共感のページ
共感の落ちこぼれとして
困ったことに、良い感じの書き出しが浮かばない。
こういった雑記noteの書き出しは日常の経験から始めるとさりげなくて良い、というパターンをなんとなく知っていたので、今回は何気ない夫婦のやりとりの経験から「男脳・女脳の共感力の差」へと発想を飛ばし、話を展開する予定でいた。……のだが、調べていくうち、どうも「男脳・女脳」というのは血液型占いレベルの信憑性しかない、極めて疑わしい話である事が分かってしまった。脳のつくりというよりは、環境の差なのだそう。
確かに女性の共感性の高さは持って生まれたものと言われるよりは、共感性を持たざるを得ない環境におかれたせいで生じた役割性格的なものだという方が説得力がある(もちろん性差による環境の違いなんてほんとうは無い方がいいに決まっている)。
どうせ思うような書き出しができないのだから、細かいことは言いますまい。しかし実際、夫婦でいると、お互いの共感力の差を感じることが多々ある。悲しいくらいに、自分には人の気持ちが分からない。気が利かない。そして同時に、「それでいいじゃないか」とも思う。問題意識が無いなりに何故自覚が芽生えたかと言えば、夫婦でいると(というより生物学的に別の個体と生活していると)自分の共感力の無さに否応なしに気付かされるのである。これは性差などではなく、個体差として捉えるべきなのだろう。捉えて欲しい。
Q.「共感」とは何か?
共感性の落ちこぼれとして、考えずにはいられない。「リーダーには共感力が必要だ」とか、「共感したらリツイート」とか、共感という言葉自体はよく見る。けれどもその言葉の意味は案外、深く考えなければわからない。
辞書的な意味では、次の通りだ。
共感(読み)キョウカン
[名](スル)他人の意見や感情などにそのとおりだと感じること。また、その気持ち。「共感を覚える」「共感を呼ぶ」「彼の主張に共感する」
(デジタル大辞泉より)
他人の意見や感情に同意する。気持ちを察する。概ねそういうことなのだろうけど、いまひとつ解像度が低い。他人は必ずしも意見や感情を表には出さない。それに、他人になることができないのだから、「他人の気持ちが分かる」なんて詭弁だ(こういうことを言って、諦めているから駄目なんだ。ごめんなさい)。
辞書的な意味を離れて概念の意味を考えるとき、よく逆の言葉を探す。紛争解決活動家の永井陽右氏の連載の中に、「よくできた合意形成というのは、全員の舌打ちとともに終わる」という言葉を見つけた。
「他人の意見や気持ちが全く分からない、だからどうでもいい」ではなく、「合意形成」という言葉にはどこか前向きなものを感じる。逆に他人の気持ちは分からないという前提に立った上で、それぞれが問題解決へと向かう。しかも、最後は全員が舌打ちをするらしい(最後にはお互いに同程度の不満が残るという)。
共感力の落ちこぼれとしては、共感で解決できない問題を抱えたときの解の一つとして合意形成を、是非とも採用したい。
共感の学術的意味
もう少し理解を深めるために、共感という言葉の学術的な意味を考える。共感を学術的に分類すると、次のふたつになるらしい。
・情動的共感
・認知的共感
情動的共感とは、他者の感情状態を共有すること。その起源は群れ生活を行う哺乳類であるげっ歯類にまで遡るという。効率的な採食や縄張り防衛のために群生活を行う彼らのあいだでは、違う個体どうしで互いの痛みを感じる情動伝染が起こる。何故かと言えば、一個体の生存よりも群全体の為に行動した方が、結果的に自分の生存に有利だからに他ならない。他個体への救済行動はつまり、巡りめぐって自分のためになることを見越した互恵的利他行動と言える。なるほど。
情動的共感については、こんな実験がある。2匹のネズミのうち1匹に電気ショックを与え、もう1匹がその様子を見ている。すると、電気ショックで痛がっているネズミを見たネズミは、痛がっているネズミと同じ痛みを感じたかのように、体がすくむという。
この他にも、1匹のネズミをケースに閉じ込め、もう1匹が助けるか否かを観察する実験などもある。この実験では片方のネズミが25分掛けて閉じ込められたネズミを助け出した。よかったね。
人間の共感力が全長数センチの超ミニサイズ哺乳類だった時代からあるなんて、ちょっと驚きだ。
それに対して認知的共感とは、その人が置かれている状況や、その人が世界を見る時に用いる枠組みなどを理解することだ。視点取得ともいい、人間特有の高度な共感機能である。これには必ずしも感情的同期は必要ない。言うなれば「理性」による共感である。
スモーカー大佐の脚に女の子がアイスをくっつけちゃった時も、別にスモーカーは怖がる女の子の感情をトレースしたわけではないのに「あ、めっちゃ怖がられてるな」というのを理性で察して「ズボンがアイスを食べた」ことにした。
共感には、情動伝染と視点取得の2種類がある。
余談だが、一般にサイコパスは情動伝染が滅多に起こらず、そのくせ視点取得の能力は人並みかそれ以上だという。対して自閉症は情動伝染が人並みであるのに、視点取得を苦手とする傾向があるらしい。サイコパスは人間を悲しませる方法を知っているくせに、自分は悲しみを知らない。自閉症は悲しんでいる人間の悲しみは分かるが、何故その人が悲しんでいるのかは分からない。どちらも世間では一様に「共感力に欠けている」特性とされているが、このように両者には大きな違いがある。
脳では、何が起きているのか
人間が共感するとき、脳では何が起きているのだろう。なんて、こんなことを調べたところで自分の共感性の無さがカバーできるわけもないのだが、こうして現象を理解することで、少なくとも「優しさが足りないからだ」などという情緒的な理由付けに動揺したりせずに済む。気がする。結局僕も、「すべての心の現象は生存に紐付いている」という極論にすがりたいだけなのかもしれない。
人もマウスも、肉体的な痛みを味わうことで脳の一部が活性化するという。具体的にはACC(前帯状皮質)と呼ばれる部位と、PFC(前頭前皮質)と呼ばれる部位だ。
また人は、自分が不幸や不遇といった社会的な痛みを覚えたときも、同じようにACCやPFCが活性化する。肉体と精神、どちらがダメージを受けても同じ部位が活性化するのだ。
では、他人の痛みはどうだろう。
他者が肉体的な痛みを感じるさまを観察するとき、自分の脳では、ACCとPFCが同じように活性化する。まるで自分が痛みを与えられたかのように、だ。
しかし一方で、他人が社会的な痛みを受けているのを観察している時は、別の部位が活性化する。RTPJ(右側頭頂接合部)と呼ばれ、霊長類だけができる自他の区別や他者意思の推測に関わる部位だ。
反応する部位が違うことから、他者の社会的な痛みを認知する能力は恐らく、ネズミが持つ痛み情動伝染のような原始的な共感能力とは別の由来を持つと言われている。
情動と認知、僕にはいったいどちらが足りないのだろう。恐らく、相手の状況を推理する能力、認知的共感が欠けている方だと思う。それはたぶん、「相手の立場に立つことができると考えるのは驕りだ」という僕の思想に少なからず起因している。そもそも思想として共感というものを信用していないからこそ、そういう態度が僕の日頃の暮らしに表出するのだろう。──であればやはり、冒頭に言ったように、共感で解決できない問題には話し合いと合意形成が必要だ。
絆ホルモン「オキシトシン」
犬とその飼い主が見つめ合う、あるいは赤ちゃんと母親が見つめ合うと、脳下垂体から「オキシトシン」というホルモンが分泌される。オキシトシンには心を癒したり、体の痛みを和らげる働きがあり、見つめられた赤ちゃんや犬の側にも同様の変化が見られるという。
また、母親は出産とともにオキシトシンが分泌される。これによって母親は出産と同時に子供に愛着を感じるようになる。一方で父親の側は、当然のごとく出産というプロセスを肉体的に経験するわけではない。言い換えれば、出産というイベントを経たからといって父親は無条件に子供を愛するわけではない。じっさい僕も、生まれたばかりの赤ん坊を見たときの感想は「赤くてガリガリの小さい人」だった。人から小さい人が出てくるのだ。ヤバすぎる。愛着とか、考えていれるはずがない。それでも、ある程度育児を重ねていくうちに愛着は感じるようになった(もともと自分に子供ができたら何をしよう、という夢想を重ねていたせいかもしれないが)。
共感による意志決定の危険性
共感の力は極めて文脈依存的で、同じ群れなどの身内には強く働くものの、親近感の湧かない相手にはまったく働かない(たとえばこんにちの状況からホ○エモンがいきなりお金に困る事態に陥ったとして、僕はホ○エモンをまったく可哀想だと思わないだろう)。
誰の痛みもわかるのならば共感性は本当に素晴らしい力だと言えるが、他人の痛みがむしろ自分の生存に有利に働くとなれば、痛みとは真逆の感情が生まれる。所謂シャーデンフロイデ──他人の不幸は蜜の味、というやつだ。
共感性の問題は外集団か内集団か、あるいは自分の生存に有利か不利か、という問題にすべて帰結するという結論は少々乱暴が過ぎるかもしれない。実際の人間のバックボーンは、社会的地位や性別、年齢、見た目など多彩な要素の集合だ。
──しかし、敢えて抽象度を上げようと思う。
僕たちは共感すべきか否かを判断するとき、本当に他者のそういった多彩なバックボーンを視野に入れているだろうか。
オキシトシンのせいなのか、はたまた脳の賦活によるものなのかは分からないが、僕たちは必ず頭のどこかに共感のスイッチを持っているのではないか。そして共感の基準は、対象が同胞か否か、という問題に帰結しはしないだろうか。
例えば、「日本の政治は堕落した。すべては官僚主導の仕組みのせいだ」というワードに、多くの共感が集まったとする。これは「官僚という外集団」を仮定し、自身の発言に共感の余地を広く持たせている。
逆に、こんな文章はどうだろう。
「○○省に勤める官僚の田中さんには小学生の子供が2人いる。彼は翌日の議会で政治家が使用する資料を数百部用意するため、勤めを終えた17:00以降も部屋に残り、黙々と23:00まで資料を印刷している。彼が帰ると子供は既に眠っており、その2人が起きる前に、彼は朝早く出掛けている」
この文章には、意図的に「定時後も働く等身大の個人」を演出している。同じ官僚について語った文章でも、同胞意識や共感を覚えるかどうかは語り方次第だとは思わないだろうか。
アラジンは貧しい子供達のためにパンを盗む。だが、じつはパン屋にとってそのパンがとても重要な意味を持つ大事なパンで、盗まれたことによって彼の家族がその日食事にありつけないとしたら……アラジンの行為は肯定できるだろうか?
恣意的に同胞意識を起こさせるアイコンは確かに存在する。
たとえば、紛争地帯に住む人々に対する支援を求めるポスターには決まって痩せた子供か女性が写っている。成人の男性も貧困に苦しんでいることに変わりはないのにだ。とりわけテロ組織の中には、仕事がなく、食べていくには武装し、やむを得ずテロを起こすしかない人達もいる。それでも人道支援の対象として選ばれるのは常に女性や子供である。何故かといえば、男性よりも共感されやすく、効果的に支援が集まるからに他ならない。
同胞への共感による意志決定は危険だ。その危険性を僕らはかつて、2016年のアメリカ大統領選で思い知った。ドナルド・トランプは国外からの移民やグローバル経済主義者を仮想の外集団として、「同胞」たちの支持を得た。自分の身内に対する連帯感はときに、外集団への攻撃性に変わる。彼らに敵と見なされた者はもはや、人間扱いされないのだ……さながら、戦時中の兵隊のように。
僕は、どうすればいい?
ここまで共感に関して、その学術的意味と欠点について考えてきた。一応の締めくくりとして、共感の定義をここで定めようと思う。
Q.共感とは何か?
┗生存のためにプログラムされた、同胞意識。
優しさとか思いやりとか、そういった情緒的な言葉を用いずに表現するならば、こんな感じか。LikeやGoodで盛り上がっている議論の多くは、突き詰めれば内集団への連帯と、外集団への攻撃に尽きる。「多方面から検証してみよう」などという意見はごく少数だし、あったとしてもそんな意見は誰の目にも入らない(し入ってもバズらない)。
共感による意思決定が危険だとするならば、どう物事を判断するのが賢明だろうか。ここでまた、冒頭に紹介した言葉を思い出してみる。
誰もが等しく舌打ちをするという合意形成だ。
本来共感の対象ではない外集団に対しても一定の理解を示すことで、内と外の双方に同程度の不満を残しながら問題解決へと向かう。共感力に関する脳のあらゆる部位が終わっている僕に残されたのは、この合意形成という道だ。
「他者の立場には立てない」という前提でいる以上、建前は無しに相手の本音を聞き出さなければならない。難しいことだが、それでも「気持ちを察しろ」とか情緒的なことを言われるよりは納得感があるし気が楽だ。共感なんてしなければ、だんだんと「同胞」と呼べるカテゴリの範疇を広げられる気がする。
共感できない劣等感はもう捨てよう。これは、僕の決意表明だ。これからは、合意形成を軸にしていこう。と思う。
参考資料:
永井陽右「共感にあらがえ」……朝日新聞&M
長谷川寿一「共感を科学する:その進化・神経基盤」……国立情報学研究所
北野唯我「『共感力』が経営を殺しうる理由」……講談社マネー現代
宇野常寛「遅いインターネット」……幻冬舎
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