【書評】Ordinary Whales ありふれたくじら vol.5 神を食べる:唐桑半島
すごい本に出会ってしまった。
リトルプレスと呼ばれる小規模出版の書籍に普段私はあまり手を伸ばさない。文学フリマなどの「同人誌文化」にこそ慣れ親しんできたが、「知り合いが出展している」から、という風に「ヒト」がフックになって関心を持つことが多かった。
是恒さくらさんの『ありふれたくじら』5巻とは、違う出会い方をした。下北沢の書店で、幻想的であたたかみのある表紙が目に止まった。この本は何だろう、と試読本をめくった。見開きページの左側に英語、右側に日本語で、野生のクジラをめぐる人々の営みと伝承についての短い逸話が収められている。もっと読み込みたい、そんな衝動に駆られて、自宅に迎えることにした。
偶然目に触れた5巻から読み始めたが、是恒さんは太地や網走といった捕鯨文化が色濃く残る地域でもフィールドワークを行い、作品に昇華されているようだ。5巻は宮城県気仙沼市・唐桑半島のクジラにまつわる生活文化や信仰についてまとめられており、途中からでもコンセプトに没入していくことが出来る。
鯨類はきわめてシンボリックな生きものであるがゆえに、彼らをめぐる言説はしばしば政治性を帯びる。私が個人として強く関心を抱き探求を続けてきた「ニッポンの動物園・水族館」という領域においても、その存立構造を揺るがせた「イルカ漁問題」の話題は記憶に新しい。いや、現在進行形で続いている。
賛成と反対、白と黒。二項的な対立はしばしば先鋭化し、人々のあいだに大きな溝が生まれていく。議論の奔流に流され、ヒトは党派性の渦に飲み込まれていく。
是恒さんは、闘争ではない方法で、「人々のクジラ観の微細な差異」をかたどっていく。それぞれの土地の、それぞれの「クジラ観」について分厚く記述を積み上げながら、全否定も、全肯定もしない。序文「『ありふれたくじら』について」には、執筆のコンセプトが象徴的に綴られている。
それぞれの土地で、それぞれの言葉で鯨は語られ、違う物語が紡がれる。そしてその違いは時に諍いを生む。諍いとは、例えるなら一枚の布の上にできた破れ目やほころびのようなものかもしれない。(中略)ちりぢりになった布きれを縫い合わせ、刺繍をほどこし美しく生まれ変わらせるように、世界に散らばり時に諍いの元となる鯨にまつわる物語を集め、そのイメージを作り直すこともできるのではないか。
大いなるイメージや、古老が語る伝承、時代を超えて残る文物を支えに、「クジラ像」を総体として編み直すこと。
ヒトの暮らしと共にあったいのちへ向けるまなざしのことを、平面的な対立構図に与しない地平から語り直す意義について、大きな示唆を頂いた。