優しくしなければ、なんて
廊下で人とすれ違う。
私は窓の外の景色や空間のメタ認知で忙しい。
人間に意識も向けないだろう。気付かなければ。
私がつくりたいのはこういう瞬間なのだと思う
分からなければ分からなくていい。それがいい
例えばその人がもし白杖を持っていたり、明らかに困っていたら、きっと意識する人は多い。その善意を否定するつもりはない。
でもその善意はその環境の下に発生している。つまり、誰かに優しくないような環境が人に優しさを思い起こさせる。そして忘れてはいけない、私は環境をつくる側の人間(になる予定)なのだ。
「障害」は確かに在る。それを持つ人もいる。人の身体は一人一人違う。
だからこそ、差異の上(下?)の平等こそ建築家がつくれるものであり、用意しなければならない土壌だと思っている。思うようになった。でも言っておきたいのは、私は点字ブロックや案内表示や手すりをべたべたに取り付けたい訳ではない。それは勿論確かに優しくて、あるというのも良くないとは言わないが、人の優しさに感けて建築がさぼっているようにも見える。
違う人間がその人のままで、各々自然にいられるように。普通が誰にとっても普通である為に。「何か」に気付くことのない空間をつくりたい。全然まだまだ机上の空論の横にある理想だけど、前からあんまり進んでないけど、出来るものが皆の目に適う真新しさかは分からないけど、そういうスタンスでいる。