『本屋にて』
この話は2012年7月にトラベラーズノートのウェブサイト「みんなのストーリー」に掲載された旅のストーリーです。現在も掲載されています。そのままここに掲載いたします。現在も「みんなのストーリー」に毎月一作旅の話を書いています。これは掲載第57作目です。
一日インターネットでニュースをチェックした後で、久し振りに古書店のCOW BOOKSのウェブサイトにアクセスした。しばらくチェックしていない間にサイトの構成が少々変わっていた。
目が慣れないそのサイトをゆっくりと眺めていると、近々中目黒店のほうで、イラストレーターの安西水丸さんのトークイベントが行われることを知った。同時に観覧希望者が既に定員に達していることも知った。
安西水丸さんを僕に紹介してくれたのは、作家の故百瀬博教さんだ。今から十数年前に百瀬さんが渋谷の神泉にある鰻屋さんに大勢を招待して下さった時だった。
終生自身を不良と名乗っていた百瀬さんが、実際に預かったことはなかったけれど、僕のことを「女でも大金でも安心して預けられる奴なんです」と言って水丸さんに紹介して下さった。お会いした記念に水丸さんにサインを乞うと、あの柔和でニコニコとした表情で気持ち良くスノードームの絵を添えてサインを書いて下さった。
その出会いがご縁となり、「鳥越祭りを愉しむ会」や格闘技の「PRIDE」等、百瀬さんに関係するイベントでお会いする度にご挨拶するようになった。そんなご縁のある水丸さんに、そのトークイベントへ行って久し振りにお会いしたいと思ったが、すでに満員御礼では諦めざるを得なかった。
トークイベントのことを完全に諦めていて、すっかり忘れていた一日、COW BOOKSの南青山店へ行った。用事があって表参道まで行ったので、今では入手困難になっている大叔父池田弥三郎の著書を見つけると必ず連絡を下さる店長の落田さんの顔を見に寄ったのだ。
COW BOOKSは本の品揃えのセンスが良く、本を大切に綺麗に扱っているので、信頼している。ぼくの古書に対するイメージを変えてくれたのはこのお店だ。洋書でも和書でも、読みたくても絶版になっていて入手出来ないものはいつもCOW BOOKSに探してもらって手に入れて読んでいる。
その時はちょっと持ち合わせが乏しかったので、まだ持っていなかった大叔父の本を二冊取り置きして貰った。落田さんと雑談している間に、水丸さんのトークイベントのことを思い出した。ダメもとでトークイベントの観覧者にキャンセルが出たら連絡をいただけるようお願いをした。
その南青山店を行きつけの古書店の一つにしていた百瀬さんと僕との縁、百瀬さんと水丸さんの親交の深さを知っている落田さんが、きっとご尽力下さったのだろう、数日後キャンセルが出て僕が観覧出来る旨の連絡をいただいた。何だか諦めていた旅行が、諸条件が急遽整って出発出来るようになった気持ちになってとても嬉しかった。
6月のある金曜日の夜、トークイベントの会場となっているCOW BOOKSの中目黒店へ行った。中目黒へ足を運ぶとなると、いつもはトラベラーズファクトリーだが、初めて訪れるCOW BOOKSの中目黒店は、もう数分歩いたところにあった。
店に着くと店内は既に観覧者でほとんど埋まっていた。観覧者のほとんどが女性で、水丸さんのファン層を改めて知った気がした。欧米ではこのように作家を招いてのトークショーや朗読会などが頻繁に行われているようである。日本では大型書店(家電でいえば量販店か)でも作家を招いてのイベントは頻繁に行われているが、規模が大きいので、作家と参加者の距離が遠く感じられるのと、その作家の書籍の販売が第一であることが前面に出過ぎているのが感じられて、参加する度に残念に思う。
いろいろな人の手を経てこのお店に辿り着いた古書が並んだ書棚に囲まれた中で行われたトークイベントはとてもいい雰囲気で進んでいった。古書が何となく旅先の名所旧跡で目にする石垣に見えて、非日常の中に身を置いている気持ちになった。時間が経つにつれて、そこが古書店の店内ではなく、「安西水丸ワールド」になっていくのが感じられた。
トークが始まる時に、腕時計ではなく、懐中時計を水丸さんがそっとテーブルに置いたのを見た時には、装丁と装画を水丸さんが手掛けた僕の一番好きな旅のエッセイである百瀬さんの「空翔ぶ不良」(マガジンハウス刊)の中で、お二人でニューヨークへ旅をした際の機内での会話を思い出した。
子供の頃から好きだった少年誌を水丸さんは今でも大切に持っていらっしゃり、トークの際に我々に見せて下さった。子供の頃に描いた絵もまだ大事に持っていらっしゃって、それらも我々に見せてくださった。そういえば、百瀬さんもものを大事にしてずっと取っておく方だったなと思った。
以前から知っていた話や初めて伺った話等を楽しみながら、僕の一番好きなお二人に関するエピソードを思い出した。ある日何か本を一冊選んで紹介をという依頼が水丸さんのところに来た。百瀬さんの「不良日記」(草思社刊)を選ぶと担当者がその本は止めて欲しいと言った。水丸さんそれならとその仕事を断ってしまったそうだ。そのエピソードを読んだ時に、柔和でいつもニコニコしていらっしゃる水丸さんの、その表情からは窺い知れない、芯の強さと友情に厚い一面を見たのを今でも覚えている。
水丸さんの好きな本についてというのがトークの主題だったが、だんだんと水丸さんについての話(カレーの話、ニューヨークに住んでいらっしゃった頃の話、ご友人の村上春樹氏の話等)になっていき、あっという間に予定時間を1時間近くオーバーしていた。
このかつて体験したことがあるような、慣れたような感じは何だろうと考えた。それは、水丸さんともお会いしたこともあり、古書・新書・雑誌等が所狭しと置かれていて、まさに「百瀬ワールド」な何度もお邪魔した百瀬さんの事務所の中にいるのに似た感じだった。お邪魔する度に面白いお話を百瀬さんからたくさん聴かせていただいた。
日常をちょっと離れて旅をした「安西水丸ワールド」は忘れていた事を思い出し、いろいろと考えさせられた。話の内容が変わる度に、都度自分もあちらこちらに移動している気持ちになった。トークイベント(トークショー)は、参加しているその時間非日常に浸れるので、これもちょっとした旅だと思った。
百瀬さんが南青山店をよく訪れていたのを知ったのは、亡くなった後で、トラベラーズノートのブロデューサー飯島淳彦さんのブログでCOW BOOKS自体を知った後だった。トークイベントが行われた週の週末から今年の鳥越祭りが始まった。百瀬さんがもういらっしゃらないので、毎年水丸さんにお会い出来た「鳥越祭りを愉しむ会」はもう開かれない。いらっしゃったなら、トークイベントが金曜日だったので、その二日後の日曜日には会は催されたはずだ。このようなタイミングで水丸さんと再会出来たのはただの偶然だろうか。
それも毎月エッセイを載せて下さっている飯島さんに教えていただいた古書店で・・・。亡くなった方が縁で知り合った方に、遠からず縁を感じられる場所と図られたようなタイミングで再会出来たことに偶然を越えたものを感じた。決して気が長い方ではなかった百瀬さんが、お盆まで待てずにやって来て、きっとアレンジして下さったのだろう。
イラスト、エッセイ、映画評だけではなく、水丸さんは翻訳もなさる。水丸さんが翻訳なさったベネチアにある伝説のバーについて書かれた「ハリーズ・バー 世界でいちばん愛されている伝説的なバーの物語」(にじゅに社刊)を再読して、まだ訪れた事のないバーに、本の中でもう一度水丸さんに旅先案内を願おうとトークイベントの帰り道に歩きながら思った。