「苦しい顔をするな!」
背が低いことはコンプレックスでした。幼稚園から背が一番低かったので、いつも一番前でした。母は「うちの子は小せえけえなぁ」と、母親同士で話してました。大きなコンプレックスはなかったのですが、どこか気になっていました。
隣に住む従兄のお兄ちゃんが、器械体操をしていました。庭に鉄棒があり、そこで大車輪などをしていました。私が小学1年生の時に、お兄ちゃんは高校1年生。「かっこいいなぁ」、「あんな風にできたらかっこいいなぁ」と思っていました。
私も足掛けまわりや逆上がりはすぐにできました。蹴上がりも1時間くらいでできるようになりました。体育の授業では「小松くんやって見せて」とお手本みたいに言われました。とても嬉しかったですね。みんなから「どうやってやるん?」と言われて、見せていました。
小学校のクラブ活動で器械体操部にも入りました。バク転、バク宙もできたし、倒立もできました。母は、いつも「うちの子、背が小ちぇえけえ、身が軽りんじゃ」と言っていました。
高校に入ると、バスケットボール部に入部しました。1歳上の幼馴染から「おもしれぇぞ。背も高くなるぞ」と言われたからです。
背が低いけどうまい先輩がいました。その先輩がかっこよかったです。めちゃくちゃうまくて、「僕もそういう風になりたいな」と憧れていました。
その先輩は2年生のときからずっとレギュラー。先輩から、ステップの仕方とか、いろいろ教えてもらいました。遠くからシュートしても入るので、その時の投げ方、手首の使い方をよく見てマネしていました。
ただ、私が足りなかったのはスピードと持久力がなかったのです。練習で苦しいと、顔に出てしまうのです。そのたびに、先輩から「苦しい顔をするな!」、「顔に出すな」と言われていました。
晴れた日には、練習前に山に走りに行きます。私は一番遅れて、みんなについて行けなくて、いつも下りですれ違っていました。
高校3年生のとき、同級生は5人。3年生最後の試合。ベンチは10人入れます。3年生で、私だけベンチにも入れませんでした。体育館の2階の客席から見ていました。
「くやしい…」
その時になって初めて、「背が低いし、スポーツが得意ではないし」と言い訳して、本気で練習しなかったことを後悔しました。
また、同級生にも「つらいから練習についていけない」と本音を言って、相談することもできなかったです。
高校最後の大会、2回戦で負け、私の高校バスケットボールが終わりました。
無言の空気感が楽しい
両親は、二人とも大学に行きませんでした。私に「大学ぐらい出といた方がいい」と言ってくれました。お金がかかるので、国公立大学に行きたかったのですが、落ちました。私立大学も落ちたら、浪人せずに働こうと思っていました。
私立大学に合格し、両親は「よかったなぁ」とよろこんでくれました。入学金と1年時の授業料は親に出してもらいました。2年生からは、奨学金をもらい、バイトして稼ごうと思いました。
寮の先輩から誘われたのは、ミスタードーナッツのバイトです。夜の9時から朝の8時まで働き、帰って12時ころまで寝る。午後の授業だけ少し出る。こういう生活を、週4日やっていました。
お客さんが来ないときは、黙々とドーナッツ作り。ベテランのバイトの方に「小松くん、揚げるの早いねぇ」とほめられると、うれしかったです。
深夜3時に、毎日来る常連さんがいるのです。頼むメニューも座る席も、毎日同じ。コーヒーとココナッツ・ドーナッツ。
お互いになにか会話するわけではありません。私は笑顔でニコニコ。すると、お客さんもニコニコ。この無言の空気感が、とても楽しくなりました。
しかも、私が作ったドーナッツを美味しそうに食べている。
このようにして、会話をしないけど、笑顔だけで会話する常連さんが一人二人と増えていきました。初めて、人にみとめられた感があり、ますますバイトにのめり込みました。
電車の中で、どうしたら効率的にドーナッツを揚げられるか?ということをいつも考えていました。それだけでは飽き足らず、どうしたら原価率を下げられるか・どうしたら材料を捨てないようにできるか?ということまで考えるようになりました。
大学3年生のときには、お店のチーフになりました。バイトが楽しくなり、時間外、レシートを集計して、天候やイベントなどにより何人来るかを予想して、仕込計画を作り、ロス率を減らしました。
店長がこのような実績を店長会議で発表してくれて、1年に1回のアルバイトの優秀賞に表彰されました。
ダスキン創業者の鈴木清一さんの言葉
「自分に対しては
損と得とあらば損の道をゆくこと
他人に対しては
喜びのタネマキをすること」
この言葉に感銘を受けながら、楽しいバイト生活を送っていました。
「兄のことは心配せんでもええけ~」
就職先は、大学のアルバイトの経験からファーストフードの会社を選びました。入社後お店に配属され、気がついたことがあると毎月提案を出していました。
バイトの子たちとしゃべっていて「時給はどうやったら上げてくれるんですか?」という話になりました。それで基準を作ろうと思いました。「これができたら10円アップ」という細かな基準を作りました。
感情とか好き嫌いで時給を上げたりすることが無いようにするためです。たまにしか来ないけどしっかり努力してる人はなかなか上がらないなど不公平感もあったからです。
また、副店長時代に、営業の女性のバイトさんたちの指針、おじぎの角度や声の出し方、ポジショニングとか、そういう立ち回りの仕方をマニュアル化して店内で決めてあげて、昇格基準を明確にしました。また、いろいろなことを数値化することをしていました。
お店を3年経験した後に、本社に異動になりました。普通は営業職で上がっていくことが多いのです。本社で、POSシステムというレジを新しく作るので、現場のこともよくわかって、コンピューター系のこともわかる人を探していました。私はコンピューターのことは詳しくありませんが、提案をいつも出していたため推薦され本社の情報システム部へ行きました。
私が小学校低学年の頃に、兄は施設に入りました。ところが、ある程度の年齢になると出ないといけないのです。そこで、父は。兄が大人になっても入れる施設を作りました。自分たちが住んでいる街に、同じような子供を持つ親と集まって作りました。
県や福祉事務所と交渉したり、親同士集まるために連絡をしたり、精力的に動いていました。
父は、兄が私の足かせにならないように考えていたのです。中学の頃、「親二人でしっかり見ていくから、おまえは好きな事をしろ」、「兄のことは心配しなくてもええけ~」と父がよく言っていました。
私が33歳のとき、5歳上の従兄が急に心筋梗塞で亡くなりました。父は、大変だからと言って、お金を30万円くらい包んで行ったそうです。しかも、お通夜の時に一晩中見守っていたと。
私は東京から岡山に戻ってきていました。従兄の葬儀が終わり、両親を電車で見送っていたら、母は、私の方を見て「元気で」と言いました。
ところが、父は、私の方を見ないのです。前を向いたまま振り向かなくて、そのままずっと前を見ていたのです。
その10日後に、父は、脳梗塞で亡くなりました。66歳でした。
葬儀の最中、母は泣いていました。
「始(兄の名前)を残して、私はどうしたら、ええん?」
私も母のそばにいたい気持ちはありました。ただ、東京に住んでいたので、「大丈夫だよ」としか言えませんでした。
「行かないで!行かないで!」
情報システム部では、お店で何が困ってるんだろうとか、どういうレポートが必要なのか、そういう事をお店と話しながらやっていました。
ただ、「ずっと、このまま本社でやっていくのかなぁ」、「もう、お店や営業には戻れないのかなぁ」と思っていました。毎日、数字とにらめっこばかりで、「今日は何しよう」という感じで、仕事自体がそんなに楽しくなくなっていきました。
そんなとき、友人の紹介で、私個人が生命保険に入りました。その営業の人が、すごく楽しそうで、キラキラしてるんです。自信に満ち溢れていて、「なんだこの人は!」という感じでした。
「この仕事っておもしろそうだな」と思ったのです。それで、「私もやってみたいですね」とい話したら、すぐに採用担当の人に推薦してくれました。ところが、営業経験がなかったため。本社での面接で採用されませんでした。
本社の人から、「本当にやる気があるなら、半年後に来たらいいんじゃない?」と言われました。
私は保険営業の仕事っていいなとずっと思っていたので、「半年後にもう一回受けよう」と手帳に日付を書いておいたのです。それで、半年たった時にもう一回受けました。
本社で面接をして、また同じ面接官でした。いきなり「入社おめでとう」と言われました。こうして、31歳のときに、外資系生命保険会社に入りました。
2年目までは、社長表彰を受けたりして、そこそこ売れていました。3年目くらいから、他社の保険営業の人と話していく中で、「このやり方でいのかな」と考えはじめ、だんだん楽しくなくなりました。
入社8年目のときです。カミさんの知り合いの人がやっているお店が、竜巻で屋根が吹っ飛んだのです。
すごい状況だと私に電話がかかってきました。「ちょっと行ってくるわ」とカミさんに言ったら「行かないで!行かないで!」と言われたんです。「あまりつき合わないでほしい」と言うのです。
「なんで行ったらいけないの?」と聞いても、カミさんは答えない。理由を聞いてもダメ、行くのもダメ。その時のカミさんは、家庭が崩壊するんじゃないかという勢いでした。なにも聞いちゃいけないような雰囲気でした。それで行くのをやめました。
辛かったのは、行くのをやめた夜です。今までは、ちょっとしたことでも真夜中でも駆けつけてたんです。そういう仕事なんだと思って仕事をしていたのです。
「本当にこれでいいのかな」と夜も眠れませんでした。ものすごい葛藤がありました。ただ、直接保険のことではないから、このまま黙っておけばなんとかなるかも…そのように考えて眠りにつきました。
ところが、私が行かなかったことで、翌日本社に連絡が入ったのです。「アフターフォローをしっかりやると言っていたのに、言ってることとやってることが違うんじゃないか!」と。
上司と一緒に謝りに行きました。ところが、許してくれなくて、上司の方にも連絡が行くようになったのです。上司から「小松、何とかしろよ」と言われるようになり、上司からも責められるようになりました。
そのうち、上司とお客さんの間に立って板挟みになり、頭痛もひどくなり、体調不良になってしまいました。
このことが引き金で、売上も下がり、仕事の意欲もなくなっていきました。今の環境から逃げたいというのが本音でした。会社を辞めないと、すべてがだめになってしまう、そんな状態だったのです。
上司には「親戚の実家を手伝うことになったので、急ですが今月で辞めさせてください」と言いました。あれこれ聞かれて、答えたくなかったのです。
なぜ、私は【正直】を使命と宣言しているのか?
会社を辞めた時は、「会社辞めちゃったな」と思いました。ただ、一方で「解放された」という気持ちでした。「逃げ切れた」と思ったら、少しだけ気持ちが楽になりました。
40歳で、子供もまだ小さかったので、何かやらなきゃと思いました。前職のとき人間関係で疲れたので、一人でできる仕事がないか考えました。そこで、ネットビジネスをやってみると、集中できたのです。気がつくと、1ケ月で頭痛もなくなりました。月70万円くらい稼げるようにもなりました。
9ケ月目くらいに、「そろそろ働けば?」とカミさんに言われました。そのころに「もう一回人と接する仕事したいな」、「人と関わらないというのもなんかさみしいな」と思ってきたころだったのです
そう思い始めた矢先に、折り込みチラシに、営業の契約社員募集がありました。「営業の仕事かぁ。家から近いし」という事で応募してみました。
10ケ月の休職を経て、大手通信会社の契約社員として採用されました。
41歳で、営業で、新入社員。最初から飛ばしました。また、プライドもかなぐり捨てて、若いトップセールスマンのところに行って、教えを請いました。同じころ入社の25歳くらいの営業マンに、「小松さん、パワフルですねぇ」と言われたりしました。
当時、戸建てのお客さんに飛び込み営業をしていました。週6件の契約を取れると、優秀と言われる中、週間23件という数字も出しました。
自分の数字だけでなく、私が作ったパンフレットやトークなどを営業同士で共有したりしました。ある営業マンから「小松さんが来てから、バラバラだったチームがまとまりましたよね」と言われたことが、とてもうれしかったです。
そのような成果をもとに、翌年、メンバーが7名のチームリーダーに昇格しました。
「全員が目標を達成して毎日楽しく仕事できるようにしよう。と言っても苦しい時もあるだろうから、その時は皆で助け合おう。私も全力で頑張るから」
と、就任して初日に、メンバー全員の前で宣言して約束をしました。
チームを結成して2ヶ月目の月末、キャリア2年目のメンバーのAさんと本日の活動の振り返りをしました。
Aさんは、思うように成績が伸びませんでした。なにより、なかなか笑顔が出ないので、お客さんに玄関で断られることが多い。そして、気持ちの切り替えもなかなかできない。そういう悪循環に陥っていました。
そこで、私は、Aさんに、営業スタイルの見直しを提案しました。一方的に、私のスタイルに変更することを提案しました。
振り返りをした翌日、Aさんが深刻な表情で、私のところへやってきました。
Aさん 「お話があるのですが」
私 「えっ!わかりました、じゃ別室で話しましょうか」
ただならぬ状況は顔を見ただけで、すぐにわかりました。
Aさん 「申し訳ないですが、今月で退職させて頂きたいのですが…」
私 「いきなり、どうしたんですか?」
Aさん 「昨日、振り返りの後で、いろいろ考えたんですが、やっていく自信がなくて」
私 「………。
そんなに深刻に考えなくても大丈夫。まだやれるますよ」
Aさん 「………。
僕なりに一生懸命やってきたんです!スタイルを変えるのはちょっと…」
焦った私は、こんなことを口にしてしまいました。
私 「でも、今のままではやっぱり厳しいと思いますよ」
Aさん 「そうだけど……やっぱり、辞めます」
私 「まま……まだやれると思うよ、そう焦ることはないですよ」
その翌日、Aさんはもう一度、私のところに来て、退職を告げました。
Aさんが退職して数日後、
「Aさんが『私のやり方が強引だから、やりにくい』とこぼしていました」と一人のメンバーから聞きました。
ショックでした。
私がAさんを追い詰めていたのです。
退職はAさんだけでは終わりませんでした。1ヶ月前に入社した新人メンバーも退職。さらにもう1人退職。合計で3人が退職しました。
営業実績を買われてチームリーダーになったが、私が新人の時にいやだと思っていたことを、新人やAさんに行っていたのです。
メンバーとしっかりと話し合う事もなく、この通りやればうまくいくからと、一方的に押しつけてしまった。
正直に言えば、チームリーダーになったのはいいけど、どう教えてあげればいいのか、わからなかったのです。
なんとか、早く実績を出さなければと焦っていて、自分を完全に見失っていました。
どうしていいかわからないにも関わらず、直属の上司にもかっこ悪くて、
正直に相談できなかったのです。
結果、チームの数字は、達成どころか目標の70%にも満たない最悪の状況に。
チームリーダーになって、2カ月目にして、「営業マンに戻りたい…」と思いました。
そう思った途端、涙がこぼれ落ちました。
人の教育ができない、
人を導くリーダーシップもない。
結局、チームリーダーの能力がなかったのか…
その瞬間、私は、ハッとしました。
Aさんに、
「本当のところ、なにで悩んでいるの?」
「正直、どこでつまずいているの?」
と、正直な気持ちを聞くことが、こわかったかも…
小学校のころ、母が兄をおんぶして、わたしが歩いていると、「辛い思いをさせたなぁ」と言うのです。わたしは、心とは裏腹に、「そんなことねぇ」と言ったのです。
弱音を吐いてはいけない。本当のことを正直に言ってはいけないと思っていたのです。
だから、小学3年生のとき、わたしが車に足を踏まれたとき、母が運転手に「大丈夫ですか?」と言ったこと。
「なんで自分のことを真っ先に心配してくれないんだ」という気持ちを、
正直に口に出せたとしたら…
高校のバスケットボール部のとき、先輩から「苦しい顔をするな!」、「顔に出すな」と言われていたこと。
仲のよい同級生だけには、「練習がきつい。どうしたらいい?」と正直に
相談できたとしたら…
保険会社のとき、お客さんから電話があったのに、カミさんからこと
「行かないで!」と言われたので、なにも理由を聞かずにいたこと。
カミさんに「正直なところ、なにがあったの?」と聞く、正直さがあったとしたら…
私には、正直さが欠けていたのかもしれない…
「弱音を吐いてはいけない」
「人に迷惑をかけてはいけない」
「思っていることを、正直に口にしてはいけない」
と思うあまり、自分の正直な気持ちに気づけなかったのです。
人に、正直な気持ちを聞くことができなかったのです。
そうなんです。私には、正直さが欠けていたのです。
この体験から、私は、【正直】を使命と宣言することにしました
【正直】を使命と宣言すると、気持ちや考え方も変わってきました。
ちょうどその時、一人の新人がチームに配属になりました。
営業未経験者の20歳の青年。Hくんは、それまで営業とは無関係の仕事をしていました。それでも、営業の仕事をしてみたいと入社してきました。
Hくんには、仕事のことだけでなくプライベートなことも話すようにしました。Hくんは、謙虚で素直な人柄で、わたしに上手くいってもいかなくても、正直に話をしてくれました。結果、Hくんは短期間でトップセールスに成長しました。
その過程で、私もHくんだけでなくチームの仲間とも成功や失敗を話し合い、チーム全体を盛り上げていけるようになりました。そのうち、わたしのところに来ると、結果の出ていない営業マンも結果が出るようになり、小松再生工場と言われるようになったのです。
チームリーダーの成果をもとに、その後全国の営業マンを指導するトレーナーに抜擢されました。さらには、営業部長のポジションにまでなりました。
2014年2月19日の夜、土浦駅で電車がくるまで10分くらいあったので、ふと思い母に電話しました。母は「寒みーけー、体には気をつけえ」とひと言言ってくれました。
翌日の2月20日、母は脳内出血で倒れて、ドクターヘリで病院に運ばれました。意識不明が続き、2月25日、兄が施設の方に連れられて母のお見舞いに来ました。その日の夕方、母は亡くなりました。
母親が亡くなった時、葬式で喪主の挨拶をしました。参列者の方に振り返った瞬間、葬儀場が多くの人で埋め尽くされ、入りきれない人の数を見た時、母の人生がわかった気がした。これだけの人に愛されてきたんだと思うと、涙が止まりませんでした。
初七日を終えて、兄に会いに行きました。そのとき、兄は、「しげのり」と初めて私の名前を呼ぶのです。毎年、兄と会いますが、私の名前を呼んだのは、あの時が初めてです。その後も名前を呼ばれたことはありません。
母の葬儀後、1ケ月くらい、毎日、いろんな方が来てくれました。見ず知らずの方が「お母さんの子じゃけぇ、人にいろいろしてあげると、うれしいけぇの~」などと言ってくれました。
母は、「あの人、足腰がよくないから、歩くの大変らしい」という話を聞くと、行って洗濯をしたりしていたそうです。そういう積み重ねで、友達がどんどん増えていったようです。
そんな母ですが、決して、弱音は吐かなかった。
2020年から、「営業の現場に戻りたい!」と思い、若い営業マンと一緒に、汗を流しています。それだけでなく、ストレスなく営業できるように、わたしの経験を生かしていきたいと思っています。
「躊躇なく何でも聞ける上司や先輩がいたらなぁ」と思っている営業マンの方へ
「ストレスなく営業できる方法ってないかなぁ...」
「長くやっていても、自分で気づけないところあるんだよなぁ...」
「これを聞いたら『え?知らないの?』と言われるのが恥ずかしくて...」
このような方に、この物語を読んでもらいたいと思っています。そして、「こんな人に相談できたら、うれしいなぁ」と思っていただけるとうれしいです。
そのためにも、【正直】を使命と宣言して行動していきます。
最後に
お父さんへ
今年でお父さんが亡くなった60代になります。
「心配しなくても大丈夫じゃけ~」というやさしさ
決して、忘れません。
本当は、お父さんのやりたかったこと
ちゃんと聞いておきたかったです。
お母さん
自分のことよりも人のことを想う「きれいな心」
お母さんから受け継いでいます。
「小松さんにされると、うれしいけぇの~」
と言われるように、生きるからね。
お兄ちゃんへ
「しげのり」と呼んでくれたこと忘れないよ。
岡山に帰ったときは寄るので、元気な姿、見せてね。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?