わかりやすさのはざまにあるもの
サイエンスコミュニケーターを目指していたとき、勉強して仕組みを理解してさあ伝えようという時に、たとえ話をしたり、図を使ってみたり。その根源にあるのは「アトム博士の科学探検」という学習漫画だったように思う。原子が擬人化されていて、電子が余っていたり足りていなかったりするとイライラするのでぴったりの数になるように共有結合をするーーーこれのおかげで化学の入り口は相当楽であった。(深めていくのはまた別の話)
たとえ話をするときに、でも、たとえはたとえであるから、元のものとどうしても違ってしまう部分があって、端折ってしまったそのことはどうするのがいいのか、とも思ったりする。
高専の1年生の物理の授業で、非常勤講師の先生が「微積をやってからなら、簡単に説明できるんだけどね」と言いながら運動について話していたのをおぼえている。なんなら、授業の内容よりおぼえている。
カリキュラムは私が組んだんじゃないし、そう言われてもな、、と思っていたけれど、数学の時間に微積分を習ったら、なるほど、一発で説明できる。じゃあ、微積分を先に習っていたらどうかというと、これ何に使うんだろ?が納得できなかったかもしれない。
学年が上がって、化学工学の先生は「数式を解くのは得意な人に任せればいい。式を立てられるようになることだ」と言った。どのように問いを立てるのか、どのような要素が必要なのかを考えろというわけだ。この先生は冬休みの宿題に、「専門用語を小学5年生に説明する」という課題を出していて、とても勉強になったし、力作を提出したら褒められて非常に嬉しかった。知識をどう使うか、だれが使うか、だれと成し遂げるのかを考えさせてくれるような先生だった。
化学科を出た私はエンジニアにはならなかったが、大切なことは教わったと思っていて、このルートを通ってきてよかったと思っている。
一方、自分の胸の内にあることは言葉にしてしまうと失われてしまう気がして、言葉にするとしても、ふんわりとしかやってこなかったように思う。望遠鏡で本を読もうとしたり、虫眼鏡で星を見ようとしたりしてしまう。
それはそれで気持ちよく楽しいものだけれど、誰かと一緒に見ていきたいという気持ちが強くなっている。これからが楽しみだ。